小西康陽|ピチカート・ファイヴの20世紀

ピチカート・ファイヴは自分の中で評価が低い

──ピチカート・ファイヴの年表と同年のヒットチャートを比較すると、例えば1997年のアルバム「ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド」を聴くと国内外のクラブカルチャーが密接にリンクしていた記憶がよみがえりますけど、年間ヒット曲は安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」、KinKi Kids「硝子の少年」、Le Couple「ひだまりの詩」などが上位でした。どちらも確かに1997年っぽいけど、並べてみると「これとこれが同じ時代か」と不思議な気持ちになるんですよね。

ピチカート・ファイヴ

ここ1、2年は少林兄弟のワタ・ルーさんや「レッツゴーヤ~ング?」の美和子さん、多胡さんの影響で1980年代の歌謡曲にドハマりしているんですけど、僕ははっぴいえんどから音楽が好きになって、歌謡曲と言えば筒美京平さんや浜口庫之助さんというこだわりがあったから、全然聴いていなかったヒット曲もいっぱいあるんですよ。今は横浜銀蝿とかチェッカーズとか「こっちのほうがいいじゃん」と思えるようになってさ(笑)。でも、ピチカート・ファイヴも今聴いてみるとロックンロール的なところがあって、自分が今チェッカーズに惹かれる気持ちもうなずけるんですよ。

──筒美さんや浜口さんのような洋楽のエッセンスを取り入れた洗練されたポップスとは違う、単純明快なロックンロールの痛快さと、ヒット曲ならではの大衆性ですよね。

いわゆる“渋谷系”というくくりにされているバンドの中でも、そういうロックンロール的なところをまったく感じさせないバンドもあるでしょ。そこは違うんだよなあ。

──もともと資質として持っていたものが、時間を置いて明らかになってきたということですか?

そうですね。僕にとって今一番リアルなのは(筆者のPCに貼ってあるシャネルズのシールを指して)こういう音楽(笑)。シャネルズばっかりかけてるもんなあ。僕は本当にヤンキーカルチャーを一切通らなかったので、自分が銀蠅のレコードかけてることに驚くけど、なんか憧れがあるんだよね。

──なんでしょう、ヌケのよさみたいなところでしょうか。

うん。90年代だと、つんく♂さんの音楽なんかは素晴らしいロックンロールだと思う。そういうのに比べると、ピチカート・ファイヴは自分の中で本当に評価が低い(笑)。強いて言うなら唯一肩を並べられるのが「東京は夜の七時」、ということになるのかな。

音楽と肉体

──今度東阪のBillboard Liveで行われるライブ(※取材は9月下旬に実施)では小西さんご自身がボーカルとしてピチカートの楽曲などを歌うそうですが、どうして今このタイミングで歌を歌おうと決めたんですか?

吉田哲人くん(作編曲家。かつて小西のマニピュレーターを務めていた)が歌手デビューするというニュースをナタリーで読んだからですね、なんて(笑)。

小西康陽

──(笑)。小西さんがボーカルをとった曲はこれまでほんの数曲しかありませんが、いつかソロで歌を歌う作品が出たらと待ち望んでいたんです。それが今回はライブで実現して、ライブ盤にもなるそうで。

僕はずっと自分のことを作家だと思っていたし、肉体的な部分を出すのはずっと避けてきたところはありますね。演奏ヘタだし、好きでもなかったし(笑)。でも音楽は好きなんだけど、みたいな感覚。歌も全然うまくはないんだけど、作者が歌った歌の魅力ってなんかあるよなあと思っていて。バート・バカラックとかさ。何年か前、バカラックの来日公演でコメントを求められたので、イベンターの方にメッセージを書いて託したんですね。「バカラックさん、全曲歌ったレコードを作ってください」って。でもバカラックはいまだに作っていない。だったら自分で作んなくちゃなって(笑)。あくまで“ソングライターの歌”なんだけど……これ以上言うと言い訳になっちゃうな。やっぱロックはさ、フィジカルに音を出している人のものなんだよね。そう思った。

──その思いは、昔は否定していたものですか?

否定していたというよりも、「音楽にはそうじゃない方法論もあるはずだ」という思いが強かった。日本でも海外でも、ヒット曲の多くは作家が作ってスタジオミュージシャンが演奏したものだという事実もあったし。一方で、自分で演奏して歌うことが重要だという強い幻想があって、そんなのおかしいと思っていたんだけど、作ったその人が演奏して歌っているものは、やっぱり強いですよね。

──「作家が全曲歌ったレコード」は今回ライブ盤という形で実現しますが、今後“シンガーソングライター小西康陽”のアルバムが作られる可能性もありますか?

うん……と言って、これから楽器を習得したり、高い楽器を求めたりする気持ちはないですけど。せめて自分にできることは、自分で自分の曲を歌うことかなあって。自分で歌うために作った曲は1曲もないんですけどね。今度ライブで歌う曲も。

小西康陽にとってピチカート・ファイヴとは

──7inchボックスのデザインは「スウィート・ピチカート・ファイヴ」(1992年9月発売のアルバム)のジャケットを踏襲したものになっていますが、このヘルベチカフォントにカラーパターンというデザインも当時の日本のカルチャーに大きな影響を与えたと思います。ピチカート・ファイヴを語るうえではデザインの話も切り離せませんよね。

ピチカート・ファイヴ「THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001」のアナログ7inchボックス。

ピチカート・ファイヴが解散するとき、僕はコンテンポラリー・プロダクション(信藤三雄のデザイン事務所)に入りたいと思ったんですよ。信藤さんの片腕としてデザインをしていきたいと思ったんですけど、信藤さんには「志が低いよ」と却下されました(笑)。今回のデザインもすごく気に入っています(ボックスを開けて中の7inchジャケットを取り出しながら)。よくここまで自由にやらせてもらえたなと。

──なるほど。歴代の名デザインのオンパレードですね。

本当に自分が喜ぶために作った感じがあるでしょ? なんて(笑)。

──ここまで徹底しているなら、できればオリジナルのカンパニースリーブ(レーベルロゴなどが入った内袋)も作ってほしいですね。

今からなら間に合うかもしれない(笑)。

──こういう形で改めてピチカート・ファイヴに触れたうえで……最後にもっともストレートな質問ですが、小西さんにとってピチカート・ファイヴとはどんなバンドですか?

自分の音楽を世に問うてみたいという、それだけでしたね。どこまで通用するのか……そして見事に玉砕、って感じの(笑)。それに尽きますね。やっぱり自己評価は低いですよ。

──でももしかしたら、もう少し時間が経って時代が変わったとき、その評価も違ってくるかもしれませんよね。

うん、そうかもしれませんね。