米津玄師|“終着点”のその先で見つめたもの

みっともなさを1曲にぎゅっとまとめたかった

──そういったいろんな経験を経て新作ができたということは、普遍性を目指して進んできたこれまで数年間の米津玄師の2周目をするわけにはいかないという、新しい危機感のスイッチが入ったということだと思うんですね。特に「Flamingo」を聴いてそう感じたんです。というのも、曲にしろ歌詞にしろ明らかにこの曲は“変な曲”ですよね。

変な曲ですね。

──これはどういったふうにしてできたんでしょうか?

米津玄師(Photo by Jiro Konami)

一念発起して「よし作ってやろう」という感覚があったわけではなくて。なんとなくなんですよね。最初はフォルクローレと言うか、スペインの民族音楽みたいなものが作りたかったんです。三連符でギターをジャカジャカ弾くような、ああいうエキゾチックな感じがすごくいいなと思って、そういう曲を作れないもんかと思ってやっていくうちに、気が付いたら日本の民謡にコネクトしていって。最終的には島唄とか都々逸とか、そういうものになってきた感じです。

──コンセプトありきで作っていったわけではなく、作っているうちにだんだんそういうものにスライドしていった。

「Flamingo」に関しては、対面に人がいなかったのが大きいかもしれないですね、今までは「打上花火」のDAOKOちゃんとか、「灰色と青」の菅田(将暉)くんとか、もっと言えばタイアップ先の作品だとか、そういうものがある中で曲を作ってきたんですけれど、今回はそうではない。そうなったときに、自分の中にあるぐずぐずしたものとか、みっともなさとか、そういうものをまだ誰も聴いたことがないような形で出せたら面白いなっていうのはなんとなく考えてはいました。

──「Flamingo」にはいろんなボイスサンプルが入っていますよね。唇を震わせたり、喉を鳴らしてみたり、咳払いとか「あ、はい」みたいな会話の断片のような声も入っている。これは曲が完成したあとに足していったんですか?

いや、それありきでしたね。最初はベース、キック、スネアみたいな最小限のシンプルな形でワンコーラスくらいを作ってたんですけれど、そういう声を入れた瞬間から「これだな」と思って。それを軸に自分の声の肉体性みたいなものを今まで以上に曲に落とし込むやり方をしました。

──今までも米津さんの曲にはいろんなボイスサンプルが入っていましたけれど、今回はそういう自分の声が曲のスパイスではなく、むしろ主役になっている。それは、タイアップやゲストがないことで自分に向き合った曲作りになったということと、どういうふうに結びついているんでしょうか?

この曲はお酒を飲んでるときのことを思い出しながら作ったんです。最近の自分のモードとして、お酒を飲んでるときにしょうもないことをやってピエロになると言うか、享楽的に生きている人間のコスプレをあえてすることによって今までと違うところに向かっていきたいというのがあって。「Flamingo」に入ってるのって、そこで培ってきた声ネタなんですよ。いろんな声が入ってるんですけど、その1つひとつに自分の中ではコンセプトがあって。例えば「あ、はい」みたいな生意気な声があるんですけれど、それは相手から叱られたり説教されてるけれど自分自身は1つも悪くないと思ってるときの「あ、はい」なんです。あとは、「えっ?」って聞き返してるような声も入っている。これは向こうが言ってることがどう考えてもおかしいと言うか、軸がぶれてる発言をしてるときに、わざと聞こえなかったふりをするときの「えっ?」なんです。よくやるんですよ。そういう声ネタの1つひとつに、ある種のみっともなさが入っている。

──みっともなさと言いましたけど、それは怒りや苛立ちでもあったりするんじゃないですか?

苛立ちでもあるし、自分のチャランポランな感じというのもありますね。怒りもあるにはあるんですけど、でも、怒りも紐解いていけば、例えば相手を挑発してやろうとか、そういう自分の中のしょうもない感覚から来ているものであって。そういうみっともなさを1曲にぎゅっとまとめたかったんですよね。

結局どう考えても自分は日本人でしかない

──曲調や歌詞には和の世界観が前面に出てきていると思いますが、そこに関してはどうでしょう?

そこはやっぱり、自分が日本人であるという意識の問題だと思います。ずっと自分は、日本人としてJ-POPを作ろうとしてきて。「日本人が共感できるようなものってなんなんだろう」と思って。歌謡曲とかニューミュージックとか、いろいろ日本の音楽の歴史を探していくうちに、根源的なものってやっぱり民謡だとか、そういうところにたどり着くんですよね。日本を取り巻く環境の変化とか、海の向こうの音楽シーンに対する意識が大きくなればなるほど、結局どう考えても自分は日本人でしかないというところに行き着くわけで。そういう自分のアイデンティティをどう見つめていくかっていうのは、ボカロ時代からずっとやってきたことだったんですよ。

──確かに、聴いたときの第一印象で、ハチ名義の「結ンデ開イテ羅刹ト骸」を思い起こしました。「Flamingo」とはまったく違う曲調ですけれど、あれも民謡につながるところがあると言うか、祭り囃子に乗せて虚無的なことを歌っている曲ですよね。

昔からそういう日本のオリエンタルな文化に対する憧れみたいなものってあったんだろうなと思いますね。ハチとしてやっていたあの当時、ほかのボカロPと話してたときに「『結ンデ開イテ羅刹ト骸』って変じゃない? あの曲だけ浮いてない?」みたいなことをよく言われて。それに対する答えが1つも浮かばなかったんです。確かに今までああいう曲は1つも作ってこなかったし聴いてこなかったのに、なんでああなったんだろう?っていう。でもそれも紐解いていけば、自分は日本人であるっていうことしかなくて。

──もともと不思議な回路が自分の中にあって、「Flamingo」はタイアップを想定せずに書いたことで、それが100%開花した曲だった、と。

そうですね。

米津玄師(Photo by Jiro Konami)

どこか稚拙であったとしても吐き出さざるを得ない感覚を大事にした曲を作りたい

──では「TEENAGE RIOT」はどうやって作った曲だったんでしょうか?

これはそもそも「Lemon」のカップリング用に作った曲だったんです。「Lemon」がああいうバラードみたいな曲だったので、カップリングはそれとはまったく違う対照的な曲を作ろうと思って。でも、スタッフに聴かせたら「これは表題曲のほうが似つかわしいから次回に出そう」と言われて「それはそうかもしれない」と思ったんですね。表題曲かどうかは自分だけで決めることじゃないし、自分は曲を作るにあたって全部ポップな曲にしたいし、どれがリード曲という立ち位置になっても差し支えないような強度を持ったものを作ろうと思っているので。でも締め切りギリギリだったから、パツパツになりながらほかの曲を作った記憶が残ってますね。

──この曲も「灰色と青」などと同じように、自分の過去をテーマにした曲ですよね。ただ、「灰色と青」や「パプリカ」が幸せな子供時代の歌であるのと対照的に、これは鬱屈した思春期の歌になっている。このあたりはどうでしょう?

そもそもの話をすると、この曲は中学生の終わり頃に作った曲がサビのメロディのもとになっているんですよ。Vocaloidをやる前にニコニコ動画に投稿していたんで、そのときのことを知ってる人がいたら……めちゃめちゃ少ないとは思うけど、聴いてわかると思います。

──曲の核心の部分に思春期の自分がある。

今、中二病っていう言葉がすごく便利なワードになってるじゃないですか。自分もよくそう言われるし、なんならその筆頭みたいなところもある。そういうことに対して思うところもあって。初期衝動的な自分の感情をなんの枷もなく吐露することに対する恥ずかしさってあるじゃないですか。それが恥ずかしいことであるっていうことは間違いないんですけど、でも、今のSNSの時代って、そういうものにすぐツッコミが入っちゃうと思うんです。たとえばTwitterに自分の感情を吐露するようなことを書くと、やれポエムだ中二病だメンヘラだと言われてしまう。でもそれは当人にとっては、すごくシリアスな感情であって、吐き出さざるを得ないような言葉なんですよね。それがお手軽な言葉に全部回収されてしまって、相手にマウントをとられる材料になってしまう風潮に、個人的には「嫌だなあ」と思うところがあるんですよね。だからこそこういう、衝動的な……どこか稚拙であったとしても吐き出さざるを得ない感覚を大事にした曲を作りたいという思いはありました。