柚凪。インタビュー|703号室から柚凪。へ、新たな思いで音楽と向き合う

703号室として活動していたシンガーソングライターの岡谷柚奈が、“柚凪。”として新たなスタートを切ったのが2025年6月。その後、彼女は順調にリリースを重ね、年末には東京・shibuya eggmanで、柚凪。名義では2度目となるワンマンライブを行うなど充実した活動を展開している。

「偽物勇者」をはじめ、数々のヒット曲を持つ柚凪。はなぜ、703号室としての活動に幕を下ろし、新たな名義で活動を始めたのか。どのような遍歴を経て、現在の活動スタイルに行きついたのか。その理由や音楽的なルーツを探るべく彼女に話を聞いた。

取材・文 / 真貝聡撮影 / 堅田ひとみ

歌手だったらいけるかも…?

──柚凪。さんは小学生の頃、ミュージカルに出演されていたそうですね。

そうなんです! 双子の妹がミュージカルに出ている姿を見て、「すごく楽しそうだな」と思って。小学3年生のときに私もミュージカルを始めたのが、初めて歌に触れたきっかけでした。

──入団テストとかはありました?

いえ。私が所属していたのは地元の公民館でやっているような、誰でも入れる子供限定の劇団で。ただ、入ってからは年1回の公演があって、それはオーディションに受からないと主役になれなかったです。妹は主役しかやったことがないぐらいの超演技派で、大人を泣かせるほどお芝居がうまいんですよ。一方、私はまったく演技ができなくて、一度も主役になれなかったんですが、その劇団では同じく年1回の歌のコンクールがありまして。全国に複数ある劇団だったので人数が多くて、地方予選に合格しないと本選に出場できなかったのですが、妹は本戦に進めなかった中、なんと自分が出られることになって。「初めて妹に勝てた!」といううれしい経験をきっかけに「私、歌が好きかも……!」と自覚しました。

──そこで音楽を仕事にしようと考えた?

その頃は、ただ褒められるからやってるくらいの気持ちでしたね。中学でソフトボール部に入って、部活が忙しくなったので、そのままミュージカルは辞めました。そこから高校受験を機に、再び歌を始めるんですけど……ちょっといろいろありまして。

──“いろいろ”と言うのは?

最初は音楽の道を志そうとして歌を始めたわけじゃなくて、とにかく高校に行きたくなかったんですよ。部活を引退して受験期に入ったら、勉強するのが嫌になって。高校受験に受かったとしても、そこから高校の勉強が3年間待っていて、大学に進んだらプラス4年も勉強することになるじゃん……!と。

──まだまだ学問の道は長いじゃないかと。

これは気が狂ってしまう、と当時の私は思って(笑)。それで、どうしたら勉強から逃れられるのかを考えました。ちょうどそのときにアイドルの方や女優さんが「学生時代は芸能活動が忙しくて、ほとんど学校に行けなかったです」と話しているのをテレビで観て、「あ、芸能人になればいいのか……?」って。

柚凪。

──なんて不純な動機なんだ(笑)。

ハハハハ。それで、親に内緒で芸能事務所のオーディションに応募したんです。応募用紙の記入欄に「あなたの志望するものはなんですか?」みたいなアンケートがあって。歌手、タレント、女優、モデルとかいろいろ書かれていて、消去法で「まあ……歌手だったらもしかしたらいけるか……?」と思ってチェックを入れました。今思い返すと、誰でも受かるようなオーディションだったんですけど、私もなんとか合格できまして。それで中学3年生のとき「ここに誰が来るの?」みたいな小さなライブハウスで歌い始めたところから、音楽の道に進みました。

──「自分はこんなことを歌で表現したいんだ」という高い志があったというより、勉強を避けるために歌手を選んだと。

そうですね。「とにかく嫌なことから逃げたい!」という気持ちでいっぱいでした。ただ、道を選択するときに「私は歌うことが好きかも」と自分の気持ちに気付けたことはとても大きかったです。

──でも、高校に進学されましたよね?

はい。塾の先生や周りの大人が「歌手になるなら詞を書くでしょう。それなら高校生活は経験しておくべきだ」と2時間ぐらい熱く説得されて「行ってみようかな……」という気持ちになりました。なるべく楽しそうな授業を受けたくて、千葉県内で主に被服や調理の勉強をする家政科がある高校を選んで。そしたら5教科プラス家政科の授業を受けなきゃいけなくて、結局勉強かよ……!って絶望しました(笑)。

──ハハハハ。確か、芸能活動がOKな高校だったんですよね。

そうです。千葉県内で行きたかった高校に電話で問い合わせて、芸能活動がOKだったのは2校のみ。片方は英語に強い高校、もう片方は家政科専門の高校でした。後者は毎週、調理実習があって。調理実習なら楽しそうという安直な理由で高校を選んだんですけど、そこの学校は調理や被服のプロになるために通ってる、やる気のある生徒ばかりで。私の成績はいつも最下位か、下から2番目でした。

精神面が鍛えられた大阪武者修行

──その後、通信制の高校に転校されたり、単身大阪へ行ったりと転々とされて。

よくご存知で! とにかく最初に入った高校が、調理や被服の授業で忙しかったんですよ。常に洋服を作ったり野菜を切ったりする日々が続いて「アレ? 私は何をやってるんだ?」と思って。

──「勉強から逃げるはずだったのに、なんだコレは?」と。

その学校では、1年生全員が食物検定4級を受けることになっていたんです。合格条件は30秒以内にキュウリを2mmほどの厚さで50枚切ること。開校してから1人も落ちた人がいなかったらしくて、「絶対に大丈夫だから、安心しなさい」と学科の先生に言われたんですけど、なんと……落ちたんですよ……。入学してから「自分は絶望的に手先が不器用だ」と気付いて、被服では1を取ってしまって。その影響で友達関係もあまりうまくいかなくなってしまったんです。音楽もできないしメンタルもぐちゃぐちゃで、両親に「転校したい」と相談しました。母は「その選択が甘えとか逃げじゃないならいいよ」と言ってくれて、先生にも一緒に何度も話してくれました。先生からも「よくがんばったね、音楽1本に集中しなさい」と言ってもらえて。不器用なりに必死だったので、うれしくて泣いてしまったことを覚えています。そうして無事転校が決まって。理由がちょっと変わっていたので、通信制の高校に行くことになって。「通信で時間もできるし、精一杯音楽やるぞ!」と。

柚凪。

──通信制の学校は肌に合いました?

うーん……友達も先生も優しかったけど、とにかく暇になってしまって困惑しました。2週間に1回しか学校に行く日がなくて、基本はただ寝て起きてバイトするだけの生活。曲も全然書けなくて、「これではダメ人間になってしまう」と思い、せっかく時間があるから“武者修行”に行きたいと考えました。親に相談したら最初は「何をバカなことを言ってるんだ!」と拒否されましたけど、両親も本当に私の夢を応援してくれていたので、最後は了承してくれました。それで、母がたまたま知り合った方に、大阪で飲食店を経営されてる社長さんがいて。「ウチの娘がどこか遠くに行きたいと言ってるんですよ」と話したら、その社長が「ほんなら、ウチで働きいや」と言ってくださったんです。そこから大阪に行って、住み込みバイトで一人暮らしをしながら、学校がある日だけ地元に夜行バスで帰ってました。

──2週間に1回は帰省して、それ以外は大阪で生活をしていたと。

バイト先は大阪の香里園にある肉バルで、そこのお店で流しのライブをやらせてもらっていました。店長と約束したんですよ。「体調が悪くても、お客さんが0人でも、学校が忙しくても、毎週水曜日はここで歌う」と。

──すぐにお客さんは集まったんですか?

いえ、お客さんが1人もいないときもありました。店長が「とにかく歌を聴いてもらおう」とお店の窓やドアを全開にして。そんな環境で歌い続けていたら、通りがかった人とか、お店の常連さんも聴いてくれるようになりました。大阪を離れる最後のライブでは、お店からあふれるぐらいの人が来てくれたんです。「うわあ、ライブって楽しい! 聴いてもらえるのってうれしい!」と心から思いました。

──聴いてくれる人がいなかった時期も、ライブを続けたわけですよね。そのバイタリティはどこにあったんですか?

店長や社長が「聴いてもらわな、歌う意味がないねんから!」と言ってくれて、すごく協力してくれたんですよ。あとは、大阪で助けてくださった皆さんが、バリバリの大阪人で「姉ちゃん、ちゃんとしいや!」と激励してくれて。そうして精神面が鍛えられた結果、人見知りで「いらっしゃいませ」すら言えなかった私が、気付いたら人前で堂々と歌えるようになってました。

柚凪。

703号室がもたらした影響

──その後、地元の千葉に戻ったのはどうして?

私、バイト先のバイトリーダーのことがめちゃくちゃ好きで。「カッコいい! 私はこの人とこの街で生きて、ずっと大阪で音楽をやっていくんだ」と思ったんです。でも「いや、待てよ」と思い直して。そもそも音楽を始めた理由が、高校に行きたくなかったのと、もう1つあったんですよ。それは、有名になって東京ドームに立つこと。そのために音楽を選んだので「大阪でこの人と一緒にいても、東京ドームには立てないか」と思って地元に戻りました(笑)。

──それで横浜の音楽専門学校に進学された。

はい。「みんなが、そこがいいって言うから行ってみよう」くらいの軽い気持ちで選んだら、すごくいいクラスメイトに巡り会えて、703号室というバンドを結成することになりました。

──面白いのが、結成して間もない頃は「デイズニーランドみたいなバンドになろう」と言っていたとか。今やっている音楽と全然違いますよね。

ハハハ、違いますね! 私はJ-POP、J-ROCK、ディズニーとかきらびやかな音楽がすごく好きで。どんな音を届けたいかよりも、自分の好きな音楽を聴いて「私もこういうのを歌いたい」と真似事をするアウトプットしかできなくて。当時の「ディズニーみたいな」と言っていたときは、たぶんディズニーにドハマりしていたから、そう言ったんだろうなと思います(笑)。

──どこでモードが変わりましたか?

去年の1月に、自分のやりたいことが明確になった出来事があったのと、あとは703号室を結成してから、いろんな音楽を聴くようになったんです。ジャズ、クラシック、R&B、ヒップホップもそうですし、劇判とかインストも好きになっていって。そしたら音楽に対しての意欲がどんどん湧いてきて「こういう音を出したいな」「こんな曲を生み出してみたい」と、自分のやりたいこともガラッと変わっていきました。