go!go!vanillas牧達弥&柳沢進太郎|音楽と生きる、音楽で生きる 行動力と覚悟があれば 何歳でも夢を見られる

楽曲やライブなどを通じてリスナーの生活に潤いを与えてくれるアーティストやクリエイターは、普段どのようなことを考えながら音楽活動を行っているのだろう。日本音楽著作権協会(JASRAC)との共同企画となる本連載では、さまざまなアーティストに創作の喜びや苦悩、秘訣などを聞きつつ、音楽活動を支える経済面に対する意識についても聞いていく。

第10回は、9月24日に5曲入りEP「SCARY MONSTERS EP」をリリースしたgo!go!vanillasの牧達弥(Vo, G)と柳沢進太郎(G)が登場する。10月にスタートするホール&アリーナツアーの開催告知ページにて「夢は続きます!! 死ぬまでやろう!!!」と宣言したバニラズ。バンド結成からメジャーデビュー、年々拡大するワンマンライブの会場、海外公演の成功など、順調にキャリアを重ねているように見える彼らが「夢が叶った」と感じた瞬間はいつなのか。また夢を持ち続けるために何を意識しているのか、話を聞いた。

取材・文 / 張江浩司撮影 / YOSHIHITO KOBA

プロフィール

go!go!vanillas(ゴーゴーバニラズ)

go!go!vanillas

牧達弥(Vo, G)、柳沢進太郎(G)、長谷川プリティ敬祐(B)、ジェットセイヤ(Dr)からなるバンド。2013年7月に1stアルバム「SHAKE」をリリースし、2014年11月にはビクターエンタテインメント内のレーベル・Getting Betterよりアルバム「Magic Number」を発表した。2024年1月にポニーキャニオン内のレーベル・IRORI Recordsに移籍。2025年9月にEP「SCARY MONSTERS EP」をリリースし、10月よりホール&アリーナツアー「SCARY MONSTERS TOUR 2025-2026」を開催する。

東京に行けたら俺はなんでもできる

──お二人が「音楽で生きていく」ことを意識し始めたのはいつ頃ですか?

牧達弥(Vo, G) 僕は18歳で上京したんですけど、それまで住んでいた大分の田舎は閉鎖的な社会で。家族で固まっていて、就活も地元でする、みたいな。中学高校と年齢を重ねるごとに、自分の未来が見えちゃったような気がしてきたんです。「このままじいちゃんになっても同じなんじゃないか?」って。この街を抜け出さないといけないと思って、親に「東京に行きたい」と相談したら、ある程度の大学に入るんだったら行ってもいいと。それまで勉強してこなかったから簡単ではありませんでしたが、一生懸命やるしかない。自分の中では賭けでしたね。ここで東京に出られるなら、俺はたぶんなんでもできるんじゃないかという気持ちになってました。その後、無事大学に合格できたから、やりたいことでも結果が出せるかもと思って。音楽はそれまでもすごく好きだったので、そこからちゃんとバンドを組んで曲を作り始めました。

──目標を達成できたという自信がみなぎっていたんですね。

 でも、音楽でお金が稼げるとは思ってなかったです。ただすべてが楽しくて。バイトしてギターとかエフェクターを買って、一人暮らしだからいつでも練習できて。

──私も地方から上京しているので、その気持ちはすごくよくわかります。ディスクユニオンで何時間も中古CDを漁ったりとか(笑)。

 ユニオンはマジでやばい!(笑) そういうすべてが楽しかったですね。バンドで一発当ててやろうとは思ってなかったけど、ずっと音楽を続けられそうだなとは思っていました。

柳沢進太郎(G) 僕が音楽で生きることを意識したのは高校2年生のときですかね。秋田出身なんですけど、テレビでやっていたバンドの賞レースみたいな番組に応募して、東北地区大会まで進んだんです。翌年は決勝に行くことができて、SHIBUYA-AXでライブもさせてもらえて。大勢の前で演奏する経験を味わって、これは何物にも代え難い喜びだなと。もっとやりたいと思いました。そのバンドで上京して、初めて対バンしたのがgo!go!vanillasだったんです。そこで出会ってなかったらこうして一緒にやってなかったかもしれないし、いろんな運の重なり合いを感じますね。

左から牧達弥(Vo, G)、柳沢進太郎(G)。

左から牧達弥(Vo, G)、柳沢進太郎(G)。

結局たどり着くロックバンドの源流は

──音楽を始める前、ロックバンドをどういうものだと思っていましたか?

 大分にはけっこうパンクバンドが多くて、ライブハウスもパンクスの溜まり場だったんですよ。仲間意識が強いだけで、そんなに怖い人たちではないですけど。お香とかを売っているようなレゲエショップが近所にあって、同級生とよく一緒に遊びに行っていたんです。そこの店員のお姉さんがCHAOSというバンドのギタリストのTOSHIさんのお知り合いで、仲よくなってよくライブに行くようになりました。ただの中学生が学ランでライブハウスにいるから、面白がって優しく接してもらいましたね。

──パンクスの中に詰襟がいたら逆に目立ちますもんね。

 「すげえなお前ら!」って言われてました(笑)。だから、そういうローカルなシーンにいるパンク、ハードコアの人たちがヒーローっていう感じでしたね。世間的なロックスター像とはかけ離れまくってました。あと、そのレゲエショップにはシド・ヴィシャスとかジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)、カート・コバーン、ボブ・マーリーなどのポスターがあって、そのへんの洋楽は好きでした。

──ローカルヒーローとロックレジェンドという、両極に影響されたんですね。

 そうですね。でも、アングラなパンクバンドでも、ルーツはUKパンクだったりするので、元をたどるとつながってくるんですよ。僕もSex Pistols、The Clash、The Damnedを知って、聴いたら「かっけえな!」と思ったし。そこから自分が好きな音楽のルーツをどんどんディグるようになりました。そうしていくうちに、大学生になった頃に改めて「やべえ」と思ったのがThe Beatlesで。有名曲しか知らなかったし、ちょっとナメてたんですよ。「ロックじゃないじゃん」みたいな(笑)。でも、ちゃんと聴くと初期にはロックンロールのカバーも多いんですよ。

──The Beatlesも、もとはリバプールのローカルヒーローですもんね。

 そうそう、めちゃくちゃヤンキーですから(笑)。そういう下地があるのにそれを出さないで世界を巻き込んだアーティストになったことが実感できたんですよね。「パイオニアになるってこういうことか」と教えてもらったというか。今の僕らもそのスタンスでやってるかもしれないです。

柳沢 僕の地元にはライブハウスもなかったから、YouTubeとかでロックスターのミュージックビデオやライブ映像を観るのが原体験でした。いわゆるロックスター像って、「27クラブ」的なものとつながってくるような気がしていて。そういう本も読んでいたから、高校生の頃は「27歳で死にたい」って言ってる痛いガキでした(笑)。それくらい鮮烈なイメージでしたね。身近な影響で言うと、当時お世話になっていた塾講師の方が楽器も弾けて歌えて曲も作れる人だったんですよ。その人はThe Beatlesが大好きで、授業前に1曲弾き語りをするんですよね。僕はギターを始めたばかりだったので、セブンスコードを教えてもらったりしました。

柳沢進太郎(G)

柳沢進太郎(G)

──お二人ともまったく違う道筋からThe Beatlesにたどり着いたのが面白いですね。

 やっぱり、いろんな音楽の源流ってことですよね。

柳沢 大きい川から支流ができていくというか。

2年で状況が変わらなかったら音楽やめる

──バニラズは結成から3年でインディーズデビューし、翌年にはメジャーレーベルと契約。ワンマンライブの規模も順調に大きくなっていって、傍からはトントン拍子でキャリアを積んでいるように見えます。

 時のイタズラというか、いろんな巡り合わせがあってのことだとは思うんですけど、東日本大震災を機に僕の意識が変わったんですよ。それまでは就活もせずにライブハウスで働きながらバンドをやっていて、僕らよりも先にメジャーに行く友達もいたけど、ほとんどがワンショット契約で売れなきゃサヨナラ。でも、ほかに音楽で食べていく手段もわからないし、「夢がねえな……。このままで大丈夫かよ」と悩んでいて。親にも就活してないことを言えずにいたんですけど、震災のときに少しの間実家に帰ることになって、思い切って打ち明けたんです。厳しい親だったので絶縁されてもおかしくないと思っていたら、母親から「被災されてる方々をテレビで見ていたら、何が起こるかわからないと思った。あんたも後悔しないように、自分のやりたいことをがんばりなさい。全力で応援するから」と言われて。これはもう絶対やってやろうと思ったんですよ。その場で自分から「2年やって、何も状況が変わらなかったら音楽やめる」と宣言しました。

──2年というのは、けっこうシビアな数字ですよね。その時点でバニラズに手応えがあったということですか?

 まったくなかったです(笑)。咄嗟の直感ですかね。絶対にその2年間に何かあると思ったんですよ。実際、次の年に事務所に所属するようになって。「東京に出られたから俺はいける」というのと一緒で、賭けに勝った感じですね。疑うよりも、強い意志で自分を信じるというか。

──自信が音にも表れたと。

 全然変わりました。ライブをやるにしても、迷いがあったら演奏に出ちゃうし。今思うと、親を悲しませるかもしれないということが一番ネックになっていたんですよね。あそこで許してくれていなかったら、やさぐれた音楽をやっていたかもしれない。その不安がなくなったから、お客さんが1人しかいなくてもその人に絶対引っかかるようなライブをやろうという意識になりました。

牧達弥(Vo, G)

牧達弥(Vo, G)

柳沢 僕が上京したのは震災後なので、牧さんはもうマインドチェンジしていたんですね。初めて対バンしたときから、すごくお客さんを沸かせてました。あと、当時はプリティ(長谷川プリティ敬祐)さんが目立ってましたね。

 パンチ効いてたよね。マシュルームカットで眉毛剃ってて(笑)。

柳沢 裸に革ジャンでライブしてましたから(笑)。すごいエネルギーを感じた記憶があります。僕らはオープニングアクトだったので、ほかのバンドは「お前らには興味ないよ」っていう感じだったんですけど、牧さんは気さくに話しかけてくれて、そういうところでもマスに広げていきたいという意識があったのかなと思います。むしろ、全然手応えがなかった頃のライブを観てみたいなあ。

 フワッフワしてたよ(笑)。