tacica「AFTER GOLD」インタビュー|結成20周年目前 これまでの歩みを今、確かめる

tacicaが通算9枚目のアルバム「AFTER GOLD」をリリースした。2025年に結成20周年のアニバーサリーイヤーへと突入することを見据えて制作されたこのアルバムのレコーディングでは、バンド初期以来の合宿が行われた。そこでパッケージされた臨場感あふれるバンドサウンドはキャリアを重ねた今だからこそ、シンプルでありながら1つひとつの音の説得力に満ち、アレンジは洗練され、猪狩の歌声はさらに豊かな味わいを帯びている。9月に先行配信された「物云わぬ物怪」は、生きることと音楽と向き合うこと、その2つに対する尽きない情熱を歌い上げるミディアムナンバーで、今作を象徴する1曲となっている。

今回のインタビューでは、この新作「AFTER GOLD」の制作にまつわる話はもちろん、tacicaを結成した当時のエピソードやメジャーデビューに至るまでの流れ、これまでメディア露出をほぼしなかった理由なども語ってもらった。猪狩翔一(Vo, G)と小西悠太(B)がこだわってきたtacicaの音楽世界、その軌跡と神秘を感じ取ってほしい。

取材・文 / 上野三樹撮影 / 大橋祐希

あれは20年前

──まずはtacicaのこれまでの歩みを振り返りながら、お話を伺えたらと思っています。まずは2005年に札幌でtacicaが結成された頃の思い出から。

猪狩翔一(Vo, G) 僕らは北海道の士別市というところの出身で、小西とは高校の同級生でした。卒業後に僕が建築系の専門学校に進学するために札幌に出て、小西は音楽の専門学校に行くために東京に出たんです。22歳くらいで北海道に小西が戻ってきたタイミングでバンドを結成しました。僕はその頃、新卒で就職したんですけど、1日で辞めちゃって。20歳から22歳くらいはわりと暗黒期で、母親からは「札幌から地元に帰ってきなさい」と言われていました。でも帰りたくもなく、何かしたいこともなく、という感じの時期でした。

小西悠太(B) 僕は上京後に音楽活動もしていたんですけど、あんまりいい人と出会わなくて。どうしようかなって考えたときに猪狩のことを思い出して連絡してみたら、フリーターをやってるということだったので「じゃあバンドやらない?」って誘ってみたんです。猪狩とは高校でも一緒に音楽をやっていて、卒業式のあとにみんなでライブをやったときにギターを弾いて歌っていたのがすごく印象に残っていて。東京でもその印象を超える人となかなか出会えなかった。

──猪狩さんはずっと音楽を続けていたわけではなかったんですね。

猪狩 そうなんです。だから小西にバンドをやろうと言われたときは、何とか日常から這い上がろうとするような気持ちで、夢中になれるものにすがりたくて、その誘いに乗った感じでした。だから、音楽でメシを食っていこうとか、そういう明確な気持ちはなかったです。

猪狩翔一(Vo, G)

猪狩翔一(Vo, G)

──2007年にはインディーズでミニアルバムをリリースし、インディーズチャートで1位になりましたが、結成からたったの2年なんですね。

猪狩 何が起こっていたんでしょうね……。

小西 本当に運がよかったとしか言いようがないです。

猪狩 札幌のサーキットイベントに出て、そこからいろんなところに呼んでもらうようになったのが大きかったですね。500枚限定で作ったCDがわりと調子よく売れて。当時の事務所には流通をかけずに500枚を自分たちの力だけで売りさばかないと、そのあとはないだろうと言われていたんです。それを売り切ったあとで、ライブ1本につき僕らが1万円もらえるという事務所のルールによるツアーが始まりました。自分たちで箱のブッキングをしていって、空き日が出ちゃうとその分お金がもらえないから、とにかく詰め込んで。ライブ1本でもらえる1万円を自分たちの生活費にしていかなきゃいけないし、移動も高速を使わずに下道ばかりで走って、ホテルには泊まらずに車中泊での全国ツアーを2、3周はやりました。

──曲も結成から急ピッチで作っていった感じですか。

猪狩 小西がバンドに誘ってきたから小西が曲を作るもんだと思ってたんですけど、作らないんですよ(笑)。「俺はベースしか弾かない」とか言って。ただ、小西は東京でバンドをやっていたから活動に関する多少の知識があって、当時だと「魔法のiらんど」でホームページみたいなものを作ってくれたりして。僕はそれまで曲を作ったことがなかったけど、最低でもまずは5曲ないとライブもできないってことで作り始めました。それが2007年にリリースした1stミニアルバム「Human Orchestra」に入っている5曲です。

病室でメジャーデビュー

──2008年にはメジャーデビューされてますから、かなり急展開ですよね。

猪狩 このメジャーデビューというのが、その前にインディーズで2008年にリリースした「parallel park」の品番がメジャーレーベルのものに切り替わるという、そういうものだったんです。上京したばかりでしたが当時、僕は喉の扁桃腺を切る手術をするために入院していて。だからメジャーデビューの日は病室にいたんです。

──そんなメジャーデビューの思い出なんですね。

猪狩 「メジャーデビューおめでとうございます」って看護師さんに言われました(笑)。だからバンド結成してからメジャーデビューまで、わりとトントン拍子にきた感じだったので、精神的に全然追いついてなかったです。扁桃腺の手術後は当然すぐには声の調子が戻らなくて、不安もありましたね。

tacica

tacica

──メジャー初期の頃の活動で印象的だったことは?

猪狩 2009年に「メトロ」というシングルをリリースしたんですけど、ジャケットを東京メトロにちなんで路線ごとの9色展開にしたんです。そしたらCDを作る会社の方が対応はしてくれたんですけど、さすがに色が多いって言われた記憶がありますね(笑)。

小西 あははは。なんか偉い人に怒られたね。

猪狩 「メトロ」にちなんだジャケットも作ったし、東京メトロでこの曲を使ってもらえないかな?ってスタッフさんたちが話をしてくれていたみたいなんだけど、「歪んだレール」って歌詞に入ってるのがどうやらダメだったみたいです。ただ、そのために歌詞を変えるのもちょっと違うなと思って、そのまま残しました。

後悔しない決断を重ねてここまで来た

──その後も活動を続けていく中で、東日本大震災やコロナ禍など時代の流れもあったと思います。tacicaがバンド活動をしていくうえで大切にしてきたのはどんなことですか?

猪狩 自分たちの作品に対する向き合い方というのはずっと変わってないかもしれないです。今はその中から少しずつ削ぎ落とされていって、本当に大事なものしか残ってない感じはあるけど、とにかくこだわりがめちゃくちゃ多かった。そこで周りの人たちに迷惑かけた部分もあるんですけど、今、作品を作ってきたその時々に戻れたとしても同じ決断をしてるだろうなっていうくらい、後悔しない決断をしてきたという自負があります。だから「あのときああしていればよかったな」みたいなことはあんまりないかもしれないですね。ライブに関しては逆に向き合い方が変わって、僕は結成当初から緊張しいだったのでしんどいなという気持ちもあったんですけど、最近は緊張しながらも楽しめるようになってきました。そこはコロナ禍を経て、ライブハウスのフロアに人がいるありがたみを改めて思い知ったことも大きいです。

小西 確かにそうですね。ライブに来てくれるお客さんに対して楽しんでもらいたい、満足して帰ってもらいたいと思うようになりました。そう思えるような余裕が出てきたというのが、活動を長く続けてきて一番変わったところです。

小西悠太(B)

小西悠太(B)

──メディア露出をほぼしないまま活動をしてきたのは、どういう思いからだったんですか?

猪狩 特に僕の場合、活動の初期は音源に対する興味しかなく、音源に対するストイックさみたいなものを他者にも求めてしまうところがあって。今にして思えばちょっとやりすぎな感じもあるんだけど、自分たちの顔や言動や立ち振舞いは音楽に対してすごく余計な情報だと思っていたし、そういうものに自分たちの曲を聴く環境を左右してほしくないという考えがすごくあったんだと思います。歌詞に入っていること以外に語るべきことがあるなら、別に音楽なんてやってなかったんじゃないかなと思う。自分が作った音楽について語ることなんて音楽のさまたげになるんじゃないか、プロモーションになんてならないんじゃないかなと。だから「やんないほうがいいと思います」と周りに言って、ほとんどやってこなかった。そこがさっき、たくさんこだわりを持っていたと話した中の1つで、周りに迷惑かけたなと今では思っていますよ(笑)。