BLANKEY JET CITY×THEE MICHELLE GUN ELEPHANT特集|ロックシーンに衝撃を与えた2バンドの爪痕

BLANKEY JET CITY
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

1996年~2000年

1996

1

1月19日
渋谷CLUB QUATTROでコンベンションライブ開催

2

2月1日
メジャーデビューシングル「世界の終わり」リリース

3

3月1日
メジャー1stアルバム「cult grass stars」リリース

メンバーソロプロジェクトスタート。浅井健一プロデュースのSHERBET、照井利幸プロデュースのJOE BROWNN、中村達也プロデュースのLOVE SHOP LOSALIOS。

ライブツアー「cult grass stars tour」スタート

7

ソロワークスイベント「B・J・C×3計画 ~ブランキーだから許されること~」を都内で開催。各プロジェクトで作品をリリース。以降ツアーも開催。

8

アメリカ・ニューヨークとロサンゼルスでライブ開催

8月1日
シングル「キャンディ・ハウス」リリース

9

9月1日
2度目となる日比谷野外音楽堂公演を開催

9月1日
ライブツアー「after swimming tour」スタート

10

10月19日
シングル「リリィ」、
ライブビデオ「thee michelle gun elephant play
maximum rockin' blues」リリース

11

ライブツアー「ピンクの若いブタ」スタート

11月1日
アルバム「High Time」リリース

12

ライブツアー「High Time Tour」スタート

1997

1

ホールツアー「Spaghetti Hair」開催

4

ロンドン公演を含むライブツアー「WORLD STEREO LYNCH TOUR」スタート

5

5月1日
シングル「カルチャー」リリース

5月28日
シングル「ガソリンの揺れかた」リリース

6

6月18日
アルバム「LOVE FLASH FEVER」リリース

ライブツアー「皆殺しのトランペット」スタート

8

8月1日
シングル「ゲット・アップ・ルーシー」、ライブビデオ「WORLD STEREO LYNCH」リリース

9

9月3日
シングル「左ききのBaby」リリース

10

10月21日
シングル「THE BIRDMEN」リリース

11

11月1日
アルバム「Chicken Zombies」リリース

1998

1

1月7日
ライブ会場限定7inch「VIBE ON! / あんたのどれいのままでいい」リリース。「World Chicken Zombies Tour」スタート

1月21日
シングル「赤いタンバリン」、ベストアルバム「国境線上の蟻」を同日リリース

3

ライブツアー「Red Tambourine」開催

5

5月1日
MV集「FILM STARS REVENGE!」リリース

UKツアー「World Chicken Zombies Tour in the U.K.」スタート

6

6月10日
シングル「小さな恋のメロディ」リリース

6月24日
アルバム「ロメオの心臓」リリース

7

ライブツアー「ROMEO'S HEART~ロメオの心臓~」スタート

8

8月1日
シングル「G.W.D」リリース

「FUJI ROCK FESTIVAL'98 in TOKYO」出演

8月26日
シングル「ダンデライオン」リリース

9

9月1日
シングル「アウト・ブルーズ」リリース

11

11月3日
シングル「スモーキン・ビリー」リリース

11月7日
初のMV集「BABYFACE PRESIDENT」リリース

11月18日
シングル「SWEET DAYS」リリース

11月25日
アルバム「ギヤ・ブルーズ」リリース

12

12月2日
ライブビデオ「BARRACUDA」リリース

ライブツアー「CONNECTICUT GANG」スタート

アリーナ公演を含むライブツアー
「WORLD PSYCHO BLUES TOUR ~ ALL STANDING! MAXIMUM!!」スタート

1999

1

各ソロプロジェクト再始動

1月17日
横浜アリーナにて初のオールスタンディングライブを敢行

1月30日
アナログボックス「7inch vinyl box」リリース

4

ライブツアー「WORLD GEAR BLUES TOUR」スタート

5

5月1日
ライブビデオ「WORLD PSYCHO BLUES」リリース

5月16日
東京スカパラダイスオーケストラのドラマー青木達之の急逝を受け、中村達也がサポートとしてライブに参加

6

6月2日
シングル「ペピン」リリース

8

8月6日
シングルコレクション「RUMBLE」リリース

ライブイベント「RHYTHM TERMINAL SPECIAL」出演

初開催の野外ロックフェス「RISING SUN ROCK FESTIVAL 1999 in EZO」出演

イギリスとアメリカを回るライブツアー「WORLD GEAR BLUES TOUR」開催

12

ライブツアー「CONTINENTAL PUNK」開催

2000

2

2月2日
シングル「GT400」リリース

3

3月1日
アルバム「カサノバ・スネイク」リリース

3月4日
ライブイベント「Rock'n Roll Summit 2000」にシーナ&ロケッツとともに出演

4

「TMGE EUROPE TOUR 2000」開催

4月12日
シングル「Sea Side Jet City」リリース

5

ライブツアー「WORLD CASANOVA SNAKE TOUR」スタート

5月10日
解散発表
アルバム「HARLEM JETS」リリース

ライブツアー「LOVE IS DIE DIE IS A CHANGE」スタート

7

7月5日
ラストシングル「SATURDAY NIGHT」リリース

7月8日、9日
横浜アリーナで最後のワンマンライブ「LAST DANCE」を開催

7月28日
「FUJI ROCK FESTIVAL 2000」でラストライブを開催

7月29日
「FUJI ROCK FESTIVAL 2000」の2日目のヘッドライナーを務める
MV&ライブ映像集「FILM STARS NOT DEAD」リリース

9

9月20日
「LAST DANCE」の映像および音源をリリース

9月27日
シングル「ベイビー・スターダスト」リリース

10

10月25日
東芝EMI時代の曲を収録した「BLANKEY JET CITY 1991-1995」(白盤)とポリドール時代の曲を収録した「BLANKEY JET CITY 1997-2000」(黒盤)を同時リリース

12

12月13日
ライブアルバム「CASANOVA SAID"LIVE OR DIE"」、
ベストアルバム「TMGE 106」リリース

1996年2月、ミッシェルはついにメジャーデビューを果たす。デビュー曲はのちのちまで彼らの重要曲として愛され続け、解散ライブ「LAST HEAVEN」でも演奏された「世界の終わり」である。翌3月には1stアルバム「cult grass stars」を発表する。RadioheadやRideを手がけたクリス・ブラウンをエンジニアに迎え、ロンドンでレコーディングされた。

このとき、チバは28歳。遅咲きのデビューと言って差し支えないだろう。バンドブームの頃は、デビューする新人バンドの年齢が25歳を超えていると聞くと「年いってるね」と言われてしまう時代だった。要はロックといえどアイドルの延長線上にすぎないと音楽業界では思われていた。音楽の中身などどうでもよく、若さの勢いと輝きだけが求められていた。20代後半、30歳近くなってのデビューなど、90年代の初頭には考えられなかった。もしそんな時代に、まだビートパンクの殻をお尻につけたままのミッシェルがデビューしていたらどうなっていたか。彼らが成長し、音楽的に完成されるまで周りは待ってくれただろうか。もしかしたらバンドブームの終焉とともに彼らは早々に解散してしまい、我々の知るミッシェルの音楽は存在すらしなかったかもしれない。5年、6年という雌伏の時を経た遅咲きのデビューだったからこそ、すべてのタイミングが合致して、ミッシェルは一時代を築くことができた、と言えないだろうか。バンドブームが終息し、閑古鳥が鳴いていたライブハウスシーンからHi-STANDARDやTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのようなバンドが現れ、急速に支持を伸ばした。その時期だからこそ彼らは表舞台に上がることができた。新しい時代が到来しつつあった。それは大げさに言えば、歴史の必然だったのである。

1stアルバムの頃はまだ緩やかなパブロックのノリを残していたミッシェルのサウンドは、デビュー後さらに、急激に進化していく。単なるレトロやリバイバルではなく、同時代の息吹を吸い込んだコンテンポラリーなロックとして、強度を増していくのである。ブレイクスルーは3作目のアルバム「Chicken Zombies」(1997年11月)だった。私が初めて彼らの取材をしたのもこの頃だった。基本的な音楽性は1stアルバム以前から完成していたものの、デビュー以降の短期間で多くの経験を積み、別物のような劇的な進化を遂げた。音が太くなり、バンドの足腰がたくましくなった。デビュー当時は1時間半のフルライブを持たせるのも四苦八苦だったバンドは驚くべき勢いで骨太に完成されていった。本作リリース直後、1998年1月のライブを観て、当時私はこんなふうに書き残している。

「まったくすごいライブだった。……バンドの力量と、勢いと、メンバーの精神状態と、回りの状況と、そのすべてがここまで合致することは滅多にない。ヤワなバラードなど1曲もなく、同じようなリズムと同じようなリフの曲が続きながら、勢いが衰えるどころか、まるでターボがかかっているかのように加速していく。まさに成長期にある、旬のバンドの強みである。そんな時期は、バンドにおいても、そして人生においても、たった一度、しかもごく短い間しか訪れない。……今見なければならない。次があるさ、では遅い。98年初頭のTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTは、今しか見るときがないのである」

同年8月には東京・豊洲で行われた第2回「FUJI ROCK FESTIVAL」に出演。客が暴れすぎて何度も演奏が中断するほどの熱狂的なライブと「俺たちがニッポンのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTだ!」というチバのMCは今も語り草だ。まだほんの少し残っていた「洋楽のほうが邦楽より上」という価値観は明らかに揺らぎつつあった。硬派なロックにはあまりなじみのなかった層、洋楽しか聴かなかったような客層も飲み込みながら、ミッシェルの勢いはさらに加速していく。

一方、解散の危機はかろうじて回避したものの、ブランキーは相変わらず細く美しいワイヤーの上を綱渡りするような危うい活動を続けていた。1996年が開幕すると同時に始まった各メンバーのソロ活動はバンド内の緊張関係を和らげガス抜きするような意味があったのかもしれない。中村が「鉄男」で世界的に知られる塚本晋也監督の新作「BULLET BALLET」に準主役級で抜擢され、その活動の幅を広げたのもこの頃。その間ブランキーはデビュー以来所属していた東芝EMIを離れ、Polydor Records(現ユニバーサル・ミュージック)に移籍したのち、1997年6月に6枚目のアルバム「LOVE FLASH FEVER」をリリースする。前作で土屋昌巳の元を離れた彼らが初めてセルフプロデュースで作ったアルバムだった。

ジャケットの雰囲気もガラリと変わり、それまで革ジャン革パンの硬派なモノトーンファッションで人を寄せ付けないような孤高のムードを漂わせていた彼らのイメージは少しずつ変わりつつあった。シングルを一切出さなかった東芝時代に対して、タイアップ絡みのシングルを次々とカット。アルバムは土屋プロデュース作品のような緻密な完成度はないものの、さまざまな制約から解き放たれて、封印していた華やかでカラフルな衣装を再びまとったかのような自由さが感じられた。

そして決定打となったのは、続く「ロメオの心臓」だった。30万枚以上を売り上げるブランキー史上最大のセールスを記録。東芝EMI時代は知名度と評価の高さに比してセールスは伸び悩んでいたが、ブランキーのマネージャー藤井努氏は「このバンドは7万、8万のレベルじゃない。もっとたくさんの人に聴いてもらうべきだ」という信念を持っていたという。移籍を機に一新された体制で、それを見事に実現させたのである。それはメンバー自身がより開かれた意識へと少しずつ変わっていったこと、「赤いタンバリン」「小さな恋のメロディ」「ダンデライオン」といったポップなシングルを書き、それが次々とヒットして、客層の裾野を大きく広げたことが大きかった。また藤井氏は「ミッシェルのセンセーショナルさがちょうどロックに目覚めようとする世代から多くのファンを引っ張ってきてくれたおかげもあった」と語っている。ミッシェルがファンの裾野を大きく広げることで、ブランキーも恩恵を被った、というわけだ。かつて凍り付いたような沈黙が支配していたブランキーのライブは拍手と歓声と合唱と、モッシュやダイブさえも起きるようになった。ブランキーは共感され、共有されるようになったのだ。だが、同時に「ロメオの心臓」は、Radioheadの影響で初めて打ち込みを使ったエレクトロニックな意匠が導入されたアルバムであり、これがバンド内に影を落とす遠因となる。

ここまで読んでいただいてわかる通り、ブランキーとミッシェルは特に大きな接点を持たない。音楽的に似通ったところはあるが、デビューした年も世代も違うし出自も違う。バンドとしてのあり方も異なる。前述の第2回「フジロック」をはじめ、同じフェスに出たことは何度かあるが、直接の対バン経験はない。もちろんお互いのことは知っていただろうし、特にチバは浅井の歌詞を意識していたフシはあるものの、特に大きな影響を受けたとは思わない。チバが照井や中村とバンドを組むのは、ずっとあとになってからだ。

だがこの時期、BLANKEY JET CITYやTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT、あるいはNUMBER GIRLやTHE MAD CAPSULE MARKETS、ギターウルフといったバンドが、競い合うように充実したライブを繰り広げていたことは確かな事実だ。当時「クラシックの精神はヨーロッパで滅んでアメリカと日本で保存されている」と言った人がいたが、それにならって言えば「ロックンロールのスピリットはアメリカとイギリスで滅んで日本で保存されている」というのが、当時の私の偽らざる実感だった。間違いなく当時の日本のロックのトップは世界最高レベルのライブをやっていた。「俺たちがニッポンのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTだ」というチバのMCは単なる虚勢じみたハッタリではなく強固な自信に裏付けられたものだったのである。それがはっきりと世界に向けて発信されたのが、2000年の「FUJIROCK FESTIVAL」だった。

1997年の第1回から2025年に至るまでの長い歴史で、日本人アーティストがフジロックのヘッドライナーを勤めたのは、ブランキーが初日7月28日に、ミッシェルが翌2日目の7月29日に、それぞれGREEN STAGEのトリとして出演した2000年しかない(コロナ禍で日本人しか出なかった2021年を除く)。

ブランキーのマネージャー藤井氏によれば、これは藤井氏とミッシェルのマネージャー能野哲彦氏が、当時のフジロック主催者スマッシュの代表である日高正博氏にそれぞれ直談判した結果だという。今や世界中で日本のロックバンドが一番すごいライブをやっている、日本を代表する国際的なロックフェスティバルであるフジロックは今こそ日本人アーティストをヘッドライナーに抜擢すべきだ、という思いからだった。大型フェスティバルのヘッドライナーの重みを誰よりも知る日高氏は逡巡したというが、結果として日本の音楽フェスティバル史上初めてとなる画期的なブッキングがこの年行われたのは紛れもない事実である。

ちなみに藤井氏と能野氏はこの前年の99年に北海道で日本人アーティストのみで構成した大型フェスティバル「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」を立ち上げている。あえて北海道で興した理由の1つに、フジロックと同じ本州での開催を避け、苦難は多いが関東から最も離れた地(北か南)で成功させることを第一義としたという。またその行動は当時のロックシーンに大きな風穴を空けてくれたフジロックと日高氏に対する最大限のリスペクトであったとも認めている。

ブランキーは8枚目のアルバム「Harlem Jets」完成直後に解散を決断。2000年5月10日、「Harlem Jets」発売の告知と同時にそのことを発表した。なんの前触れもなく新聞の全面広告でいきなり知らされた驚きはあったものの、来るべき時が来たと感じたのは筆者1人ではないだろう。解散ツアーが行われ、同年7月8、9日に横浜アリーナでラストライブ「LAST DANCE」が開催されたが、本当のラストライブはフジロックだった。それは、共有され、ファンのものとなったブランキーの音楽を不特定多数が集まるフェスという場でもう一度ブランキー未体験の世代に向けて拡散・発信することを意味した。いわば文化の継承であり、その場がワンマンライブという、ある意味閉ざされた場所ではなく、フジロックという開かれた場所であることが重要だった。ブランキーが初日、ミッシェルが2日目という並びも、「自分たちの後継者はお前らだ」という含みがあったのかもしれない。

ともあれブランキーは2000年7月28日をもって、10年の歴史に幕を閉じ、すべての活動を終了した。あとを託された形になったミッシェルの歴史はまだもう少し続く。

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