LOVE PSYCHEDELICO|独立独歩でキャリアを重ねてきた2人の軌跡

人生から音楽が消えることはない

──状況に気持ちが追い付いて、LOVE PSYCHEDELICOという“パッケージ”に身体がフィットするまでに時間はかかりました?

KUMI はい。最初の数年はかなりハードだった記憶があります。

NAOKI 1stアルバムが出た直後に、レコード会社のスタッフから「2ndアルバムはどうします?」と聞かれて「え、次があるの?」と驚いたりね(笑)。今考えれば当たり前のことなんですけどね。自分たちの創作意欲とは別の要因でスケジュールが決まっていくこの世界に、当時はなかなかなじめなかった。

──そういえばKUMIさん、YouTubeにアップされた20周年記念のインタビューで、2ndアルバムを出したあと自分と向き合う時間が欲しくてヒマラヤに行ったと話されてましたよね。

KUMI はい(笑)。

NAOKI よっぽどだよね、1人でヒマラヤまで出かけるって(笑)。

KUMI 1カ月くらいかな。もともと旅は好きなんですけど……ガイドさんと2人でひたすら山道を歩いて。チベットへも足をのばして、しっかり高山病にもかかって、ひたすら苦しかったです(笑)。

NAOKI それ、旅というよりはもはや修行とか巡礼だよね(笑)。

──何がそんなに苦しかったんでしょうか?

KUMI 周囲の状況うんぬんではなく、やはり自分たちの問題だったんだと今では思います。伝えたいと思う作品があっただけで、続けていく覚悟や、それを支える言葉も持っていなかった。だから大きな渦の中では、自分たちは何がやりたくて、どう振る舞うのが正しいのか、見失ってしまったんでしょうね。

NAOKI まあ、簡単に言ってしまえばキャパシティを超えてたんだよね。若くて経験が浅かった自分たちの。

KUMI 当然、ヒマラヤに行っても答えが見つかるわけでもなく(笑)。でも行ってみてわかったのは、LOVE PSYCHEDELICOを続けるかどうかは別として、自分の人生から音楽が消えることはないんだろうなということ。旅して自分と向き合ってみて、それだけは確信が持てたんです。それで帰国して作ったのが、2004年リリースの3rdアルバム「LOVE PSYCHEDELICO III」。

NAOKI 最後の1枚のつもりで作ったよね。持ってるものすべて注ぎ込んで。でも不思議なもので、そうやってまっさらな気持ちでアルバムを作り切ったら、ちょっと灯りが見えた気がしたというか。

KUMI 自分たちの音楽を聴いてくれるリスナーのところに歌を届けに行きたいって、素直に思えた。

NAOKI あのアルバムを作ったことで、プロのミュージシャンはこうじゃなきゃいけないという固定観念やプレッシャーから解放された気がする。それが一番よかったと思いますね。例えば、1年に1枚くらいのペースで新作アルバムをリリースするとか。その後すぐ、全国をツアーで回るとかね。それはあくまで業界的なルーチンであって。むしろ自分たちの音楽をやりたい、届けたいというピュアな気持ちが先にあっていいし、あるべきなんだと。

KUMI それは今のLOVE PSYCHEDELICOの活動に、そのままつながっているよね。

LOVE PSYCHEDELICO

プライベートスタジオがもたらした原点回帰

──「Complete Singles 2000-2019」を聴き返してみて、そういう暗中模索の時代についても思い出したりしました?

KUMI いいえ。そういうものはあまり作品に持ち込まないので(笑)。個々の楽曲を聴いて「あのときつらかったな」とか、逆もそうなんですけど、思い出すことはほとんどなかった。それはよかったと思います。

──2005年には、今お話を伺っているこのプライベートスタジオが完成します。2人の活動にとって、これも1つの転機だったのでは?

KUMI とても大きかったですね。いろいろを経て3rdアルバムを作ったあと、これから先もLOVE PSYCHEDELICOの活動を続けていくなら、自分たちのペースで思う存分音楽と向き合える場所が必要だろうなと。そう思って作ったのがこの「Golden Grapefruit Recording Studio」だったので。

NAOKI 言ってみれば基地みたいなもんだよね。

──なるほど。あるいは、アップデートされた部室みたいな。

KUMI 楽器を弾いて楽しい、仲間と演奏して楽しい空間。常にそれを意識して、設計に何カ月もかけました。

NAOKI 学生時代の精神じゃないけど、自分たちが原点に戻るためには絶対必要だったと思う。ちゃんとした設備を備えたレコーディングスタジオって、当たり前だけど、1日借りるのにもものすごく費用がかかるんですよ。そのコストをレコード会社が負担する場合、音楽家はどうしてもメーカー主導のスケジュールで制作を進めなきゃいけなくなるし。当然、損益分岐というビジネス上の問題も避けて通れない。この対立構造は、それこそThe Beatles以前から現在に至るまで、世界中でずっと繰り広げられてきたわけで。自分たちのアトリエを持ったことで、そういうパワーバランスからとりあえず脱却できた。自分たちが納得いくまで時間をかけられるし、いいアイデアが浮かんだら、早朝でも真夜中でもパッとレコーディングができますから。それはすごくよかったなと。

──それってLOVE PSYCHEDELICOの音楽のあり方と、根っこのところで深くつながっている気がします。転機ということでもう1つ挙げると、2008年でしょうか。アルバム「This is LOVE PSYCHEDELICO」がアメリカでリリースされています。これはどういう経緯だったんですか?

KUMI ロサンゼルスに「Hacktone Records」というインディのレーベルがあって。向こうでLOVE PSYCHEDELICOのCDを出したいと、数年越しでラブコールをいただいていたんです。すごく興味はあったけど忙しくて延び延びになっていたのを、このタイミングでやってみようと。それで実際、レーベルの人に会いに行きました。

NAOKI それと前後して数カ月間、自分たちもロサンゼルスに長期滞在して。地元ミュージシャンの人たちと交流しながら過ごしたんですね。この経験も結果的にはすごく大きかった。自分たちが信じていたミュージシャンシップの形がちゃんとそこには存在していたというのかな。それがとにかくうれしくて。

KUMI そうだったね。

NAOKI しばらく暮らしてみて感じたのは、音楽が街にしっかり根付いていて、ミュージシャンのコミュニティが確実に機能してるんですね。例えば街角のバーにふらりと足を踏み入れると、近所の住人がアコースティックギターとマンドリンとペダルスチールの組み合わせで、びっくりするほど素晴らしいセッションを繰り広げていたりする。しかも楽器を置けばごく普通の住人で、ショウビズの世界とは無縁の人だったりするんです。そういう現地の音楽家とたくさん友達になっては連絡先交換して。翌週には一緒にスタジオに入って演奏したりしてね。

KUMI そして日本に戻ってきて、その数カ月の経験をまるごと詰め込んで作ったのが2010年の「ABBOT KINNEY」。