アイドル期はみんな僕を使って楽しんでいた
──ライブがメモリアルな内容だったこともあり、昔のことも少し振り返らせてください。デビューしてからは、テレビ番組にずっと出ていたし、レコードだって年に何枚も出すようなペースでしたよね。その時期のことって覚えていますか?
細かな記憶はちょっとわからないなあ。自分より当時自分のことをテレビやコンサートで観てくれていた人のほうが覚えてるの。サッカーの三浦知良いるでしょ? 彼はね、「トシさんこの曲『夜のヒットスタジオ』で歌ったんですよ。赤い服を着て……」みたいに当時の僕の印象を教えてくれるの。僕にとっては「夜のヒットスタジオ」をはじめ、音楽番組に出るのは毎週のことだったから、相当なインパクトがなかった限りはなかなか覚えてないよね。
──僕も当時は子供だったので、それこそ田原さんの曲はテレビで聴くのが主だったんですけど、あるとき「今、聴き返したらどんな感じだろう?」とレコードを手当たり次第に聴いてみたんですよ。そしたらアルバムだけにしか入っていない曲やシングルのB面とかにすごくカッコいい曲がたくさん入っていて。
僕は「哀愁でいと」で始まったし、そういうイメージだと思うんだけど、B面やアルバム曲にもわりといい曲があるんですよ。目立たない曲も網倉一也さんとか小田裕一郎さんとか、いろんなそうそうたる方が書いてくれていたんですが、ジャニー(喜多川)さんが「田原俊彦は赤で、派手で、華やかで」とシングル用に選ぶのはやっぱり派手な曲。「君に薔薇薔薇」「恋=Do!」「NINJIN娘」みたいなメジャーなところはね、「僕が全部持っていくぞ!」みたいな曲ばかりなんです。「ジュリエットへの手紙」というバラードがあるんですけど、あの曲はすごくファンから人気があるんです。ほぼ毎年僕はファンクラブのイベントで歌ってほしい曲のリクエストを募るんですけど、そこでも人気。ファン投票で上位の曲だけじゃなくてたまに100位くらいのも入れるんですけど、そうするとバカウケするのよ。自分でも隠れた名曲が多いんだなと思いますね。
──初期のアルバムには1曲目に必ずちょっとファンキーで大人っぽいサウンドの曲が入っていますよね。
そうなのよ。ディレクターさんがゴージャスでハリウッド感のある世界が大好きで。当時は僕がまだ全然歌えなくてボーカルがとんでもないことになっているけれど、今剛さんとか超一流のスタジオミュージシャンをそろえてレコーディングしていたんです。ディレクターが僕の7つ、8つ上だったんですが、僕は文句を言わないし、当時の人気からするとたっぷりとお金をかけることもできたし、相当ゴージャス感満載で遊んでたんですよね(笑)。最初期はメリー(喜多川)さんが「この子はトシのために」と連れてきてくれた宮下智さんが、「ハッとして!Good」をはじめ、田原俊彦の世界をずっと作ってくれていたんです。その後も、みんな僕を使ってゴージャスな音楽作りを楽しんでいたんですよね。僕はもっとシックなやつとかクールなやつをやりたかったんだけど、「いやー、トシは踊ってなんぼだから」って(笑)。
68歳の田原俊彦も「まだまだ君臨するぞ」
──田原さんが「びんびんシリーズ」(フジテレビ系列で1987年から放送されたテレビドラマシリーズ)に出演し始めた1980年代後半くらいからのことを僕は“びんびん期”と呼んでいるんですが、その頃になるとちょっと大人な部分を打ち出してくる部分もありますよね。音楽的にもそういう変化があったと思います。
そうですね。ジャニーさんが僕をトム・ジョーンズ風に演出してみたいと言い始めた頃で。それで「抱きしめてTONIGHT」みたいなセクシー路線の曲も出てきた。当時から松井五郎さんと都志見隆さんがそばにいてくれて、曲を書いてくれていたんです。今年の新曲「好きになってしまいそうだよ」もそのタッグですが、本当にお二人にはよくしてもらったと思います。
──いわゆるアイドルとして出てきた田原さんですが、たぶんあのあたりで大人な部分を出して、そこから先を見据えたシフトチェンジをしたのかなと思ったんです。そこに対して松井さんと都志見さんが関与して一緒に世界観を作っていったようなところはあるんですか?
うーん、26歳くらいのときに阿久悠先生と宇崎竜童さんとアルバムを作って大人路線には挑戦していたんです。久保田利伸くんが提供してくれた「It's BAD」も。そういうこともあって「教師びんびん物語」の主題歌として「抱きしめてTONIGHT」が生まれたんですよね。だから今振り返るとそのシフトチェンジに松井さん、都志見さんも関わってくれていたし、今も一緒に音楽を作れているのはうれしいことだなと思います。
──そんな大人路線も経て、田原さんは今もなおご自身でいろいろ楽しみながら活動を続けられていますが、そもそも続けていらっしゃることっていうのがすごいことだなと思うんですよね。
僕はジャニーズを卒業して、33歳で独立して、いろいろ環境は厳しくなりましたけどね。僕には支えてくれるファミリーやファンのみんながいるので、そういう人たちを裏切りたくないし、僕自身も止まりたくなかった。自分の中で「なるようになるよ。だって俺、田原俊彦だから」という自負もあったし、デビュー当時はひどいもんだったけれど、レッスンを重ねて歌もしっかり歌えるようになりましたし。とは言え、ジャニーズからの卒業は自分の中で1つの勝負でした。33歳から58歳ですからもう独立して四半世紀が経って、ジャニーズ時代よりも独立してからのキャリアのほうが長くなってしまいましたね。年に1枚は必ずシングルを出して、自分の音楽に対する思いが途切れないようにここまでやってきました。独立してからは楽曲制作に自分も携わるようになって、自分が納得できる楽曲がそろっていたし、すごく充実した期間だったと思います。もちろん苦しい時期もありましたけど、僕はやっぱり止まれない。だって生きていかなきゃいけないし、いい思いしたいし、いい車に乗りたいし、カッコつけていたいし(笑)。そうやって生きることが僕の中では自然な流れだったから、ここまでやってこれたんだと思います。
──40周年コンサートで「これからも僕らしく、とにかくまっすぐ。それが間違った方向でもまっすぐいきます」とおっしゃっていたのがすごくカッコいいなと思いました。
だってずっと間違ってんだもん(笑)。
──(笑)。
たまには合っているんだけどね。やっぱり僕は自分の思うがままに生きたい人なのよ。子供のときからケンカも負けたくないし、勉強もしたいし、モテたかった。それに貧乏だったので絶対に成り上がって天下を取ってやると思っていましたね。これはもう根っから生まれ持ったものだからしょうがないの。だからこそ、ここまで歩んでこれたんだと思います。僕はいろんなところに、いい顔をする風見鶏的なものになるのが絶対イヤで、我を通してきた。それを変に曲げられないのは、自分の思いが強いからで。遠回りや難しい道であっても結果として行きたいところにたどり着ければいいと思ってるんですよ。58年生きてきてもその思いがブレていない自分に対して「その生き方ができる田原俊彦はやっぱりグレートだな」と思いますよ。誰もができることではないですから。聞く耳は持っていますが、最終的な決断を下すのは僕だし、いろんなアイデアを自分の中で消化して「よし、これでいこう!」って決めています。それがたまに間違ってるんだけど、間違ってしまったことに気付いても「行くしかないだろ!」と突き通すのも僕の生き様だと思うし、それが叶うことは相当恵まれているなと感じますよ。
──そうですよね。
きっと68歳の田原俊彦も「まだまだ君臨するぞ」という気持ちを持ってやっていると思います。歌と踊りとパフォーマンスに関しての、僕にしかできないスキルを持っているので、うちのお客さんだけじゃなくてね、いろんな場所に飛び出して、たくさんのオーディエンスに「ザ・田原俊彦」を観てもらいたいし。
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「好きになってしまいそうだよ」は深いところに刺さった
2019年7月17日更新