さユり|クロスレビューで紐解く、“酸欠少女”の原点と今

さユりの弾き語りアルバム「め」が6月3日にリリースされる。

これまで発表されてきた全シングル曲や初正式音源化となる楽曲「夜明けの詩」を含む計15曲を、新録の弾き語り音源として収録したこのアルバム。さユりの原点であるアコースティックギターの弾き語りから、彼女のアーティストとしての芯を感じ取れる内容となっている。一方4月1日にはアサヒ食品グループ「クリーム玄米ブラン」TVCMソングとしてオンエア中の新曲「ねじこ」が配信リリースされた。こちらはポップなメロディと軽快なリズムに乗せて「ねじこぼれた自由を歌え」と高らかに宣誓する、さユりにとって新境地の1曲となっている。

音楽ナタリーではこの2作品の発売を記念して、ライター5名によるクロスレビュー企画を実施。多角的な視点から、さユりの魅力を感じ取ってほしい。

さユり「め」「ねじこ」クロスレビュー

生まれたままの響き

須藤輝

須藤輝

かねてからさユりはシングルのカップリングには自作曲の弾き語りVer.を収録してきた。それについて彼女はインタビューで「私は作曲するときはギターだけで作るので、その曲の生まれたままの姿というか『こういう響きの中で私は作ったよ』っていう、最初の状態を聴いてもらえたら」と語っている。その意味では、自身初の弾き語りアルバム「め」は、いわば未加工の響きを新録で再パッケージした作品ともいえよう。ただし、その響きは必ずしも万人の耳に優しいものではないと思う。痛みとか息苦しさとか、そういう類いのワードを連想させる響きだ。アコギと歌のみという極めてシンプルな録音がそれを一層鋭いものにしている。と同時に、そんなネガティブなあれやこれやを引き受けつつ前を向きたいというひたむきさみたいなものも感じられる。それこそが彼女の歌の魅力ではないか。

一方のデジタルシングル「ねじこ」は、これまでさユり楽曲のアレンジの多くを手がけてきた江口亮による、ノイジーでありながらポップな音作りが耳に刺さるオルタナ的なナンバー。さユりの創作における重要なモチーフである“航海”の延長というか、その先を示唆するような、より前のめりなひたむきさが表れた1曲に仕上がっている。

須藤輝(スドウヒカル)
1978年生まれ。アダルト雑誌、デザイン / カルチャー関連書籍の編集者を経てフリーランスに。ジャンルを問わずインタビュー、ルポルタージュ、書評、ブックライティングなど雑多に活動中。

「居場所のなさ」から始まった旅は、
力強く帆を張り海原へ

柴那典

柴那典

表現に宿る“切実さ”というものについて考えることが、よくある。

それがありありと感じられる音楽に、どうしてか惹かれてしまう。ジャンルやスタイルを問わず、聴き手に1対1で迫るような熱量が込められていて、結果としてBGMになりえない音楽。さユりの曲を聴いて初めて感じたのが、そういう意味での切実さだった。

「フラレガイガール」がリリースされたときに楽曲を手がけたRADWIMPSの野田洋次郎とさユりの対談取材をしたことがあるのだけれど、そのときの話ですごく記憶に残っているのが、2人とも「ここは自分の居場所じゃない」と感じる10代を過ごしてきて、大人になった後もその感情がエネルギーとなって自分を突き動かしていると語っていたこと。そして、歌詞を書くことで自分自身をより深く知ることができたと語っていたことだ。

新曲の「ねじこ」は「立ちはだかった難題を前に 微笑み戦うガール」という歌い出しのフレーズがとても印象的な1曲。「僕ら」という言葉を使って、聴く人を鼓舞するような力強さを持った曲だ。

一方、「め」にはデビュー前の路上ライブでも歌っていた「夜明けの詩」が初の正式音源として収録されている。彼女の原点となった曲だと思う。そこから「航海の唄」まで、負の感情から「それでも立ち上がる」というメッセージ性を持った歌を歌う中で少しずつ変わっていった足跡も感じ取れる。

聴いている側も、いつのまにか彼女の歌が持つ熱量に、向き合ってしまう。そういう抜き差しならない関係性が最大の魅力だと思う。

柴那典(シバトモノリ)
1976年生まれ。株式会社ロッキング・オンを経て、2004年に独立。音楽ジャーナリストとして活動し、「初音ミクはなぜ世界を変えたのか?」「ヒットの崩壊」「渋谷音楽図鑑」といった書籍を発表している。

ネットとリアルのあわいで奏でる
ギターと歌のセンチメント

柴崎祐二

柴崎祐二

いつの時代でも若者はイラついていて、センチメンタルだ。それは彼らの特権であり、ときには彼ら自身を内規的に支配する。ネット空間でこの間コラージュされてきたさまざまな意匠(ミーム)を、弾き語りというフィジカルな表現法と縫合してみせたさユりは、そのイラつきとセンチメントの分裂的リアリティを、ヒリついた肯定と甘やかな否定を交えながら巧みに提示する。

さまざまな思惑やマーケティングが跋扈するJ-POPという鵺(ぬえ)のような空間において、彼女の楽曲は驚くほどに“ピュアに”J-POP的クリシェを多く内包しているが、それは、自身の多層的なキャラクターイメージ展開でもそうするように、非常にシミュラークル的であるとも言える。弾き語り形態によって顕にされた各楽曲の骨格が教えてくれるのは、彼女の激情であると共に、ポップスパフォーマーとしてのしぶとさだ。

スペクタクルと内観の相克が、アコースティックギターと歌のみという非ネット的で“生々しい”編成で矢継ぎ早に繰り出されていくとき、デジタルとフィジカルのあわいを航海する猛々しい“個”の姿が立ち上がってくる。強靭な身体は、今やリアルとネットという二律背反的見取り図ではなく、それが揺らぐ地帯に生息するのだろう。そうした印象は、彩りあるバッキングを得ながらもあくまでさユり自身のフィジカリティが補強される配信リリース曲「ねじこ」を聴くと、より一層はっきりとしたものとなっていく。

柴崎祐二(シバサキユウジ)
1983年生まれ。2006年よりレコード業界にてプロモーションや制作に携わり、多くのアーティストのA&Rディレクターを務める。現在は音楽を中心にフリーライターとしても活動中。

そんな私を愛するために

蜂須賀ちなみ

蜂須賀ちなみ

往々にして20代はわかってもらえない。理解されず笑われて、悶々としつつもあきらめきれず、今に見てろと唇を噛む。一方、誰かを許すこと、認めることこそが愛なのだと初めて知り、戸惑いを覚えるのも同じ頃だ。大人とはなんなのか。自分はそれになりたいのか。自己と他者の狭間で20代は常に揺れている。

アルバム「め」と新曲「ねじこ」を聴いたとき、そんな私たちの姿とさユりの歌がぴったりと重なった感覚を覚えた。

そこにあるのはピンと張った歌声と鋭いタッチのギターのみ。歌を通じて裸になることに重きが置かれた、剥き出しの弾き語りアルバム。対して新曲は、軽やかな曲調からして新鮮だし、何かが欠けた自分を三日月に喩えた少女が「手にあるもの以外は何もないぜ」と高らかに歌うようになったのも重大な変化だろう。しかし満月になれたのかというと、おそらくそうではない。始まりのギター、岩肌に近いその手触りが物語っているのは、どうしても変われないという自覚、「それでも進む」という意志が今の彼女を駆り立てているということだ。

私は何も持っていない、だけど誰かに見つけてほしい。そんな願いを叫び続ける彼女の歌声は、私たちの歌は、これからも細かに揺れ続けるだろう。

蜂須賀ちなみ(ハチスカチナミ)
1992年生まれ。2013年、20歳のときに「音楽と人」でインタビュー記事を執筆。2014年にフリーランスライターとして本格的に活動を始め、以降「ROCKIN'ON JAPAN」「Skream!」「SPICE」「Real Sound」といった幅広い音楽媒体で記事を執筆している。

アーティストとしての本質を“再認識”できる
弾き語りアルバム

森朋之

森朋之

ライブの演出やミュージックビデオでは最新鋭のCGを駆使し、SNSでは自らをキャラクター化する活動も行っているさユりだが、“路上ライブで不特定多数のリスナーに訴求し、デビューのチャンスをつかみ取った”というエピソードが示す通り、根底にあるのは、歌とアコギだけで生の感情を真っ直ぐに描き出すシンガーソングライターとしての資質。その意味で“弾き語りアルバム”は単なる企画モノではなく彼女の本質とダイレクトにつながる、極めて重要な作品だと思う。いつか訪れるはずの光を思いながら、暗闇の中で佇む姿を描いた「ミカヅキ」、“君”の純粋な世界を守りたいという(まるで「ライ麦畑でつかまえて」のような)願いを歌った「それは小さな光のような」。既発のシングル曲を含む本作は、さユりというアーティストの神髄を再発見できる大きなきっかけになるはずだ。

光を求めて、自ら歩き始める決意が真っ直ぐに伝わってくる新曲「ねじこ」も、軸にあるのは歌とアコギ。表裏一体だったネガとポジが反転した印象を受けた。編曲は江口亮。フォーキーな手触りの弾き語りとチープシックな打ち込みとエディットによるトラックが融合したアレンジは、まるでベックの「Loser」(の明るいバージョン)のようだ。

森朋之(モリトモユキ)
1969年生まれ。音楽ライターとしてJ-POPを中心に幅広いジャンルの記事を執筆し、「音楽ナタリー」「Real Sound」「オリコン」など各媒体で活躍している。
さユり