文III劇場っていって東大の文IIIの人達で演劇をやるっていう伝統があるんです
——オリジナル曲を作ったり、表現するっていうのはどれくらいの頃から?
いや、オリジナルはパソコンの最初の頃から作ってたんです。あまり、カバーはしたことがなくて。というか「ライディーン」のカバーをしたって話しましたけど、たとえばサビの頭の部分だけ一緒で後は自分で壊しつつ作り直して遊んでたんです。
——クリエイティヴな遊びをしてたんですねー。
作曲というよりは、あるものを破壊していくって行為が好きで。なんかとなんかの曲をくっつけたりとかそういうふうに遊んで。こういうの面白いでしょ?とか遊んでみたりね。
——その頃は将来どんな人になるんだろうって思ってたんですか?
とりあえず理系の研究者になるのかなって漠然と思ってました。っていうかコンピュータを使う仕事をしてみたいなって。
——そして、大学は東大へ入られたんですよね。しかも大学院まで。
結局、将来のことはあんまり考えていなかったんですよね。で、もうデカダンスっていうかあんまり役に立たないことがしたいなって思って文学部に入ったんです。で、大学では演劇をやってみたり。僕の大学ではクラスで演劇をやるっていう慣習があって、そのときに役者もやって演出もやって音楽も全部自分で作るっていう(笑)。CDも作りましたからねー。ちなみに、東大の文IIIの人達って、文III劇場っていって演劇をやる伝統があるんです。課題とかではなくて習慣なんですよ。
——へー、東大のカルチャーって奥深いものがあるんですね。表現の発散の場がいろいろあったんですね。
うん、当時の駒場寮の文化って今思えばすごい変わっていて、すごい良い空気だったんですよね。クリエイター的な。みんな将来何かを作りたいと思っているんだけど、所詮学生で力もなくて、そういう人達が集まって退廃してた(笑)。でも、その駒場寮は数年後に取り壊されてしまうんですけどね。機動隊に囲まれて(笑)。
——あー、ニュースにもなってましたね。そのときの演劇ってどんな方向性だったんですか?
いやぁ、所詮学生のやることなんですけど……演目は「星の王子様」で、ちょっと演出が小難しいことになってたりしたかなぁ。
キプロス島の音楽ってなんかドラクエみたいなんですよね(笑)
——で、そんなパソコンで音楽作っていた早川さんは、演劇を経由しつつ、どうやって東京エスムジカっていう民族音楽を取り入れたポップスに辿り着いたんですか?
それもまたちょっとさかのぼるんですが、中学3年くらいかなぁ、小泉文夫さんの編集されたCDを図書館で借りたのが最初でした。当時は、暇で時間もあったので町田市の図書館でCDを毎日のように借りてたんです。でも、ポップスは教科書的なものしかなかったというか。まあYMOはあったんですけど。そこでひととおり音楽を聴きまくって。でもポップスのCDの数がそんなにあるわけではないから次第に飽きてきて、なんとなく民族音楽に手を出してみたんですよね。
——じゃあ、落語を手に取るのと同じ感覚ですね。
そうそう。ひょっとしたら落語を聴いてたかもしれないし。
——で、それを聴いてみたらどんな感じだったんですか?
最初に聴いたのがキプロス島の音楽だったんです。ギリシャとトルコの間、ヨーロッパとアジアの完全に間なわけですよ。だからイスラム教の最前線とキリスト教の最前線の交錯するところで、音楽的に言うと僕らが想像するギリシャの音楽に近いんだけど、ちょっとなんか中東の香りもするっていうか。急にインド音楽っていうとちょっとハードルが高いかもしれないけどキプロス島の音楽ってなんかドラクエみたいなんですよね(笑)。そこでハマったんです。普通に聴いてカッコ良かったんですよ。
——意外なところで民族音楽とファミコンが繋がったんですね。
その後、大学生になった時に、作曲家の先生が小泉文夫のラジオを録音したテープを貸してくれたんです。それは30年くらい前なんですけど小泉文夫が解説をしているラジオで、内容は曲の解説と、過去の文化史の説明がとってもわかりやすく入っていて、それを聴いてファンになったんです。
——へー、その頃は学校ではどんなことを勉強していたんですか?
その頃は、まだ文学部の教養学部ってところにいて、東大は入った時はみんな一緒なんですけど、そのときに小泉文夫を知って、3年生のときに美学芸術学っていう小泉文夫と同じ学部に入るわけです(笑)。
——じゃあ道を決めるにあたって大きなターニングポイントだったんですね。そして、そこから民族音楽にどんどんハマっていったんですか?
そうですね、あとYMOとか聴きなおすと、そこには民族音楽の影響がいっぱいあって影響を受けたりしました。あと、当時テイトウワさんがガムランやってたりしてたんですよね。