無声化した母音をどう取り入れるか?
──ヨルシカも間違いなく、今を表現してますからね。
そうだと思います。ポップスの歌詞は今の話し言葉にも近いし、いわゆる誤謬(考え、知識などの誤り)が取り込まれていてもいい。誤謬や誤解を含んだうえで、その時代の文化が成立してるわけなので。僕も間違いをあえて残したことがあるんですよ。「昼鳶」という曲に「世は死に体の音楽ばかり」と書いたんですけど、suisさんが「死に体(しにたい)」を「しにてい」と歌ったんです。もしかしたら「しにてえ」のリズムのほうが歌いやすいのかもしれないし、このメロディに対しては「あ」の母音より「え」の母音のほうが合うのかもしれない。それが歌い手の直感であり、suisさんの選択なんだから、そのまま残そうと。今こっそり取り組んでることとしては、「無声化した母音をどう取り入れるか?」というのもあって。
──無声化した母音?
例えば聞くの「き」。あとわかりやすいのは「ありがとうございます」と言ったとき、最後の「す」から母音の「う」が消える現象ですね。これは関東方言の話ですが。母音の無声化は一般的には、日本語でいうところの「い」や「う」の母音が無声子音に挟まれたときに生起しやすいんですが、歌においてはどこに休符を置きたいかの欲求が先にあって、作詞者は意識的に無声化を選択することができる。それは日常的な発話でほぼ起こらない箇所でも無声化を起こすことができるというのが僕の主張で、近年の作詞の実験的な部分でもあります。「二人称」に入っている曲で言うと「へび」の「また巫山の雲を見たいだけ」の部分。「巫山(ふざん)」の「ふ」の母音は「ざ」が有声子音なので通常の発話では無声化しないですが、そこを無理やり無声化することによって、ちょっと変わった響きを持たせられないか試しました。それは歌というものが、言葉になるか、音楽になるかどうかの狭間だという気もしてきたりします。
──もちろんsuisさんの技術も重要ですよね。発声、響かせ方もそうですけど、それぞれの楽曲に最適な感情が表現されていて、本当に素晴らしいと思います。
suisさんのことで言うと、今回のアルバムは1つの完成形に近いと思います。今までで一番と言っていいくらい表現に悩んでたんですよね。端から見ている実感として。ヨルシカの楽曲には特有のノリがあるし、僕が作る曲もさらに難しくなっている。この2年くらいはsuisさん自身もかなり試行錯誤していたと思うし、殻を破ろうともしてたんじゃないかな。
ヨルシカバンドへの信頼
──バンドメンバー(下鶴光康[G] / キタニタツヤ[B] / Masack[D] / 平畑轍成[Pf])との関係性もヨルシカの軸だと思います。今回のアルバムのレコーディングはどうでした?
ずっと一緒にやってるメンツですからね。生録音を大事にしているのも変わってないし、長年やっている中で意思の疎通もさらにスムーズになっている。僕がやりたいことをすぐにわかってくれるし、いろんな提案もしてくれて。こちらから「もっと面白いフレーズない?」とか「そこはリズム外して」みたいなムチャぶりをすることもあるし(笑)、とにかくやりやすいです。
──スタジオミュージシャンではなく、固定のメンバーのバンドであることが大事。
そこは僕の人間信仰みたいなものがあるんだと思います。極端な話をすれば、僕1人でも形にはなるんですよ。打ち込みを使わずとも、すべての楽器を演奏して重ねることはできる。でも、彼らの演奏のクオリティには絶対に達しないんです。長年その楽器に向き合ってきた人には必ず独自の色が発現するし、それが合わさることで独特のグルーヴが発生する。それがバンドの面白いところだし、1人では生み出せないものなので。メンバーは全員プロフェッショナルだし、絶対的な信頼を置いていますね。
──年数を重ねることで人間的なつながりも強まるのでは?
そうですね。ミュージシャンとしての向上心を失うことなく、毎回毎回、新しい何かを持ってきてくれる。ずっとうまくなろうとしていて、同じところにいようとしない姿勢はやっぱりすごいなと思います。見えない地平を見ようとしている人たちというのかな。妥協がまったくないところが好きなんでしょうね。
自分自身を差し出す必要があった
──「二人称」に流れるストーリーは基本的にフィクションでありながら、極めて生々しい肉体性を帯びているように感じます。それはやはり、n-bunaさん自身の思いや経験が刻まれているからだと思うのですが。
もちろんそうだと思います。「二人称」って、要は過去の自分の話なんですよ。引用癖のある少年が「引用が手段でしかない」と気付くという。そういうメタ構造を持った作品だからこそ、自分の肉をちぎって差し出さないと真に迫るものにはならないと思うんです。「この手紙って、本当にあったのかな?」と思ってしまうほどの実感が必要だし、今回は自分自身をふんだんに差し出しています。
──小説の中には「途方もなく広い砂の海からたった一粒の琥珀を見つけなければいけない」という一節があります。n-bunaさん自身、“これが自分の言葉、表現だ”という確かなものを手にしつつある感覚があるのでは?
いや、見つからないですね、それは。「見つけた」と思うのは傲慢というか。ずっと見つからないものを探し続けるしかないと思っているので。ある瞬間に「これでいい」と満足したり、「光る琥珀を見つけた」と思ったりすることがあるかもしれないけど、しばらく経てば「輝きが足りない」と感じるだろうし。
──決して見つからないとわかっていて探し続ける。その満たされなさがn-bunaさんを創作に駆り立てているんでしょうね。
今回のアルバムの制作中、音楽的にも「自分はいろんな文脈で成り立っているんだな」と意識させられることが何度もあって。もっとシンプルに言うと「いろんな音楽を聴いてきたんだな」と実感しました。1つひとつの曲に対して「音作りはどうしよう?」とエンジニアの方と方向性について話す場面があったんですけど、例えば「火星人」「ルバート」などのファンクのノリが入っている曲のときはThe Gap Bandを参考にしたり。
──サウンドメイクの引用ですね。
そのために昔好きだった音楽をかなり聴き返しました。濱田金吾の「ミッドナイト・クルージン」という名作があるんですけど、とにかく音がいいんですよ。あとはShalamarの「A NIGHT TO REMEMBER」だったり、チャカ・カーンの曲のベースの音だったり。最近の人だとUKジャズのユセフ・デイズ。現代的な音だけどグルーヴがすごくいいんですよ。かと思ったらMassive Attackを聴きたくなったり(スマホで「Teardrop」をかける)。
──懐かしい。
ですよね。そのほかにもディアンジェロ、マーヴィン・ゲイ、Parliamentとか。ミシェル・ンデゲオチェロの「Peace Beyond Passion」もすごく好きだし、Average White Bandのような、黒人ではない人たちがブラックミュージックの文脈で音楽をやっているものもそこにしかない面白さがあったりします。
──当然、n-bunaさんもアーティストである前に音楽オタクでもあって。
そうですね(笑)。ただ、そのまま拝借するのは違うんです。ゴスペルがまさにそうですけど、音楽は宗教や文化的な文脈なくしては語れないし、形だけを借りても、模写しただけの絵になってしまいますよね。僕がやるべきなのは、自分が今まで吸収してきた音楽を踏まえて、その文脈の先端に自分がいることを理解しつつ、日本語のポップスを追求することだとよく考えます。日本語というモーラリズム言語の等時性、つまり「こ・ん・に・ち・は」の5文字が均等な長さで続いていく構造と、そこに生まれる言語的なリズム、単語の持っているピッチアクセントに対応したメロディの生まれ方がJ-POPの核心なのかもしれない。それはものすごく深い海だし、どこまで潜っても、潜りきれることはないと思います。
──3月にはアルバム「二人称」を引っさげたアリーナツアー「一人称」がスタートします。n-bunaさんにとってライブの醍醐味とは?
ライブもコンセプトありきなので、アルバムを出す感覚に近いんですよね。自分が監督した映画をお客さんが観ていて、その姿を見ているというか。しかもサウンドトラックをその場で演奏してるっていう。
──ギターも楽しそうに弾いてますよね。
楽しいですよ。ギターは家で弾いても楽しいですが(笑)。ライブの場合はアドリブも入ってくるし、その日によってバンドの出来も違うので、そこも面白いところなのかなと。たまにお客さんのほうを見て、楽しそうにしてくれてるとうれしいです。ライブにおける窓口はsuisさんだし、彼女が一身に引き受けてくれているので、僕はちょっと楽な気持ちでやってるかもしれないです。
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suisに聞く、「二人称」とn-buna




