市川由紀乃|演歌歌手生活30年、ときにはくじけた日もあった。感謝では言い尽くせない思いを語ります。

市川由紀乃は埼玉出身の演歌歌手。1993年、17歳のときにシングル「おんなの祭り」でデビューし、活動休止を経てデビュー23年目で「NHK紅白歌合戦」に初出場するなど、一歩一歩前に進んでいる。そんな彼女がデビュー30周年を迎えることを記念して、音楽ナタリーでは彼女のキャリアとこれからの活動について、そして“演歌”を切り口にしたテーマを「怒涛の人生劇場編」「演歌Q&A編」の2編で掘り下げる。

10月に発売されたコンプリートボックスセット「市川由紀乃コンプリート・ベストBOX」、12月21日にリリースされるライブ作品「市川由紀乃リサイタル2022 ソノサキノユキノ」と合わせて、チェックしていただきたい。

取材・文 / 小野田衛撮影 / KOBA

第1章:怒涛の人生劇場編 其の壱

決して順風満帆な道のりではなかった。両親の離婚、兄弟の難病、付きまとう貧困、そして歌手になる決意……。30年間駆け抜けてきた今だからこそ、はっきり言える。「市川由紀乃、46歳。今が一番幸せです」


──市川さんが音楽ナタリーに登場するのは初めてとなります。市川さんのキャラクターを知らない読者もいるはずなので、まずは今までのキャリアからお伺いできれば幸いです。音楽に出会った原点はどこになりますか?

小さい頃から常に演歌や歌謡曲に囲まれているような環境ではあったんです。私は昭和51年(1976年)生まれなんですけど、幼少期に観た歌番組って今よりもジャンル分けされていなかった印象があるんですよね。今って演歌歌手は演歌番組に出る感じで。あの頃はロックもポップスもアイドルも演歌も、同じ歌謡曲として認識されていたと言いますか……。私は中森明菜さんが本当に大好きだったんですけど、それと同じように小林幸子さんや美空ひばりさんのレコードも買っていたんですよ。

市川由紀乃

──確かに「ザ・ベストテン」(TBS系)や「ザ・トップテン」(日本テレビ系)には演歌歌手もよく登場していました。

「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)もそうですよね。「8時だョ!全員集合」(TBS系)みたいな子供が大好きな番組でも、ザ・ドリフターズと一緒に演歌歌手が出ていましたし。「演歌=大人が聴く、敷居が高いジャンル」というイメージではなかったんですよ。

──演歌を身近に感じていたわけですね。

母の影響も大きかったと思います。母は歌番組を観るだけじゃ飽き足らず、素人挑戦型の番組にも出ていたくらいなので。「ルックルックこんにちは」(日本テレビ系)の「女ののど自慢」というコーナーで、母の人生がドキュメント風に放送されていたのを今でも覚えています。私、横断幕を持って応援しましたから(笑)。番組に出演するため、母は家でも毎日練習しているわけですよ。それを私も自然に覚えて、気付いたら一緒に歌えるようになりました。

──歌番組が好きな少女だった市川さんが、「私も歌手になりたい!」と思ったきっかけは?

最初は地元のお祭りでした。カラオケ大会で地元のおじいちゃんとかに混じって歌っていると、「子供が演歌を歌っているよ。すごいねー」と年配の方が喜んでくれたんです。いっぱいの拍手、ときには“おひねり”までいただくこともありまして。それで味を占めたわけじゃないですけど(笑)、今度は素人参加型の番組に応募するようになったんですね。当時、ちびっ子系の歌番組が多かったので。商品も豪華だったから、「絶対あれが欲しい」と思ったら番組に合わせて練習して……全然ダメだったこともありますけど、運よく出場できたときは何度か優勝させていただきました。

──ご謙遜されていますけど、それは要するに「埼玉から現れた歌うま天才少女が各局の賞を総なめにする」といった状況ですよね?

いや、そこまででは(笑)。でも真面目な話をすると、そのとき一緒に出ていた子供たちは今思うとかなりレベルが高くて、のちに歌手になった方も多いんです。例えば水森かおりさんとか北山たけしさんとか、少し上の世代だと島津亜矢さんとか……。こうしたちびっ子軍団の中で、私はどちらかというと新参者。すでにプロみたいなお洋服を華やかに着こなしている子たちを見ながら、「すごいね」って母や兄たちと一緒に隅っこで圧倒されていました。向こうからしたら、私なんて「あの子、誰?」って地味すぎて目に入らないような存在だったと思いますよ。

──ちびっ子歌番組がきっかけで、デビューする流れになったんですか?

直接は関係ないですね。その頃からデビューは目指していたので、レコード会社の新人歌手オーディションを何度か受けたんですけど、落ちてしまいまして……。それでも夢をあきらめたくないので、地元のカラオケ大会に出場したりする中、埼玉新聞が主催するカラオケ大会を見つけたんです。そこに出たところ、たまたま観にきていた当時の事務所社長がスカウトしてくれたんですよ。

──どう思いました?

正直、だまされていると思いました。「そんなこと、ある?」って(笑)。レコード会社のオーディションで引っかからなかった私が気まぐれで出たカラオケ大会でチャンスをつかむなんて、話としてできすぎじゃないですか。とにかく私は歌手になりたいという気持ちが強かったですからね。

市川由紀乃

──なぜ歌手になることにこだわっていたんですか?

それは自分の家庭環境が大きかったです。母子家庭ということに加え、8歳上の兄は脳性麻痺で体が不自由なものですから。私が中学のときに両親が離婚してからは、家計もすごく苦しかったですし。母は働きっぱなしで、兄の面倒はずっと私が見ている生活。そんな中、自分の取り柄といえば歌うことくらいしかないわけですよ。まだ女子高生で生意気ながらも、歌で家族を養っていきたいという気持ちはありました。

──胸が打たれるエピソードです。そうなると歌に懸ける思いも違ってきますね。

誤解しないでいただきたいのは、家族3人でいること自体は幸せだったんです。苦しくて絶望していたというわけではないんです。ただ生活面を安定させたいという考えはあったので、そこで歌手としてデビューしたいという思いにつながったんですね。

──1993年に“JK演歌歌手”としてデビュー後、戸惑いや驚きもありました?

自分の中では、芸能界には華やかな印象しかなかったんです。デビューしたら、すぐテレビに出られると思っていましたし。だけど実際は、すごく地道で過酷なキャンペーンから始まるんですね。そのことを当時の社長から念押しするように説明されて、かなり怖気付きました。「私、そんな厳しい世界でやっていけるのかな?」って。