清春のデビュー30周年記念番組「黒夢・SADS限定復活!清春デビュー30周年記念6カ月連続WOWOW特集」がWOWOWにて10月から6カ月連続で放送および配信される。
10月と11月にはSADSが特集され、約20年ぶりに初期メンバーで限定復活したSADSの2DAYS公演の模様と、清春がセレクトしたSADSのミュージックビデオの数々が本人インタビューも交えて放送される。12月と来年1月には清春のソロ活動を特集し、バースデーライブの模様と本人がセレクトしたMV集をそれぞれオンエア。2月と3月には、黒夢の一夜限りの復活ライブ、そして同バンドのヒストリーをたどるMV集が放送される。
これらの特集の放送を前に、音楽ナタリーでは清春にインタビュー。6月に終えたSADS復活ライブの感想や黒夢復活ライブへの思い、そして30年の歩みや人との出会いについてなど、たっぷりと語ってもらった。
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取材・文 / 真貝聡撮影 / 森好弘
「もういいだろう」という感覚があった
──清春さんのデビュー30周年を記念した番組「黒夢・SADS限定復活!清春デビュー30周年記念6カ月連続WOWOW特集」が、10月から6カ月連続でWOWOWにて放送・配信されます。メモリアルな企画が立ち上がった心境はいかがですか?
30周年を迎えて何をするのか、最初は僕と事務所とツアーの制作会社だけで話し合っていたんですよ。それがWOWOWを絡めた大きな話になって……局内に信者がいるとしか思えないですね(笑)。
──いやいや、それだけ清春さんの存在や功績が大きいということですよ。今回の特集は、約20年ぶりに初期メンバーで限定復活したSADSの2DAYS公演だけでなく、2月9日に行われる黒夢の一夜限りの復活ライブの模様も放送されます。そもそも黒夢とSADSの復活を決めたのには、どのような思いがあったのでしょうか。
今55歳なんですけど「元気なうちに何ができるかな?」と考えるようになって。今回は30周年だから、いろんなことに対して「もういいだろう」という感覚があったんですよね。
──もういいだろう、ですか?
前は焼き直しみたいなことはやりたくないと思っていたんですけど、別にもうそこにこだわらなくてもいいのかなと思い始めたんです。今回は60本以上という自分史上最多となるツアー(「清春 debut 30th anniversary year TOUR 天使ノ詩 『NEVER END EXTRA』」)を開催する中で、これまでの活動でライブをしたことがある思い出の地へ行くんですね。例えば11月8日から10日までは、名古屋MUSIC FARMでライブをすることになってて。そこは黒夢発祥の地であり、デビュー時にも3日連続でライブ(「地獄の三夜」)をした思い出の場所なんです。ほかにも30年の間に仲よくしてくれたライブハウスとか、今後は行けないだろうなと思っている場所にも行きますね。
──30年間で築いてきた縁をもう一度結び直す、というか。
うんうん。その中でSADSとか黒夢をもう一度やってもいいのかなって。だけど昔のメンバーの連絡先を知らないから、SNSのDMとかで「清春です、お元気ですか? デビュー30周年の節目なんですが、また一緒にやってもらえませんか?」とオファーを出したら、みんなに快く受けてもらえまして。あくまで僕のツアーの一環としてやるのであれば、30周年はちょうどいいタイミングだなと。今目の前にいるファンの皆さんも納得してくれるだろうし、黒夢やSADSだけを観に来る人も、僕が音楽を30年続けてきたことくらいは理解できるだろうしね。
──SADSや黒夢のメンバーとひさびさに再会して、何を感じましたか?
SADSは6月に復活ライブを終えましたけど、かつて地獄のようなツアーを一緒に経験した同世代のメンバーですから、また集まれたのがシンプルにうれしくて。ギターの坂下(丈朋)くんも今やいろんなところで弾いていますし、ベースの小林(勝)くんはザ・クロマニヨンズで長く活躍していますし。SADSは財産というよりも“楽しい仲間”という印象が強いですね。「まだやってんだね」「何歳になったの?」とお互いに言い合える。坂下くんと小林くんは僕より1歳上だから「56歳ってどういう気持ち?」って聞いたりとか、面白おかしくやれるのがSADSですね。ある撮影でひさしぶりに人時くんとも会ったんですけど、黒夢の場合は10年ぶりに再会してもひさしぶり感がなくて。時空が歪むって言うんですかね? 一緒にやっていた頃や地元で遊んでいた頃とも違う。懐かしいというよりは、お互いが大人になって、違った生き物になっている感覚がある。うん、不思議ですね。
──対して、ソロは清春さんの中でどのような位置付けでしょうか。
一番わがままに今を生きてやってるのがソロですよ。音楽形態や編成もそうですし、サウンド作りやライブも一番こだわっていて。僕に対して何かしらのイメージを持っている人がいるとすれば、そういうパブリックイメージと一番遠いところに存在しているのが“清春”の音楽かとは思います。バンド時代と比べて“サバイブ”という言葉がしっくりくるのは清春ですね。長年続けてきたからこそ、ここ数年で「30代の頃はあんなにもがいていたのに、悩みを解決するのは意外と簡単だったんだ」とか「あのときなんで自分の見られ方を変えようと必死になっていたんだろう?」と感じるようになりました。結局は音楽を聴いてもらえれば一発で伝わると気付けた。これまでのキャリアで一番時間と愛をかけてきたし、リリースした枚数も多い。その反面、作品を出せば出すほど飽きられていくのも早かったとは思う。伝説からは一番遠いですけど、自分という人間がチャレンジを続けた20年。葛藤も喜びも一番多かったのが清春の活動ですかね。
──見られ方に対して「解決するのは意外と簡単だったんだ」と気付いたのは、何かきっかけがあったんですか?
意識してそうしたわけじゃないんですけど、だんだん関わる人が変わっていったんですよね。レコーディングやライブでプレイしてくれた人が何人もいて。その人たちと何年かぶりに会えたときに「え、意外! 今はこんなことをやってるんだ」と驚かれることが多かったのも、気付きを得るきっかけだったと思います。まあ、振り返るといろいろあるんですよね。(佐藤)タイジくんがソロになって間もない頃にギターを弾いてくれていたんですけど、タイジくんとも最近一緒にやることによってTOSHI-LOW(BRAHMAN)くんとも知り合えたかな。あとは昔の僕を知っている人の存在も大きいですかね。黒夢やSADSのファンだった人たちが第一線で活躍するようになって、同じ目線に立つ機会が増えたのも、自分が変わっていく要因の1つだとは思います。勇気を出して「じゃあ、僕もこの人に演奏してもらおう」とお願いしたり、そういうのが前よりもスムーズになった。
──年齢やキャリアの垣根を超えて、いろんな人と接するようになったと。
今ライブでサックスを演奏してくれている辻コースケくんもだし、栗ちゃん(栗原健)もドラムのSATOKOちゃん、鍵盤の加藤エレナちゃんも、これまでは一緒にステージに上がることがなかった人たちなんですよ。あとは後期SADSのK-A-ZくんやGOくんからつながったcoldrainのKatsumaとか、いわゆるV系ではない人たちとの出会いが増えていった。そういうのも、ヒット曲の存在が自分を助けてくれた部分はデカいと思います。あまりイベントには出ないですけど、たまに呼ばれて黒夢の「少年」(1997年発表)とか、SADSの「忘却の空」(2000年発表)を演奏すると、僕を好きとか関係なく盛り上がる。それは自分自身にいい影響をもたらしてると思います。
ミュージシャンとして自分に何ができるか
──ライブの話で言うと、今年1月に発生した能登半島地震で被害にあった石川県・珠洲市宝立町へ行き、住民の要望に応えてフリーライブをされたときには、涙を流している方もいましたね。
「IWGP(「忘却の空」が主題歌だったテレビドラマ「池袋ウエストゲートパーク」)」の知名度が高いおかげもあって、ある一定の世代の人たちには僕の存在を知ってもらえている感じは感謝してますよね。被災地でライブしたら40代前半ぐらいの、今、被災した街をどうにかしようとしている人たちが集まって喜んでくれてさ。そういうふうに喜んでもらえるのは強みかな。いろんなことが今につながっている気がしますね。「JAPANESE MENU / DISTORTION 10」(2020年発売のアルバム)では、知的障がい者の方たちのアートとコラボしたんですけど、そういった新しい機会もちょっとずつ増えてきている。あと30周年だし、去年ぐらいからテレビにも出てみようと思ってて。
──今年は「水曜日のダウンタウン」(番組内企画「清春の新曲、歌詞を全て書き起こせるまで脱出できない生活」)や「ラヴィット!」にも出演されましたよね。
うん。テレビに出るときは、あえて「55歳」という年齢を出すようにしているんですよ。40代とか同世代の人たちが見て「俺もまだがんばれる」って思えるような存在がいたほうがいいしね。それが音楽活動につながるかどうかは置いといて、ミュージシャンとしても自分に何ができるかを常に考えてはいますね。ネットの世界とテレビの世界と、フェスとかライブの実演の世界が、あまりに分断されてるじゃない? だからこそ、テレビに出られる人は出ていったほうがいいと思うんですよね。若い人はテレビを観ていないと言われているけど、主婦の人とか会社である程度の役職に就いてる人とか、テレビを観ている中心の世代の多くは僕のことを知っているので。そこを生かしつつ音楽では常にチャレンジしていく。あと何年できるんだろうというところで、いろんなことを動かしてみています。その一方で長いツアーは約60本のうち半分が終わりましたからね。
──そうですね。ちょうど折り返し地点ですけど、メンタル面や体調はいかがですか?
気持ちは楽ですよ。なんて言うのかな……家族サービスのように毎週ライブしてますから(笑)。
──ハハハ、週末のお父さんみたいな。
昔のお父さんで言うところの「週末は育児」じゃないですけど、週末はファンの人と一緒に楽しんでますね。
“丹修一”というキーワード
──番組の特集では「Music Video Collection」と題して、清春さんがセレクトされた黒夢、SADS、ソロのMVも放送されます。
主に黒夢のMVを撮っていたのが、映像監督の丹修一さん。丹さんが有名になる前から一緒に新しい映像を追求していたんですよね。初めてご一緒したのが「ピストル」(1996年発売の7thシングル)で、そこから「Like @ Angel」(1996年発売の8thシングル)、「NITE & DAY」(1997年発売の9thシングル)、「Spray」(1997年発売の10thシングル)、「少年」、「MARIA」(1998年発売の12thシングル)なども撮ってもらったから、黒夢のMVを語るうえで丹さんは大きなキーワードだと思うんですよ。
──出会いのきっかけはなんだったんですか?
EMIからの紹介だったと思うんですけど、丹さんの手がけた映像を観てすぐに「あ、いいな」と思ったし、何より丹さん本人がカッコいいと思って。当時から「カッコいい人と仕事したい」というのがあって。スタイリストの小川恭平も「この人、いいと思うよ」と言っていて、そこからご一緒するようになりましたね。あと、初期のMVで言うと「ICE MY LIFE」(1994年発売の2ndシングル)は、河谷(英夫)さんという監督がすごくがんばってくれて。撮影中に帰ろうとする僕を必死に止めてくれたんですよ(笑)。
──ハハハ! なんで帰りたかったんですか。
若かったから途中で「もうできない」とか言ってさ。それに何回も撮るわけよ。ヴィジュアル系だからとにかくいい表情が必要で、顔のアップを5時間ぐらいかけて撮ってた。途中で「これはつらいな……」と顔も疲れてきて、気持ちが落ち込んだところを「大丈夫だよ、清春くんならできるよ!」と励まされながらがんばって撮影したのが「ICE MY LIFE」でした。
──「ICE MY LIFE」は、黒夢が大きく路線変更したMVでもありますよね。
そうそう。「黒い服・濃いめのメイク・長髪」という、いわゆるヴィジュアル系だったのが、「ICE MY LIFE」でバッサリ髪を切って、それまでとは露骨に違うアプローチを始めたんですよね。でも少し方向性に迷う時期があって、もっとカッコよくならないとなあと思っていた時期に丹さんと出会って、「ピストル」で新たな方向へ舵を切ってもらった。あと強く思い出に残っているのは「Like @ Angel」かな。ロケで初めてメキシコに行ったんですよ。帰りにロスに寄って、MVの色を調整するカラーリストとも仕事をしてみんなが刺激を受けて。あ、当時その旅の終わりにマックスフィールドに行ってファーストクロムハーツを買いましたね。「少年」の撮影では小川恭平さんに衣装を用意してもらっていたんですけど、私服から衣装に着替えようと上の服を脱いだら、小川くんが「あれ、ジーパンだけ履いてればいいんじゃん? 清春くんもう服はいらないよ」と言い出して。丹さんも「よし、それでいこう!」となってました。
──急遽、裸に私服のジーパンで撮影することに決まったんですか。
そうそう。ちゃんとスタイリストもいたけど、現場で裸の僕を見ているというね(笑)。しかもあのMVはほとんどヘアメイクもしていなくて。メイクさんもいるけどできるだけ何もしない感じで撮った。当時28歳、あのMVで黒夢のイメージはだいぶ変わったかも。当時の市民権を得たというかね。お気に入りのMVを挙げるなら「ピストル」「Like @ Angel」「少年」かな。
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今では想像を絶する予算