ナタリー PowerPush - 杉本恭一
LÄ-PPISCHデビュー25周年目前! ソロ新作「Macka Rocka」リリース
雪好が辞めて5人のバランスが崩れた
──そして、上田現さん脱退に至るわけですけど。
俺は現ちゃんと一番話はしてたんですよ。2人の曲があって、MAGUMIがそれを表現するっていうのがひとつの形になってたから2人で話すことは多くて。現ちゃんは自分の個人の表現っていうのもすごく本当はやりたがってる人で。1stアルバム(「LÄ-PPISCH」1987年)が出て、2ndアルバム(「WONDER BOOK」1998年)の前くらいに、「恭一、A面B面で半分半分でいいから、2人でソロを作らないか?」って相談されたんですよ。「早っ!」って思いました(笑)。
──まあ、早すぎますね(笑)。
俺はその頃ソロっていうものに全く興味がなかったし、多分LÄ-PPISCHで満足できてたんでしょうね。でも現ちゃんはその頃からやりたがってて、自分だけやるにはちょっとまだ勇気がなくて、俺に「ねえ一緒にやろうよ」っていう感じだったんですよ。で、まあなんとか「KARAKURI HOUSE」(1989年)がそこそこの成功っていうか、数字的にはLÄ-PPISCHでは一番の成功になっちゃうんですけど。そこで現ちゃんはソロ(「コリアンドル」1991年)をやりましたからね。だから一番LÄ-PPISCHが動くべき時期、一番数字が上がってる時期だから、制作予算も上がって。
──トッド・ラングレンにプロデュースを頼めるレベルの予算が出てたときだから。
そう。そのタイミングだから、全てのLÄ-PPISCHの歴史の中で一番予算をかけられたのって現ちゃんのソロなんですよね。で、まあ刺激にはなってたんですけど。俺も30歳になってソロ(「ピクチャーミュージック」1996年)出して、現ちゃんが「恭一が出すんだったら」ってまたソロ(「森の掟」1996年)作って。そのへんぐらいから、お互いLÄ-PPISCH以外の表現も必要になってきてた。そうなってくると、2人の中でそれまでにはないようなテンションも生まれてはきてたんですよ。で、結構メンバーと意見もズレ始める時期ですね。
──まあ、バンドをやってると必ずそういう時期はありますよね。
どこかでそれを破壊しなきゃって思って作ったのが「ポルノポルノ」(1995年)だったんだけれども。あれはあれでなんか俺たちの中でいいリセットができて、いい感じにいくんですけど。ユニバーサルに移籍、数字的にも下がってきてる中で、それでもなんとかしなきゃっていうムードがバンドの中にはあったんです。でもみんな「がんばろう!」っていうエネルギーが結構違う方向だったりして。方向が違っても頂上が一緒だったらなんとかなったのが、見てる頂上も違ったりしてきて。で、現ちゃん的には冷めてきてるのは気付いてたんです。そんな話も2人でしてたんですけど。で、あるとき雪好が辞めて。
──それでバランスが……。
崩れたんですね。多分あの5人で絶妙なバランスだったんですよ。そこで1人辞めたっていうことからバランスが狂って。実はそこで現ちゃん、ガンの疑いがあったんです。
──そうみたいですね。
うん。で、まず現ちゃんが辞めるっていうことを俺が相談されて。ミュージシャンとして自分のことをやりたいっていうのも理解してたし、LÄ-PPISCHの中でも見えなくなってることが多かったんですよ、正直あの頃は。で、体のことも言われて。
──残りの人生を好きなことに捧げたいっていうことですよね。
うん。これがまた体のこともあったから、発表が難しくて。
──そのせいで「なんかあったのか」みたいなイメージになっちゃって。正直よくわからなかったですね。
ああ、よくわからなかったですよね。
現ちゃんが辞めたときは両足がちぎれたぐらいの感じ
──上田現さんはそのときに余命2年って宣告されたわけですか?
いや、それは違います。まだ疑いがあるってだけで、結局そのときは違ったんですよ。ああよかったねって話で。結局そのときはガンではなかったですけど、もしガンであったとしたら、自分の本当にやりたいことだけやりたいと思ったっていうのが脱退の理由で。俺とMAGUMIとはどうしても幼なじみっていう部分が強いんですけど、上田現っていうのは相方だったりライバルだったりっていう存在だったんで。……なんだろうな。両足がちぎれたぐらいの感じだったですね、彼が辞めたときは。それでも逆にがんばんなきゃっていうモードには3人でなったんですけど。
──両足なくなってがんばるのはしんどいですよね……。
そうですね、なかなか……。その直後に現ちゃんが「ワダツミの木」(元ちとせ / 2002年)で大成功を迎えて。それはすごいうれしいことだけど、悔しいことでもあったりとか、なんか複雑で……。なんだかちょっとわかんなかったですね。街であの曲がかかってるときとか、寂しくなってました(笑)。
──誰がどう聴いても上田現さんの曲でしたからね。
モロそうだったじゃないですか。で、LÄ-PPISCHでも現ちゃんの作った「ワダツミの木」に負けないぐらい、並ぶぐらいいい歌があったんだけど、俺たちはそう(大ヒットに)できなかったっていう気分にもなるし。でも、なんとか両足ちぎれたまま3人でがんばろうと。方向がバラバラだけどとにかくがんばろうって、tatsuとMAGUMIと3人で1枚作るんですよ(「POP」2003年)。いいもの作ったっていう自信は今もあるんですけど、ただLÄ-PPISCHじゃねえなっていう。現ちゃんの曲がないことで。残念ながら今ならそう思いますけどね、あのときは認めたくなかったけど。ちょうどそのくらいの時期に現ちゃんにメシに誘われるんですよ。「恭一に相談がある」って下北沢に呼び出されて、2人で居酒屋に行って。その前に「LÄ-PPISCH辞めたい」って相談されたとき、彼は会計のときに「恭一すまん、200円しかないんだ」って言ったんですよ! 「お前、辞める話しに来て俺に金出させんのか?」みたいな。信じられない!
──最悪ですね(笑)。
「すまんのう」って。彼の中では、それが相当申し訳ないと思ってたんでしょうね。3人LÄ-PPISCHのアルバムが出てしばらく経って現ちゃんからメシに誘われて、彼は照れ屋だから俺にこういうわけですよ。「『恭一さんに世話になってきたんだから、一回きちんとごちそうしてやれ』って嫁に言われるんだ」と。
──「曲もヒットしたんだから」っていう(笑)。
そうそうそうそう(笑)。それで「いいよいいよ、メシ行こうよ」とか言って。今でも後悔してるんですけどね、あのときどうしても素直になれなくて、俺も(笑)。
──まだ複雑な感情が渦巻いてる頃ですからね。
そしたら現ちゃんに「この間は雪好をすごくいい料亭に連れていったんだ。そしたらあいつの食い方ときたら……」とか、そういう話を行く前にされて、「恭一はどんなところ行きたい?」とかって言われたから、どこ行ったと思いますか?
──高くない店ですよね?
ラーメン屋です。
──ああ、意地ですね(笑)。
意地です! 飲めるラーメン屋に行ったんですけど。そのときが俺、一番金なかったかもしれないな。音楽生活の中で。でも「次は俺が払うよ!」みたいな。
──2軒目は。おごられっぱなしにはならない。
そう。あそこでもうちょっと素直に現ちゃんとしゃべりたかったなって今は思いますけどね。
収録曲
- Birth
- Fantasia
- RED MONKEY
- ENCORE
- Piece of Cake!
- キャロラインベッキー
- KY? O....... IC! H I
- オー・ソレ・ミオ
- moon
- Antique Radio
杉本恭一 & The Dominators
「Tail Peace Tour 2011」
- 2011年12月3日(土)愛知県 名古屋ell. SIZE
OPEN 18:00 / START 18:30 - 2011年12月4日(日)大阪 梅田Shangri-La
OPEN 18:00 / START 18:30 - 2011年12月17日(土)東京都 原宿アストロホール
OPEN 18:00 / START 18:30
杉本恭一(すぎもときょういち)
1964年熊本県出身。1984年にLÄ-PPISCHを結成し、1987年にメジャーデビュー。1996年には初のソロアルバム「ピクチャーミュージック」をリリースし、自らが率いるバンド、analersでも精力的な活動を行う。2003年にLÄ-PPISCHが活動を休止した後はソロを中心にリリースやライブを続け、2011年10月に6枚目となるソロアルバム「Macka Rocka」を発表した。現在は上田健司とのユニット、穴場でも活躍中。