音楽ナタリー Power Push - 尾崎裕哉×蔦谷好位置×いしわたり淳治
もがき続けた日々からの解放
自分が思い描く理想に対してもがいていた印象(いしわたり)
──そういった部分も含め、尾崎さんの音楽遍歴をちょっとお聞きしたいですね。幼い頃から音楽には触れてきた感じですか?
尾崎 そうですね。小さな頃から母親のカーステレオから流れてくるマドンナやaiko、宇多田ヒカルなんかをよく聴いてました。Backstreet BoysとかSixpence None the Richer、レッチリ(Red Hot Chili Peppers)とかも聴いてたかな。で、小学校に入ると学校のクワイアで歌ったりするようにもなって。音楽に関わる仕事がしたいと思い始めたのは5歳のときでしたけど、子供の頃はホントにただの音楽好きっていう感じでした。
──そこから自分で楽器を演奏したり曲を作ったりするようになるわけですよね。
尾崎 14歳のときにAC/DCを聴いたのをきっかけにギターを弾くようになりました。ただ、当時は単なるギター少年っていう感じでしたけどね。高校時代に組んだバンドでリードギターをやってましたし。で、高校を卒業したくらいから曲を作るようにはなったんですけど、ちゃんとした曲を書けるようになったのは25歳くらい。ほんとに最近なんですよ。
──ご自身の中で納得できる曲を作れるようになるまで時間がかかったということですか。
尾崎 そう。曲を作るとなるとどうしても言葉の世界が関わってくるじゃないですか。で、言葉について考えることは自分自身のことを考えることにもつながってくるんですよね。僕にはずっと心の中に葛藤があったから、自分と向き合うことになる曲作りがちゃんとできるまでに時間がかかったんだと思います。
──尾崎さんの心の中にあったという葛藤には、尾崎豊さん──お父様のことが影響していましたか?
尾崎 そうですね。そこは当然関係していました。他者から見て父と僕が比べられるとかそういうレベルの話ではなく、自分の中での問題なんですけどね。僕は常に父親を1つのベンチマークとして目の前に置いていて、それを自分の作品のクオリティや方向性のガイドとしてきたんです。で、当然のことながらそこにはなかなか至れない自分がいる。そのことがコンプレックスにもなるから自分で書いた言葉やメロディを書いては消して、書いては消してっていうことをずっとやっていたんですよね。だから曲が書けるようになるまでが遅かったんだと思います。
いしわたり 僕は今回歌詞の面で関わらせていただきましたけど、裕哉くんが書いた歌詞を見た瞬間に、今話していたようなお父さんのことや家族のことがすごく大きく心の中を占めているんだなっていうことはわかりましたね。どこか、もがいている感じがしたというか。自分が思い描く理想に対して、今の自分としてもがいているんだなっていう印象はありました。
尾崎 うん。僕は今も常にもがいてると思います。父親をベンチマークとしながらも、自分としての正解は自分で作るしかない。でも基本的に自信がないんですよ、自分に対して。だからメロディや歌詞がどうあるべきなのかってことをすごく考えて、悩んでしまうことがよくあるんです。そういう意味で今回、蔦谷さんやいしわたりさんに手助けしていただいて、指示をもらえることが重要だったんですよね。「これでいいよ、よし行け!」って後押ししてくれる人の存在が。自分にできることを拡張してもらえた今回のコラボレーションは、僕にとってのブレイクスルーの1つになったと思います。
27歳になって、父親が見られなかった景色を見る(尾崎)
──もう少し尾崎さんの歩みについて聞かせてください。これまで尾崎豊さんのトリビュートアルバムへの参加(2004年発売の「"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI」)やラジオパーソナリティなど、断片的に活動が垣間見える瞬間はありましたが、昨年から急激にその動きが活発になった印象があります。それはどうしてだったんでしょうか?
尾崎 世間的には「音楽の日」(昨年7月16日にTBS系で放送された音楽特番。自身初のテレビ生出演を果たした)で歌ったことで、いよいよ動き始めた感があったんでしょうね。どうしてそうなったかっていうと、僕は必要にかられないと物事をやらないタイプなので、その結果なんじゃないかなとは思うんですけど(笑)。
──ご自身の中で機が熟した感じ?
尾崎 理想としては18歳でデビューしたかったんです。ただ、現実的には曲がなかったし、テクニックがいまいちだった。基礎がない建築ほどもろいものはないので、そこを固めていくのに時間がかかったんですよね。アーティストとしてはもちろん、人間としての基本姿勢を熟成させないと人前になんて立てないってことはわかっていたので、ある程度大人にならないとダメなんだろうなと。で、2015年に大学院を卒業したタイミングでようやく、「今動かないともう世には出れないかもな」と思えたんです。今も自分がちゃんと大人になれているかどうかはわからないですけど(笑)。
──「動こう」と思えた理由の裏には、本作収録の曲タイトルにもなっている“27”という数字は関係していませんか? これは現在の尾崎さんの年齢であり、26歳で亡くなられたお父様の歳を1つ超えたということでもあるわけですよね。
尾崎 そうですね。僕が大学院を卒業したのが26歳になる年で、その年齢っていうのは父親が亡くなった歳であり、母親が渡米した歳でもあるんです。で、そこから一歩踏み出していく、父親が見られなかった景色を見るという意味を込めて“27”という数字を使いました。僕が動き出したタイミングとしてはあくまで偶然ではあるんですけど、ジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)とか27歳で亡くなったミュージシャンを総称する“The 27 Club”ってものもありますからね、不思議な数字だなとは思いますよね。
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収録曲
- サムデイ・スマイル
- 27
- 始まりの街(Soul Feeling Mix)
- Stay by my Side
尾崎裕哉「LET FREEDOM RING TOUR 2017」
- 2017年2月26日(日)
福岡県 BEAT STATION - 2017年3月2日(木)
大阪府 BIGCAT - 2017年3月11日(土)
東京都 EX THEATER ROPPONGI - 2017年3月15日(水)
愛知県 THE BOTTOM LINE - 2017年3月24日(金)
新潟県 新潟LOTS
尾崎裕哉 ライブツアー
- 2017年10月6日(金)
大阪府 NHK大阪ホール - 2017年11月3日(金・祝)
東京都 東京国際フォーラム ホールC
尾崎裕哉(オザキヒロヤ)
1989年、東京都で生まれる。2歳のときに、父でありシンガーソングライターの尾崎豊と死別。その後母と共にアメリカに移住し、15歳までボストンで過ごす。帰国後にバンド活動を開始し、大学生活と並行しながらライブや楽曲制作などを続ける。2010年から2013年に「CONCERNED GENERATION」、2013年から2015年に「Between the Lines」と、InterFMのレギュラー番組でナビゲーターを務めた。大学卒業後、2016年7月にTBSテレビ系「音楽の日」で初のテレビ生出演を果たし、大きな注目を集める。同年9月には東京・よみうり大手町ホールで初のホールコンサートを開催し、初の配信シングル「始まりの街」をリリース。2017年3月に初のCD「LET FREEDOM RING」を発表した。
蔦谷好位置(ツタヤコウイチ)
1976年生まれ、北海道出身。CANNABISのメンバーとして2000年にメジャーデビューし、その後NATSUMENの一員として活躍。2004年よりagehaspringsに在籍し、YUKI、Superfly、ゆず、エレファントカシマシ、木村カエラ、Chara、JUJU、絢香、back numberなど多くのアーティストのプロデュースを担当する。映画、CM音楽なども手がけている。3月17日公開のアニメ映画「SING / シング」日本語吹き替え版では音楽プロデューサーを担当した。
いしわたり淳治(イシワタリジュンジ)
1977年8月21日生まれ、青森県出身の作詞家 / プロデューサー。1997年にロックバンドSUPERCARのメンバーとしてデビューした。SUPERCAR解散後以降に作詞家、音楽プロデューサーとしての活動を本格化させる。Superfly、少女時代、SMAPなどの作詞や、チャットモンチー、9mm Parabellum Bullet、ねごとのプロデュースを務めた。3月17日公開のアニメ映画「SING / シング」日本語吹き替え版では日本語歌詞監修を手がけている。