第1章:怒涛の人生劇場編 其の弐
──演歌のキャンペーンというと、17歳ながらお酒の場に出向くことも多かったのでは?
“夜キャン”と呼ばれるものがあるんですよ。伺うのは全国のスナックとか居酒屋さん。レコード会社のスタッフさんや、演歌をたくさん扱ってくれる“演歌店”と呼ばれるショップの店員さんと一緒に回るんです。要は手売りですよね。当然、お客さんはお酒が入っている方がほとんどなので、聴いていただけないことも多いし、「邪魔だ! 帰れ!」とか怒鳴られることも珍しくない。そういう場所で丁寧に歌いながら、カセット1本、CD1枚ずつ買っていただく……それを多いときには1日6カ所くらいやるのがルーティーンでした。今振り返ると、すごく貴重な体験だったと思います。
──「第26回新宿音楽祭」と「第13回メガロポリス歌謡祭」で新人賞を獲るなど、デビュー後の市川さんは順調な滑り出しとなりました。
うーん、自分の中ではトントン拍子とはとても思えなかったですね。賞レースも同期の子のほうが勝っていたし。あとはカラオケの問題というのがありまして。
──カラオケの問題とは?
今はありがたいことに曲がリリースされるとカラオケにすぐ配信されることが多いんですけど、当時はそれがすごく大変だったんですよ。地方に行くと「カラオケに曲が入っていないから歌えない」と言われてCDを買っていただけないことも多かったですし。「カラオケに自分の曲を入れてもらう」というのが演歌歌手にとっては本当に生命線だったんです。私の場合、初めて自分の曲がカラオケに入ったのはデビューから4年目。この事実だけ見ても、出遅れていた感はありますよね。周りがうらやましかったです。
──大器晩成型だったかもしれませんが、順調にキャリアを積んできた市川さん。しかし2002年に突然、歌手活動を休止してしまいます。燃え尽き症候群ということでしたが、実際、これは何があったのですか?
どう言えばいいのかな……自分の中で何が正解だか、わからなくなってしまったんですよ。歌に対してもそう。歌手・市川由紀乃としての方向性についてもそう。例えば「歌がうまいね」という言い方があるじゃないですか。でも何をもってして歌がうまいと感じるかのポイントは、人によって違いますよね。とはいえ歌を仕事にしている立場としては、皆さんから「歌が上手だね」と言われないとダメだと考えている。じゃあ、どうすればいいの? そんなことを考えているうちに、どんどんマイナスの方向に気持ちが向かってしまいまして。
──根本的に性格が真面目なんでしょうね。
どうなんでしょうか。でもあの当時は舞台に立つと、汗が止まらなくなったり、震えてきたりしていましたからね。今考えても異常事態なんですよ。完全にメンタルをやられちゃっていました。「これでは絶対にいい歌なんて歌えない」ってあきらめの境地に達していましたね。
──どこかでストレスが溜まっていた?
小学校のときは「歌がうまくなりたい」「自分の歌を聴いてもらいたい」という純粋な気持ちだけしかなかったんです。でもプロとして活動しているうちに「お客様が求めていることに応えていきたい」という方向に意識が変わっていったんです。だってお客様は1200円とか払ってカセットやCDを買ってくださるわけで、その金額の対価が自分の歌にあるのかどうかは常に意識するところではありますから。だから売上とかランキングの話というより、自分の歌に対する自信を失ったということなんでしょうね。そこから4年半は歌から完全に離れてアルバイト生活を送っていました。
──ちなみにバイトは何を?
天ぷら専門店の「新宿つな八」で配膳を(笑)。最初はハローワークにも行きましたし、失業保険の申請もしました。そういう普通の生活を送る中で正直、自分でもこの世界に戻ることはないと思っていたんですけど……。それでも復帰を決めたのは、兄の存在が大きかったです。
──お兄さんが背中を押してくれた?
兄は障害を持っているので、ものの考え方などは小学校低学年くらいの感覚なんですよね。それでも私が歌手活動をしていて新曲を出したり、コンサートをしたりすると、うれしくなって養護学校の先生とか知り合いに電話をかけまくるんです。「これ、僕の妹なんだよ! 応援してください!」って。だけど私が歌手を辞めてからは、それまでと違って毎日家にいるわけじゃないですか。「あれ? なんで毎日ごはんを作ってくれるようになったんだろう?」とか不思議に思いますよね。「最近、妹はテレビに出ない。新曲も出ない。なんでなの?」って。
──想像するだけで切ない光景です……。
「今はちょっとお休みしているんだよ。またいつか出すから待っててね」と伝えていたんですけどね。でも、それが1年経って、2年経ってとなる頃、とうとう兄の思いが爆発したんです。「なんで新曲出さないのーっ!!」と声にならないような声で泣き叫んで。やっぱり兄としては、妹に歌手であってほしいという気持ちがすごく強かったんですよ。
──お兄さんとしては、妹の存在が誇りだったんでしょうね。
私としてもアルバイトをしながら普通の生活を送る中、「今だったら、どんなことがあっても気持ちが折れることなくがんばっていけるかな」という手応えが出てきたんです。精神的に休養が取れた面もありましたし。
──2006年に復帰してからは、それこそ歌手として黄金期を迎えることになります。休養宣言前と何が変わりました?
復帰して気付いたことが2つありまして。1つは「自分は本当に歌が好きなんだな」ということ。それからもう1つは「自分は周りの方たちに支えられているんだな」ということ。17歳からこのお仕事に携わってきましたけど、一度は離れたことで2つのことがすごくリアルに実感できるようになったんですね。だから絶対に感謝の気持ちだけは忘れちゃいけないと思っています。歌に対する感謝。周りに対する感謝。今、しみじみ思うんです。あそこで辞めなくて本当によかったって……。
──復帰に際してリリースしたシングルが「海峡出船」。ここでは市川さんの恩師・市川昭介さんが、亡くなる直前にもかかわらず作曲を手がけました。
復帰の件は市川先生にもご相談させていただいていました。すでに先生は体調を崩されていて、発売日の直前に旅立たれていたのですが、「新たな再出発の節目だから」ということで「海峡出船」という曲を書いてくださいまして……。レコーディングの際も病院から抜け出してきて、直接、ご指導をいただきました。のちに奥様からも伺ったのですが、それくらい先生は私の復帰を喜んでいたし、命懸けで録音に立ち会ってくれたんだということで。感謝という言葉では伝えきれないです。本当になんと言っていいのか……。
──母子家庭で育ったということでしたが、市川昭介先生としても父が娘を見るような思いだったのかもしれませんね。
手のかかる弟子だったと思うのですが……私、今でも思うんです。こうやって今でも歌えているところを、先生には見てもらいたかったなって。それがすごく悔しいし、淋しい。ただ先生はいなくなったけど、先生の教えは私の中で今も生き続けているんですね。先生特有のすごく独特なメロディや節回しがあって、それを細かくご指導してくださって、そのうえで今の市川由紀乃が成り立っていますので。
──聞きづらい話なのですが、最愛のお兄さんも2008年に亡くなったそうで……。
歌っていく意味なんて私にはもうないかなって、まずそれが頭に浮かびました。
──そう考えるのも無理はないです。
私の母は明るくて強い人なんですけど、兄が亡くなったときは見ていられないくらいの勢いで泣き崩れたんですよね。もう本当にあとを追うんじゃないかというくらいでしたから。その姿を目にしたとき、母親を守ることが自分の務めだと改めて思いました。そのためにも私は歌をまっとうするしかないって。そして自分が歌手を続けていくことは、誰よりも兄が一番望んでいるはず。その願いに応えるためにも歌は続けるべきだと覚悟を決めましたし、もっと自分は強くなるんだと心に決めました。今もまったく同じ気持ちのまま、舞台に立たせていただいております。
──ここまで駆け足で波乱万丈な半生を振り返っていただきましたが、芸能生活30周年の集大成となる「市川由紀乃リサイタル2022 ソノサキノユキノ」が映像作品として12月21日にリリースされます。ズバリ、見どころを教えてください。
今回のリサイタルでは、自分のやりたいことを全部やろうと考えていたんです。今、どういうことをしたいのか? 今、どんな楽曲を歌いたいのか? そういうことをマネージャーさんやメイクさんなど昔から私を知っている人たちにも相談しつつ、構成を固めていきました。演歌や歌謡曲というジャンルの中で、私は“女の奥底に眠っている情念”というテーマがすごく好きなんです。そういう部分を自分のカラーを打ち出しつつ、同時にお客様に伝わりやすい演出で表現したかったんですよね。最後まで飽きさせないような内容になっているはずなので、ぜひご覧いただけたらと思います。
次のページ »
第2章:演歌Q&A編