大江千里×江口寿史対談|2人の“せんちゃん”が振り返る80年代のこと (2/3)

僕の周りには千里さんファンが多い

──江口先生は雑誌「昭和45年女」に連載中の「ヒサシ☆ダイスケの回転ちがいのズル休み」で、大江さんへの思いを熱く語られてましたね。

江口 タイトルからして千里さんの曲(「回転ちがいの夏休み」)をもじってますから(笑)。鈴木ダイスケという音楽ライターとの対談連載なんですけど、彼もまた大江千里愛が強くて。僕の周りには千里さんファンが多いんです。そいつらとやる「大江千里しか歌わないカラオケをやる会」は堂々と歌えるからすごく楽しい(笑)。

大江 どの曲を歌われるんですか?

江口 僕は「おねがい天国」。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

大江 「クィック、クイック、クイック」「スロウ、スロウ、スロウ」ですね。

江口 あれを歌って踊る大江さんのマンガを描いたから(笑)。

大江 歌うのが難しい曲ですよね。

江口 難しいです。ちょっと気合いを入れないといけない。あれは普段のカラオケだと絶対歌えないです。あと「Rain」。キーが高いからちょっと大変ですけど、僕ギリギリ出ます。ちなみに千里さんはキーを上げて歌ってたんですか?

大江 上げてました。80年代後半は「キーは高く設定したほうが売れるんだよ」とスタッフから言われて、ツアーから帰ってきてもう声出ないですよって中、勘弁してーって言いながら高いキーでレコーディングしてました。

江口 あの頃のJ-POPの曲ってキーが高めですよね。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

コピーは自分で書く派の大江千里&江口寿史

──先日、アメリカで1987年以来35年ぶりにアナログレコードの販売枚数がCDを上回ったことが話題になりましたが、80年代はアナログレコードからCDへ移る過渡期でした。

江口 日本盤のレコードにはタイトルとかキャッチコピーが書かれた帯が付いてましたよね。あれ捨てちゃう人もいたけど、僕はレコードの帯は全部付けたままとってあります。千里さん、帯のキャッチコピーも自分で書いていたんじゃないですか?

大江 書いてましたね。自分で自分の作品に「今世紀最高の~」とか(笑)。

江口 僕も自分で書きます。今やってる個展のコピーも自分で書いてますから。まず、タイトルが先にできるんです。「美人画だけを集めた展覧会を」と言われたときはピンと来なかったけど、「彼女」というタイトルが出てきたときに、あっ、じゃあできそうだなと。そういうのってありますよね?

大江 ありますね。僕もデビュー当時、アルバムの曲がまだ1曲もできてないのに、少女マンガみたいなタイトルを並べて、こういう感じのコンセプトにして……って大学の購買部で買ったノートに書いてました。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

江口 細野晴臣さんがYMOを作る前、マーティン・デニーの「Firecracker」をカバーして世界で400万枚売るとか、いろいろ書いてたじゃないですか? あの感じ(笑)。

大江 そうです、その感じ。でも僕の場合、デビューがゴールみたいなところがあったからそれは大間違いでした。発売日に心斎橋のレコード屋に行ったら「WAKU WAKU」(1983年発売の1stアルバム)が置いてなくて。一生懸命ほかの店も探してやっと見つけた1枚を一番目立つところに持ってきてね(笑)。なんだ、デビューってゴールじゃなくてスタートなんだと思った。

江口 ああ、そうか。

大江 今でも思い出すのが、マネージャーが少ない荷物で浜松町の駅をどんどん先に行く中、デカいキーボードと衣装を抱えて必死になって追っかけていく自分の姿です。現場に行くと「プチセブン」の撮影で、「高いとこからジャンプしてください」と言われて「こうですか? こうですか?」って一生懸命ジャンプして(笑)。北海道に行ったらラジオの3分枠の番組で、「大江千里のポップンミュージック! さあ、今日も始まりました!」って挨拶して「いただいたおハガキの内容に曲つけちゃいましょう! ♪南一条、西四条♪ また来週!」と歌う。で、終わったら大阪に直帰して、最寄りの駅に停めた自転車に乗って田んぼ道を走っていく感じでした。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

──おしゃれなコンセプトと現実は全然違ったんですね。

大江 今はそのときに戻った感じでジャズをやってるから、日本武道館3日間公演とか横浜スタジアム公演とか「あれは幻? なんだったんだろう」という感じで。今はいい意味で振り出しに戻った感が強いです。

江口 でも楽しそうですね、今の生活は。ライブを観ててもすごく楽しそうにやってらっしゃるし。締め切りを設けられて、ヒットを求められて、っていうのはもう絶対やりたくない感じでしょ?

大江 いやあ、期待されて、たくさんのチャンスをレコード会社の人にいただいたんですけどね。でも僕、「格好悪いふられ方」の次に「HONEST」ってシングルを出して2匹目のドジョウを狙ったんだけど、ちょっといかんせん地味な曲調で。自分でも「少し違うのかなあ」とか思いながら「夜のヒットスタジオ」のランスルー中、桑田(佳祐)さんと原坊(原由子)さんに「千里くんさあ、自分に書く曲も光GENJIの『太陽がいっぱい』みたいな楽しいのにすれば?」って言われて。もう目から鱗で、そう言われてみれば「太陽がいっぱい」みたいな曲を自分が歌う発想が僕にはまったくなかった。「そうかあ、そういうのありか」って思ったときには、僕自身はどんどんマニアックなことをやり始めてたんですよね。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

左から大江千里、江口寿史。

「今まだやれる。新しい仕事も来てる。やめるんだったら今だ」

──ヒットを求められる過酷さは、週刊連載をやってこられた江口先生も体験されていますね。

江口 アンケート次第で「この作品はダメ」とか言われたり。描いてて全然楽しくなかったですね(笑)。楽しい瞬間もあるんですけど、相対的にはこんなにキツイのかという思いがありました。だから大江さんの話は聞いてて身に沁みますね。わかるなあって。それと47歳でイチからニューヨークの音楽学校行って学び直すというのは、誰もができるもんじゃないですよね。英語で授業を受けるのだって大変だろうし。

大江 ピアノは3歳から習ってたから、なんとなくピアノを弾きながら長く音楽をやっていけるんじゃないかと昔から思っていたんですけど、実際ピアニストになると指の疲弊は大変で、歳とともに指がどんどん動かなくなっていくんですよ。満身創痍で「いつ弾けなくなる? 明日かもしれない」と覚悟しながら、それでも今日弾けていること自体が奇跡だなと思うようになった。シンガーソングライターの頃は「1年先、今より悪くなったらどうしよう」と今日起こっていることを不安視してた。でも今は、「今日も1日まだ弾けてる。ありがたい」と思えるようになった。それだけで全然違うかなというのはあります。

大江千里

大江千里

江口 ただ、ジャズは年齢関係ないじゃない? 歳をとってからもやってらっしゃる方いるし。週刊連載をやってた頃に一番嫌だったのは、アイデアが出ないとかじゃなく、年々若い人が出てくることなんです。それに自分はどう対処するのかばっかり考えてたかな。ロックと一緒で、新しいもののほうが上という感覚が日本は特にあるから。俺は今そこから外れたんで、すごく楽ですね。葛飾北斎みたいに90歳まで描いた人のことを思うと、まだ僕も絵が描けるわけだし、競争から降りてよかったなと。

大江 それもまだ「自分はやれる」って時期にそうするのが大事ですね。47歳のとき、60歳になって赤いちゃんちゃんこ着て「きみと出逢えてよかった 愛だけが いま力になる」(「GLORY DAYS」)と歌うにはそれなりの覚悟が必要だと思ったんです。漠然とじゃダメだ。それが自分にできるかなと。その頃は新しい仕事も来てて調子もよく、上昇気流だった。辞めるんだったら今だって思ったんですよね。それでニューヨークのジャズ大学に入学して、最初のクラスで先生が黒板に書く文字が見えなくて、「うわ、なんで? 突然老眼が始まるの?」って。大江千里という偶像でいなくていい、本来のアーテイストでいいんだって思った途端に目の老化が始まって、でもニューヨークでは日本で持ってた持病はすべて治りました。一切ピルを飲まなくてよくなったんです。「もしかしたらもっと違う生き方があるのではないか」という心の声が、強い力で僕をアメリカへと引っ張ってってくれたのだなと。あのときアメリカに渡らないで日本に残ってたらと考えると、怖い。自分の心に正直に従ってよかったんだなって思う。