山川豊|演歌歌手がボクサーになりTikTokerになり…そして「拳」で這い上がる

顔面にパンチをもらったときにパッと目が覚める

──「拳」の歌詞には、山川さんご自身の経験も反映されているそうですね。

うん。人は誰しも人生の中でどん底に落ちることが一度や二度は必ずあると思うんですよね。じゃあ、そこからどうやって這い上がるか。そのやり方は人それぞれでしょうけど、僕の場合は違う世界を見ることだったんです。僕はデビューして10年目ぐらいに仕事が減って、眠れなくなったり目が回ったり、体にも変調をきたしていたんですよ。しかも当時は、僕よりもあとにデビューした兄の人気がぐんぐん上がっていたから、それが余計にプレッシャーになって「これはまずいな」と。この状況を克服するにはただ家でじっとしてるんじゃなくて、何か夢中になれるものを探さないといけない。ということで始めたのがボクシングだったんです。

──山川さんはプロボクサーのライセンスをお持ちですが、そんなきっかけで始められたんですね。

とにかく暇だからジムに通ってひたすらサンドバッグを叩いてね。家に帰ってくると眠くてしょうがなくて、不眠症が治っちゃったりしたもんだから「これだ!」と思ったの。それがちょっとエスカレートして、ライセンスまで取っちゃった。

──そこまで行ってしまうのは……。

山川豊

おかしいですよね(笑)。僕は歌手ですから、本当はそこまで行っちゃいけないんですよ。事務所からも「顔に傷がついたらどうするんだ」と止められたんだけど、ジムに行ってスパーリングして、顔面にパンチをもらったときにパッと目が覚めるんだよね。僕ら歌手が殴られることって普通はないじゃないですか。

──ないでしょうね。

あと、一緒に練習生として入った子がプロになって「なんであいつがプロになれて、俺がなれないんだ?」みたいに思ったりもしちゃって。僕は歌手の山川豊としてではなく、いち練習生としてジムに通っていたから、ほかの練習生と友達になって家に遊びに行ったりもしたんですよ。その中の1人は地方から出てきて、四畳半一間のアパートを借りてアルバイト生活をしていたんだけど、彼の部屋には家財道具が一切なくて、炊事場に鍋もないんですよ。聞けば、バイト先の喫茶店で余ったパンの耳を袋いっぱいもらってきて、それを水と一緒に食べてるんだって。それを聞いて「俺ももっとがんばらなきゃいけない。原点に立ち戻ってやり直そう」という気持ちになりました。そして「もうこれがダメだったら歌をやめてもいい」と思って発表したのが「しぐれ川」(1990年4月発売の12thシングル)という歌だったんです。

──山川さんはデビュー曲「函館本線」(1981年2月発売の1stシングル)で日本レコード大賞・新人賞を受賞し、1986年には「NHK紅白歌合戦」にも出場されていますが……。

そんなのは過去のものです。また一から始めようと、無我夢中で、自分が納得いくまで「しぐれ川」を歌ったのがどん底時代。もうね、スナックでも歌いましたよ。だから、僕の場合は今話したようにボクシングが這い上がるきっかけになったんだけど、そうやってちょっと道から外れてみることも大事なんだよね。もちろん人によってきっかけはさまざまだろうけど、何かしら行動を起こさないと何も始まらないから。

ボクシング世界チャンピオンから学んだこと

──山川さんはプロボクサーのライセンスと共に、トレーナーの資格もお持ちなんですよね?

山川豊

さっき言った「しぐれ川」から歌に集中してたから、必然的にボクシングから離れていったんだけど、行き詰まったときにまたジムに顔を出してたんだよね。そこでいろんな選手を見ているうちに「この子はこうすればもっと伸びる」とか、各選手の特徴みたいなものに気付くようになってきて「じゃあトレーナーの免許も取ってみようか」と。以来、今に至るまでトレーナーをずっと続けているんですけど、僕が歌手だということを知らない選手も多いんですよ。だいたいみんな19歳とかですから。でも中には、たまたまテレビに出てる僕を見ちゃったりして……。

──あり得る話ですね。

ある日「あの……トレーナーは、山川豊さんなんですか?」って急にかしこまっちゃう子もいました。いつもは「あ、トレーナー、おはようございまーす」なんて軽く挨拶してるのに。そういう子たちの中から、例えば内山高志くんのように世界チャンピオンまで上り詰める子も出てくるんだよね。僕は内山くんからプロとしていろんなものを学ばせてもらいましたよ。彼は、もちろん素質もあるんだけど、いつも隠れて練習してたんです。隠れて人一倍体を痛めつけて、そのうえでジムに来て普通にトレーニングしてる。いわゆる見えない努力というやつなんだけど、これができるのがプロなんですよね。

──そのプロ意識は歌手業にも共通すると。

共通しますね。ほかにも、うちのジムは田口良一くんや河野公平くん、京口紘人くんといった世界チャンピオンを輩出しているんですけど、彼らはなぜ強いのか。それが知りたくて何回もVTRを観て分析しましたし、そこから、今度は自分が歌っている映像も意識して見るようになったんです。ただ、自分が見るのと他人が見るのとでは見え方が違うじゃないですか。だからいろんな人に感想を聞いたりもして。自分では「ちょっとまずいな」と思ってても、「そこがよかった」と言われたり、もちろんその逆もあって、そこで学ぶこともありました。やっぱり自分自身の姿を客観的に把握するというのも大事ですね、プロとして。

──山川さんはボクシング以外に、社交ダンスもなさるんですよね?

ダンスに関しては中途半端なもんですけどね。アマチュアなんだけどメダルテストというのがあって、3級、2級、1級、ブロンズ級、シルバー級、ゴールド級、ファイナル級、スーパーファイナル級という階級があって、僕はシルバーで止まっちゃってるんです。だからいつかゴールド以上を目指したい。そんなこんなで来年デビュー40周年を迎えるんだけど、そうやっていろんな世界を見てきてよかったなと思いますね。

「木村! おめでとう! 木村!」

──山川さんの経歴話をもう少し引っ張ると、自動車整備士として、地元・三重県の鈴鹿サーキットに勤めていたこともあるんですよね?

はいはい、歌手になる前にね。僕は職業訓練校の板金科に入っていたから、溶接の免許も板金3級の資格も持っていて。だから、例えば車をちょっとぶつけたときにできた傷ぐらいだったら今でも自分で直しますよ。まだ手が覚えてますから。

──職業訓練校に進んだということは、その時点では歌手になろうとは思っていなかったんですか?

いや、中学3年生のときにテレビで五木ひろしさんが歌っているのを初めて見たときから「歌手になりたい」と思ってたし、訓練校の寮でも自分の部屋に五木ひろしさんのポスターを貼ってましたね。普通なら女優さんとかのポスターを貼るんだろうけど。だから学校を卒業して鈴鹿サーキットに勤めはしたけど、1年もいなかったかな。当時、姉が名古屋にいたから「歌える場所があったら連絡くれ」と頼んでおいたんです。で、「歌える場所が見つかったよ」と言われて名古屋まで行ったら、そこはキャバレーだったんですよ。

──おお。

そこで僕は朝から晩までキャベツを切ってばかりいたんだけど、たまに開店前に、ちょっとだけ歌わせてもらえたんだよね。当時のキャバレーはバンドさんも入ってたから、そこが唯一の勉強場所。そうこうしてるうちに8トラのカラオケが普及し始めて、その音源を使ってオーディションに応募したんです。それをたまたま東芝EMI(現:ユニバーサルミュージック)の方が拾ってくださって「本当にやる気があるなら東京へ出てこい」と。

──すごい。

でもね、当時の僕には彼女がいて、そのことをなかなか彼女には言い出せなくて。ものすごく悩んでやっぱりこんなチャンスは二度とないと思って打ち明けたら、彼女も「こんなチャンスはないから」と送り出してくれたんです。それで東京に出てすぐに歌手になれると思ったら大間違いだった。僕はただ単に東芝の社員として雇われたんです。

──え?

普通に社員としてあちこちの放送局を回ったり、お茶汲みしたりしてたの。当時、東芝EMIには村田英雄さんや松山恵子さんが在籍されていましたから、その宣伝を一所懸命するわけです。でもね、これがのちのち効いてくるんですよ。歌い手というのは、これだけたくさんの人に支えられて活動しているんだということが、身に染みてわかったから。だから僕がデビューして新人賞を取ったときは、みんなで抱き合って泣きましたね。そのとき、みんな僕のことを「山川」じゃなくて本名の「木村」で呼ぶんですよ。やっぱり「山川豊」を名乗っていても社員時代は「木村」だったから、みんなその頃に戻って「木村! おめでとう! 木村!」ってね。そういう目に見えない絆みたいなものも、社員として働いていたおかげでより強く感じられたし、それを決して忘れてはいけないと思ってここまで来ましたから、いい経験でしたよ。

山川豊

息子のアイデアでラップに挑戦中

──ここまでの山川さんのお話ぶりからは、「拳」を若い人にも聴いてもらいたいというお気持ちが窺えます。やはり演歌は若い人に敬遠されがちという問題意識をお持ちで?

そうですね。演歌だからご年配の方を中心に聴いていただければいいとは思いませんし、さっきも言ったように石川さんの「天城越え」は若い人も歌っていますから。しかも「天城越え」は本当に演歌っぽい演歌であるにもかかわらず。あるいは坂本冬美ちゃんの「夜桜お七」もけっこう若い人に歌われているんです。そこには若い人も惹きつける何かがあるわけで、それを若い人に直接聞いてみたいし、聞いていくのが大事なんですよ。どうしてその曲を歌いたくなるのか。

──「天城越え」に関しては、歌うのが難しい曲だから、歌いこなせたらカッコいいみたいな理由もあるでしょうね。

そうそう。理由はなんであれ、歌というのは皆さんに歌っていただいてナンボなんですよ。それがどれだけ大事かということも、デビューしてから39年の間に学ばせてもらいましたね。もちろん演歌だけじゃなくて、ポップスでもロックでもそう。ある歌を誰かが歌っているのを聴いて、「いい歌だな」と思って自分も歌ってみて、それを聴いた別の誰かがまた「いい歌だな」と……そうやって歌は人から人へと伝わっていくものだから。それで言うとね、僕の歌で「流氷子守歌」(1984年11月発売の6thシングル)というのがあるんですけど、息子が「この歌、ラップにしたらどう?」って言うんですよ。

──めちゃくちゃいいアイデアじゃないですか。

僕からは出てこない発想だよね。だから今、知り合いのスタジオを借りてちょっと挑戦してるんです。実現できるかわからないけど、それをインターネットで発表したらどんな反応が返ってくるかなって。やっぱり演歌も進化しないといけないですよね。ただし、進化しつつ、一方で旧来のスタイルみたいなものも引き続き大事にしていきたい。そういう多様性が今は必要なんだと思います。

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