“おゴージャス”なピアニスト、五条院凌とは?憧れの加藤登紀子との対談、コンサートにまつわるソロインタビューでその魅力に迫る (3/4)

五条院凌 ソロインタビュー

幼少期の“0.3条院”時代からピアノの練習に明け暮れ、学生時代もクラシック一筋で勉強し続けていたという五条院凌。彼女はどのような経緯を経て、“おゴージャス”な存在となったのか? 後編のソロインタビューではこれまでの活動を振り返り、個性的なパフォーマンスを確立させた背景に迫る。

まるで地獄のような日々、ピアノの特訓に明け暮れた“0.3条院”期

──五条院さんは幼少期からピアノの稽古に打ち込んでいたとのことでしたが、同時にバレエも習っていたそうですね。

ええ。幼少期……わたくしがまだ“0.3条院”だった頃ですね。当時は複数習い事をしていたのですが、ピアノの特訓は大変で地獄のような日々だったんです。一方でバレエのお稽古は天国で、ある種の逃げ道や救いの場となっていました。

五条院凌

──ピアノの稽古は地獄のようだった……ということは、かなり厳しい環境だったんでしょうか?

そうですね。それこそ義務教育と同じくらい力を入れていて、もはや生活の一部になっていて。まるで修行のような日々で過酷でした。

──相当ストイックだったと。ピアノを習うことはご自身で希望したのですか?

最初はお母さまに連れられて、とある音楽教室の乳幼児クラスに入ったんです。子供だけでなく母親も参加するようなコースで、お歌やリトミックを学びました。おもちゃのピアノに無我夢中で戯れていたり、音楽に合わせて体を動かすことが好きになったりしたことがきっかけで、お母さまがピアノとバレエを習わせてくれたんです。

──その中で、五条院さんが「ピアノを演奏し続けていこう」と心に決めたきっかけはなんだったんでしょう?

“0.9条院”の頃、地方の小さなコンクールで初めてお優勝したときですね。それまでなかなか成績が残せず、「悔しい、何が足りないんだろう」と幼いながらも対抗心が芽生え始めていたんです。練習が「強制的にやらされるもの」から徐々に「負けたくないからやるもの」になり、ようやくお優勝できたときに「続けていたら何か意味があるかもしれない」と思えて。そこで日々の慣習だったピアノ練習が意味のあるものに変わって、続けていくための大きなきっかけになりました。小学校高学年からは全国や海外、アジアの大会にも出場するようになり、とにかく戦いの日々でしたね。

五条院凌の誕生前夜、感情表現への興味と葛藤

──そのあと五条院さんは音楽学校に通われるようになったとのことですが、これはいつ頃から?

高校生となる“1.5条院”で上京し、音楽大学の付属高校に入学しました。今思えば、地元での地獄のような練習の日々から逃げるように上京したような気がします。

──過去のインタビューでは、クラシックを専門的に練習し続けていたのに対し、自分自身の感情を表現することにも興味が生まれ、その間で葛藤も生まれたと明かしていましたね。

音大2年生のときですね。クラシックを学ぶということは、偉大な音楽家たちの意思をわたくしの肉体を通し、現代の人々にお伝えすることになるんです。ですが教授方のレッスンを受けるうち、自分の素直な気持ちを音に落とし込みたい、表現したいという意思が強くなって。ある意味、反発心みたいなものだったのかもしれませんね。

──五条院さんのYouTubeアカウントにはピアノだけでなくキーボードでの演奏をメインにし、打ち込みを盛り込んだ楽曲もあり、現在とかなり異なる作風で驚きました。

五条院が覚醒する前の別人格ではクラブミュージックやエレクトロミュージック寄りのオリジナル曲を作っていて、トラックも制作していました。さまざまな音色を重ねていく作業がすごく楽しかったんです。当時はピアノ以外の音もエッセンスのひとつとして表現していきたかったので、トラックの上にピアノを重ねる方法で作品を制作していました。ですがなかなか世に広まらず、たくさんの人に聴いてもらうためにはどうしたらいいか、葛藤していた時期でもあります。

五条院凌

──2020年には新型コロナウイルスが流行し、演奏の機会が急激に減っていきました。五条院さんはこの状況をどのように捉えていたんでしょうか。

わたくし自身はそこまで直接的な影響は受けなかったのですが、世界中がバッドなおバイブスに包まれていき、周りには心を痛めてしまう人がたくさん出てきました。その中でさまざまな人との別れが立て続けに重なり、自分の生きる意味や生まれてきた理由について考えることが増えて。オリジナル曲がなかなか注目されないこともあって、「誰の目にも入らないなら、もう意味がないよな」と人前に立つ自信もなくなってしまい、漆黒の闇に包まれた時期でした。

──かなりつらい状況に……。

ですが人生を懸けてきたピアノを弾いているときは生きる喜びを感じられるので、それは絶対に捨てることはできなくて。そんな中どうやったら皆様の目に留まるか考え続けた結果、“五条院凌”という人格が覚醒したんです。

悲しみに暮れるコロナ禍、TikTokに“五条院凌”光臨

──五条院さんといえば“おゴージャス”な佇まいや口調が特徴的ですが、ご自身の中では幼少期からその片鱗が見えていたそうですね。

わかりやすく例えると「ベルサイユのばら」のオスカル様のように、勇ましくて麗しい存在になりたかったんですね。でも「わたくしには難しい」と考えるうち、いつからかその願望から目を背けるようになっていました。その後コロナ禍で悲しみに暮れているとき、「そう言えば、わたくしはこんな人になりたかったな」と思い出しまして。そこでわたくしの中で雷鳴が鳴り響き、おTikTokという表現舞台に足を踏み入れてみたのです。

──そこで五条院凌が誕生したわけですね。各SNSではネット音楽シーンで人気を博している楽曲を中心にカバーしていますが、活動内容はどのように固まっていったんでしょう?

最初に五条院のおテーマソングを発表したあと、おカバー曲を公開させていただきました。それがおTikTokユーザーのおギャル(五条院凌の女性ファンの呼称)様方のご興味とうまくおシンクロし、バラエティ番組「5時に夢中!」に取り上げていただいてからはさらに広がっていきました。そこからいくつかのおテレビお番組にお呼ばれし、中でもお「TEPPEN」に出場したあとは今まで見たことのない数のおコメントやおメッセが寄せられ、まことにおビッグな反響がありました。

五条院凌

──活動開始から「TEPPEN」出演までは1年以内の出来事なので、そのスピード感は驚異的だったかと思います。そして一連の反響が大きな会場でのライブにつながり、現在に至ると。

お「TEPPEN」への出演では「誰かと競ったり絶対に勝ちたい!」という思いよりは、今のこのわたくしの音楽世界を世に表現したかった気持ちが強かったのです。あの番組でのパフォーマンスで、わたくしの心と皆様の心がおシンクロできたと思います。振り返ってみると、幼少期は他人の評価で自分の人生が左右されるような生き方で、大学時代にようやく自分でクリエイトする喜びを知ったけど、皆様に音楽をお伝えする幸せを感じるところまではたどり着けなかったんです。だからこそ、不特定多数の皆様にわたくしのおバイブスを伝えられたことはすごくよかった。「この地球に、こんなにたくさんの人間がいたんだ」と思いましたし、多くの方々に見つけてもらえるような音を奏でられたんだと実感しました。

2023年11月3日更新