ReoNaが新作「Naked」を5月11日にリリースした。
本作には傘村トータ(LIVE LAB.)が作詞作曲した3曲の新曲「ライフ・イズ・ビューティフォー」「テディ」「Someday」と、ReoNaの代表曲の1つ「ANIMA」の新録バージョン「ANIMA -Naked Style.-」を収録。「Naked」=“裸”というタイトルの通り、いずれの楽曲でもReoNaの赤裸々な心情や伝えたい思いが表現されている。
音楽ナタリーでは今作の制作背景に迫るべく、ReoNaにインタビュー。そこには「今だからこそさらけ出せる」という、ReoNa自身が感じてきた“絶望”と“救い”があった。
取材・文 / 須藤輝撮影 / 笹原清明
ReoNaの剥き出しの、赤裸々な言葉を詰め込んだ
──タイトルである「Naked」には「剥き出しの」「裸の」「ありのままの」といった意味がありますが、このEPはそんな“Naked”なReoNaさんを提示している?
おっしゃる通り、ReoNaの剥き出しの、赤裸々な言葉や気持ちを詰め込んだEPになります。
──なぜこのタイミングでそういう作品にしようと思ったんですか?
大きく2つ理由があって、まずReoNaは“絶望系アニソンシンガー”として活動している中で、今回のEPはアニメの主題歌を収録していない作品として、お歌を届けられる1枚だったんです。以前も同じようにアニメの主題歌が入っていないシングルをリリースしているんですが、そのときはReoNaとしてデビューしてちょうど1年経った頃だったので、改めて「はじめまして、ReoNaです」みたいな、私のお歌の原点をゼロからお伝えしたくて「何もない」という意味の「Null」(2019年8月発売の3rdシングル)というタイトルを付けたんです。そこから今に至るまでいろいろな形で絶望を紡いできたけれど、まだお歌にできてないものがあって。それは、今だからこそさらけ出せるものだと感じたのが1つ。
──はい。
もう1つはサウンド面に関することで、今回はリリースの翌日からツアーが始まるんですが、そのツアーは初めてアコースティックバンドで回るツアーなんです。なので、ツアーを想像しながらEPの制作も進めていましたし、EPのタイトルとツアーのタイトルを同じ“Naked”にしようと思いついたとき、EPとツアーを通して、今のReoNaの“赤裸々な”音楽をより伝えられると思ったんです。
──各曲の編曲は、1曲目「ライフ・イズ・ビューティフォー」が荒幡亮平さん、2曲目「テディ」と3曲目「Someday」が堀江晶太(PENGUIN RESEARCH)さん、4曲目「ANIMA -Naked Style.-」がNaked Band(荒幡亮平、山口隆志、比田井修、高慶“CO-K”卓史、二村学)となっています。曲によってストリングスやホルンも入っていますが、あくまでバンドの生音が主体で、アレンジ面においてもコンセプチュアルですね。
まさに生の音、“Naked”な音色という意味も含めています。
──本作に収録された書き下ろし曲は、3曲すべて傘村トータ(LIVE LAB.)さんが作詞作曲を手がけています。傘村トータさんはこれまで「unknown」(2020年10月発売の1stアルバム「unknown」リード曲)と「生きてるだけでえらいよ」(2021年5月発売の5thシングル「ないない」カップリング曲)の作詞作曲、および「いかり」と「心音」(いずれもアルバム「unknown」収録曲)の作詞をなさってきた方ですが、今回、ReoNaさんの“Naked”を表現するにあたって抜擢されたんですか?
傘村トータさんは、口にするにはあまりに痛々しい心の内側をお歌にして、誰かに届くものにしてくださる方で。このEPでもReoNaの剥き出しの内面を一緒に形にしたかったという思惑も当然あったんですが、制作していくうちに自然と3曲とも傘村トータさんの楽曲に決まっていきました。
命そのものが美しい
──今回の新曲はどれも、先ほど言及した「生きてるだけでえらいよ」にあった要素を深掘りしているような印象も受けまして。
まさに、どの曲も「生きる」ということを起点に考えられています。
──1曲目の「ライフ・イズ・ビューティフォー」は、歌詞に「あーあ、生きてりゃいいのよ」とありますし。ただ、「生きてるだけでえらいよ」は重くシリアスな楽曲でしたが、「ライフ・イズ・ビューティフォー」はそれを反転させているというか、同じテーマに対して明るく軽やかなサイドからアプローチしているのかなと。
「ライフ・イズ・ビューティフォー」というタイトル自体が「生きてるだけでえらいよ」の言い換えというか、違う角度から光を当てた側面もあると思っていて。「ライフ」って、私は主に「生活」や「人生」という意味に捉えていたんですけれど、「生命」という意味もある。命そのものが美しいという意味での「ライフ・イズ・ビューティフォー」でもあるのかもしれません。
──それを作るにあたって、傘村トータさんとはどのようなやりとりを?
傘村トータさんも私も同じLIVE LAB.という事務所に所属しているのですが、この楽曲ができあがったタイミングに私も立ち会うことができまして。そこでまた傘村トータさんの新しい一面を垣間見た気がしたんです。すごくポップで軽やかなメロディの中に、名前も知らない誰かと誰かの人生がたまたますれ違う瞬間みたいなものが込められていて。私自身もつい人を目で追ってしまうというか、例えば電車の窓から遠くのマンションのベランダでタバコを吸っている人が見えたら「あの人は今、どんな気持ちなんだろう?」と想像してしまったり。同じ電車に乗っている人に対しても「この人は会社帰りかな?」とか、学生さんだったら「今、何年生なんだろう?」とか。
──僕もわりと人を見てしまうタイプなので、その感じちょっとわかります。
そうやってたまたまその場に居合わせた人たちも、きっと順風満帆に生きている人はそんなにたくさんはいなくて、もしかしたら平然とスマホをいじっているあの人も、実は大失恋をした直後かもしれない。道行く人たちも、泣いていたりひどく落ち込んだ顔をしていたりする人はなかなかいないけれど、大なり小なりつらいことや苦しいことを抱えているはずで。それでもみんなこうして生きているんだなと、すれ違う人を眺めながら思っている私自身と重ねられもしたので「ReoNaにこの楽曲を歌わせていただけませんか?」と。それが、この「ライフ・イズ・ビューティフォー」のスタート地点でした。
──「生きてるだけでえらいよ」の歌詞には、下を向いて生きている主人公がふと「マンホールさくらだったんだー」と気付くというくだりがありました。つまり絶望のさなかに小さな救いらしきものを見つけるわけですが、そこも「ライフ・イズ・ビューティフォー」と相通じるものがあるなと。
楽曲だけ聴くと「生きてるだけでえらいよ」はものすごく暗く、「ライフ・イズ・ビューティフォー」はどちらかというと朗らかに聞こえるかもしれません。でも、共通して歌いたいのは絶望に寄り添うことだったり、今おっしゃってくださったような、日常に落ちている小さな救いだったりするんです。
あのとき、立ち向かえなくてよかった
──「ライフ・イズ・ビューティフォー」におけるReoNaさんのボーカルは、いつになく明るいですね。テンションとしては「あしたはハレルヤ」(シングル「ないない」カップリング曲)に近いと思いましたが、「あしたはハレルヤ」ほど脱力しておらず、よりカラッとしているというかクリアに聞こえます。
今回はすごく、声のアプローチに悩んだんですけど、まさに「あしたはハレルヤ」があったからこそ「ライフ・イズ・ビューティフォー」があると感じていて。「あしたはハレルヤ」を歌ったことで、絶望に寄り添うお歌を歌う=楽曲が暗くなきゃいけない、というわけではないということに気付いたんです。
──なるほど。
私としては「ライフ・イズ・ビューティフォー」では、「あしたはハレルヤ」よりもさらに声の仄暗さを抑えたかったので、その仄暗さを持ち込まないためにどうしたらいいのかをいろいろ考えてまして。例えば吐息を減らしてみたり、会話するように、少年のように歌ってみたり。もともと私は活動を始めた頃から「ReoNaは何を歌っても暗くなる」と言われていて、それはそれで私の声の特徴でもあると思うんですが、今回はそれだけじゃなくて、この楽曲の温かさや軽やかさをちゃんと伝えたい。ReoNaとしては新しいアプローチになったと思います。
──また歌詞の話に戻りますが、僕が特に好きなのが「今日もよく頑張ってしまったよ」というフレーズで。要は、生きているだけで偉いのだから別にがんばらなくていいのに、がんばって“しまった”のだと。
本当に、みんな生きているだけで偉いんです。私は学生のとき「今日こそ絶対に背伸びしない」と決めて学校に行ったことがあるんです。毎日しんどくて、これ以上自分をすり減らしたくなかったから。でも、どうしても誰かに話しかけられたら愛想笑いを浮かべたりしてしまって。ありのままの自分でいられない自分に疲れていたんですけど、きっと当時の私はすごくがんばってしまっていたんだなと、今は思います。
──若い人に対して「自分らしくあれ」みたいなことを言う人がいますけど、難しいですよね。特に高校生以下は多くの場合、学校によって徹底的に個性を殺されていますから。
「自分らしく」とはどういうことなんだろうと考えてしまうし、個性的であることがマイナスに作用しがちだとも感じます。私はある時期から学校に行かなくなったんですけど、やっぱり「学校に行かない人間は悪だ」という扱いを受けていて。でも、例えば1学年に40人のクラスが4つあったら、その人たちはみんな同じ経験をするのだから、そっちで勝手にやってくれればいい。私はそこに加わらない代わりにインターネットでいろんな音楽を聴いて、いろんなアニメを観て、誰よりも速くパソコンのキーボードを打てる……そんなちっちゃい言い訳を探して、40人×4クラスと同じことができない自分をだましながら生きていたんです。ただ、あのとき無理やりにでもクラスの中に入っていけなかった弱い自分がいたから、今、私は私としていられているとも思うんです。あのとき、立ち向かえなくてよかったなって。
次のページ »
ただ隣にいてくれればそれでいい