ターニングポイントに満ちた「GEKIBAN 2」
──ここからは「GEKIBAN 2」についても伺えれば。「GEKIBAN 1」はSachiko Mさんが楽曲をセレクトされていましたが、「2」もそうなんですよね。
はい、そうですね。
──「1」との違いというか、2作に分けるにあたり意識したところがあれば教えてください。
「1」をまとめていた時点で、「2」に入っている曲も概ね出ていて。だからどう振り分けるかっていう話だったんです。それで、結果的には「1」のほうが比較的名前の知られているものや、1度リリースされたものが多めなんですけど、「2」には今までに出ていないものが多くなりました。それと、僕の中で思い入れが強いものも「2」に多いです。もちろん「1」の曲に思い入れがないわけではないんですけど。
──思い入れという点では、特にどの曲が?
この中で言うと、香港映画「スタントウーマン」で作った「スタントウーマンのテーマ」「決闘のテーマ」は、俺が音楽をやった香港映画で唯一サントラ盤が出ていないんです。でもこれ、自分がやった映画音楽の中で一番好きなものなんです。音楽もドラマもすごい好き。全然観られる機会がないんでね。せっかくミシェル・ヨーとサモ・ハン・キンポーが主演なのに。とにかくこれを入れることができたのはすごくうれしい。あと思い入れが強いのは、映画「鈴木先生」に提供した3曲。これは2011年3月11日に録音しているんですよ、東日本大震災の当日。めちゃくちゃ揺れている中で。まさかあの地震が、その後の人生を変えることになるとは思っていなかった。
──そうだったんですね。
「停電になる前に録音をしてしまおう」なんて言って、次々に入ってくるニュースを観ながら録音していました。「やばい、実家と連絡が取れない」「ごめん、でも今日中に録っちゃおう」って。今はない代々木のスタジオで、地震で外に飛び出したときに周りのビルがぐらんぐらん揺れていて。あれは忘れられない。その後、福島に行って活動することになるなんて思ってもいなかったな。あと、映画「風花」は相米慎二監督の遺作という意味でも思い出深いし、ドラマ「クライマーズ・ハイ」は、井上監督と初めて一緒にやった作品なんです。この出会いがのちに「あまちゃん」になるし、「いだてん」になっていく。だから俺にとって大きいですね。
──当たり前かもしれませんが、それぞれに大きな物語がありますね。
5曲目の「しあわせ色写真館」ってドラマ、俺が初めて劇伴やったテレビドラマなんです。90年代に作ったんだけど、これはね、仲間由紀恵の初主演作。まだ仲間由紀恵なんて誰も知らないときに、テレビドラマの劇伴なんてやったことのない俺が作ったっていう。NHK名古屋が作ったんです。あともう1つ、NHKでやった「鬼太郎の見た玉砕~水木しげるの戦争」。これは今まで作った単発ドラマの劇伴で一番好きなくらいです。そして「バカボンのパパよりバカなパパ」の曲も入っているから、水木しげると赤塚不二夫が入っているって意味でも、俺の中では大きいです。「トットてれび」の曲もあって……俺自身が経験してきた文化に対するオマージュもいろいろ入っていて。
──大友さんにとってのターニングポイントとなった曲が多く収録された作品と言えそうですね。1つのアルバムとしても聴き応えがあって。
はい、田口トモロヲさんとやった作品もあるし……「いい曲を作っているな」って、自分でも思いましたもん。もちろんもっとたくさん曲はあるんだけど、いっぱい出すとボロが出る。あとで聴いてみると似た曲もけっこう書いているんですよね(笑)。
まだまだありますからね、ディープなほうは
──前回のインタビューで、ボックスセットを作るかどうかの話題にもなりました。こちらの線は?
出すかなあ……生きている間は出さないかも。でもサントラじゃなくて、今までの自分の過去作をボックス化することは考えてます。GROUND ZEROの「Revolutionary Pekinese Opera」をアナログ2枚組で出す話はフランスで進めています。アナログで出せるの、すごくうれしい。A~C面がGROUND ZEROの演奏で、D面はオリジナルの、ハイナー・ゲッベルズとアルフレッド23ハルトの演奏が収められる予定です。
──それはぜひ聴きたいです。
これから少しづつ過去の作品や未発表のものをまとめて出していこうと思ってます。じゃないと消えちゃうなって。以前は廃盤になったりしても、「もう出なくてもいいや」それより「新しいものをどんどん作っていきたい」と思ってたんだけど、歳とったんだと思いますよ(笑)。
──いやいやいや。そういったマインドになっていったのも、「GEKIBAN」シリーズを作ったこともきっかけの1つだったりするのでしょうか。
もちろん、それはあると思います。普段は昔の曲をあまり聴き返すことはないんだけど、聴き返してみると意外といいものもあるし。逆に「うわあ、これは出したくない!」っていうのももちろんあるけれど。でも、「こんなにいいのに埋もれてた」とか、いろいろな事情で未発表になっていたものもあるからね。
──「GEKIBAN」シリーズ、「2」を聴いてなお、大友さんの幅広さを知ることができました。お仕事の内容という意味でも音楽性の面でも、いろいろなものを吸収されてきたんだなと。
それは自分でも否定しないです。ただ「GEKIBAN」シリーズで欠けているのは、ある意味わかりにくいものというか、いわゆる前衛的と呼ばれているような部分で、それはそれで大好きなんです。だからそっちはそっちで、別で出していくつもりです。
──大友さんのたくさんの魅力の中の一部分がまとまっているというだけで、とても意義深い作品でした。もしかしたら、この「GEKIBAN」シリーズを前衛的なものとして聴く方もいるかもしれませんね。
ああ、そうかもしれませんね。もしかしたら今の基準から見るとかなり外れているものもあるかもしれない。でも、こんなもんじゃないですから。まだまだありますからね(笑)。
「わらじまつり」改革のその後
──最後に、前回お話しされていた「福島わらじまつり」の改革について、少しお聞きしたいのですが。
はい、だいぶ進みましたよ。ただこの記事が公開される頃にはもう終わってるなあ。本番が8月3日ですから。音楽も踊りもものすごく面白くなっていると思う。踊りは元珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝子さんに作ってもらって、太鼓も芳垣安洋さんとか元鼓童の鳴物師秀さんや笛の山田路子さんに来てもらって徹底的に指導してもらってるんです。100人くらいのアンサンブルを毎週のように練習してるんです。
──本格的ですね。
はい。この先、50年でも100年でも持つ祭りを作りたいと思っているんです。太鼓と笛と歌でしっかり音楽を作りつつ、踊りも独自のものを作れればいいなと。踊りにしても、例えば車椅子の人でも参加できるようにしたくて。福島の人だけじゃなく、いろいろな地域の人も外国の人も参加できるような開かれた祭りにするにはどうすればいいのか。21世紀の今新たに祭りを作るとして、福島の祭りとして胸をはれるような誇りに持てるようなものにするのにはどうしたらいいのか。みんなで一緒に考えています。
──聞いているぶんにはとても面白そうですけど、すごく大変そうでもあります。
いやあ、難しい。ただ形を整えるだけじゃないから。変な例えかもしれないけどさ、売れていないラーメン屋さんがあって、専門家がラーメンの味をよくして、売れる店にするってテレビの企画あったでしょ? あれって大体テレビが撤退すると、味が元に戻るんです。残っている人の癖に戻る。祭りがそうならないためにはどうしたらいいか。大切なのは祭りの構造自体を変えることなんだと思います。
──構造ですか。
例えばこれまでは、踊りやパレードに参加するには、団体じゃなきゃダメだったんです。そうなると入りたくても、団体に所属してないと入れない。だから、誰でも参加できるように個人参加も可能にしようと思ったんです。
──そんなところまで大友さんが関わっているんですね。
いやいや、むしろそっち。表面的に変えるだけだと、ラーメン屋の例えで言うと、すぐに味が戻るな、と。この構造改革をするために重要なのは、「この祭りはなんのためにあるか」ということをみんなでちゃんと考えて徹底していくことだと思うんです。俺が言うからやる、じゃなくて、地元の人たちが自分たちで、「こういう改革をしていかなくては」という意識をも持ってそれを実行できるようになることが重要で、だからみんなの意識改革がまずは必要なんだと思います。とても1年でできるものじゃないけど、でも先方からの依頼は1年でそれをやってほしいということだったんで、今年はなんとか種を植えて芽が出ればいいかなって。でもね、打ち合わせ、会議、会議、ケンカ、会議……みたいな連続です(笑)。
──ははは(笑)。
これまで祭りをやってきた人たちのやり方を変えるわけだから、当然それまでの祭りがいいと思ってやってきた人には嫌われるわけで、それは正直本当につらいですよ。だって俺、自分からその人たちを切っているわけじゃなくて、頼まれて改革やっているわけですから。でもどうあれ矢面に立つのは俺だもん。マジでつらいですよ。嫌な役目ですよ。でも引き受けた以上、自分でも福島の祭りを誇れるものに変えていきたいって強く思ってますから。前の祭りをやっていた人たちも、いつか新しい祭りのほうにも参加して楽しんでくれればいいなって思ってます。祭りの改革が本当に成功したかどうかわかるのって、5年とか10年とか、何年か先だと思います。だから先を見据えてやっているつもり。強いリーダーシップのある人が入ってきてテコ入れしても、いなくなって元に戻ってしまうなら意味ないですから。むしろ今年をきっかけに福島の人たちが自分たちの手でさらに前に進んで、この先本当にすごい祭りになってくれればいいなって思います。だから「自分たちの子供や孫の代まで続くって意識を持って!」って耳にタコが出来るくらい言ってます。