ALI|東京にもう一度火を灯す、ファンクとヒップホップを融合させた多国籍バンドのメジャー1stシングル

頼るのは昔のロックスターだけ

──ALIの音源を聴いていると、“月”の部分もあるけどなるべく“太陽”の側に立っていたいという欲求をすごく感じるんですけど、そういうポジティビティみたいなものはどこで得られたんですか?

LEO(ALI)

音楽を真面目に勉強したい、ピアノや歌の練習をしたいと思ったときに面倒を見てくれた人がいたんですけど、その人のお父さんが大学でキリスト教を教えている先生で、本がめちゃくちゃ好きな家だったんですよ。その影響か、子供から大人になる過程でゲーセンとかクラブに遊びに行く手段もあったんだけど、それよりもっと自分を満たしたいという欲求があったんです、俺には。そういう中で毎週その先生が聖書やニーチェの話をしてくれて、「人生の真理ってなんだと思う?」と、永遠に答えが出ないものに対してクエスチョンしてくれたんですよね。それがデカかったのかもしれない。

──それはいくつくらいの頃ですか?

17歳から22歳くらいのときかな。そういえばその時期に幽霊が見えるっていう人が急にやってきて、気になるから見てもらったら「あなた、早く自分で曲を作ったほうがいいわよ」って。俺も「じゃあやりますわ」と言って、実際に曲を作り始めました(笑)。それまではNirvanaやOperation Ivyのコピーをしてたんですけど。

──その頃から音楽で食っていきたいという気持ちがあったということ?

それはもっと前。中学生くらいのときから、もう音楽のことしか考えられなくなってましたね。音楽を聴いていると楽しくてしょうがなくて、授業中でもずっと聴いてたいと思ってたし、それでバンドを始めました。思えば初めてギターを教えてもらったときから、ずっと音楽をやっていきたかったんだと思います。当時俺はThe Beatlesも好きだったんですけど、「1」というベストアルバムをお母ちゃんに買ってもらって。それが異様にカッコよく聴こえるわけですよ。で、友達にギターで「A Hard Day's Night」を弾いてもらったら、The Beatlesが目の前に現れたように感じて。それまで古い音楽として聴いていたものが、目の前に時を超えて現れたわけです。だから音楽ってすげえと思って。俺は知り合いは多いかもしれないけど、友達は決して多くなかったし、頼れるのは昔のロックスターしかいなかったから。ジョン・レノンやカート・コバーンも人生模様が波乱万丈じゃないですか。そういう人たちと自分を重ねて「俺はやっぱりスターかも」って自分に言い聞かせるしかなかったんですよね。

──それでいうと、ロックスターは27歳で他界するという“27クラブ”というネガティブな定説もありますが、「自分は生き急いで早く死んでしまうんじゃないか」という怖さはなかったですか?

ああ、確かにそれくらいのときは死にたかった時期もありました。でも初めてメジャーデビューしたり世の中が少しずつ見えてきてから、俺の中で反抗期というか、人生に挑戦するような時期がやってきて。それで音楽的にもいろいろとアプローチしていく中で、あるときWACKO MARIA(ファッションブランド)と出会ったんです。

──そこが大きな分岐点になるんですね?

そうですね、かなり。

バンドってめちゃくちゃイカれてる

──ちなみにLEOさんが最初に人生を重ねたのはロックスターだったけど、ALIの音楽にはヒップホップの要素も色濃く盛り込まれていますね。もし昔ヒップホップを聴いていたら、自分はラッパーになってたかもしれないと思うことはありますか?

いや、ラップもやってたんですよ。それこそ今回の作品に参加してもらったGOMESSと一瞬だけ。GOMESSが初めて東京に出てきたとき、俺が25歳くらいであっちが17歳くらいだったんですけど、家がないって言うからうちに泊めてあげたことがあるんです。そのときに「ラップ教えてよ」って、一緒に録ってMTRで歌って。

LEO(ALI)

──GOMESSくんと一緒にやりながらラップも面白いと感じた?

感じましたね。正直、俺はいまだにラップはわからないんです。でもわからないから好きだし、カッコいいと思うし、ドキドキする。それでも、俺にとってはバンドが世界で一番カッコいいという思いは変わらないんですよね。

──それはどうしてですか?

やっぱね、バンドのグループ感っていいなと思って。男でも女でも、ジャンルも関係なく人が集まって「今日から俺たちはこれね!」ってグループとして1つの名前を名乗るって、変な現象じゃないですか(笑)。めちゃくちゃイカれてるとも思うし。それでも人が集まって、それぞれが信じる音楽を一緒に奏でるのがバンドだし、それによって人がもらう力って大きいと思うんですよね。

森敦彦さんは俺の親父

──先ほどWACKO MARIAとの出会いが大きな分岐点だったと話されていましたが、ブランドの代表でデザイナーの森敦彦さんとはどこで知り合ったんですか?

俺が昔サッカーをやっていたときのコーチがWACKO MARIAのお店で働いていて、その人を尋ねて遊びに行ったんです。そこで森さんを紹介してもらってから、仲よくしてもらえるようになって。知り合って5年後くらいに「お店を作るから手伝ってくれない?」と言われたんです。そのお店が「PARADISE TOKYO」(WACKO MARIAが運営するアパレルショップ併設のコーヒースタンド)で。森さんに誘ってもらえたことがめちゃくちゃうれしかったので、お金はいらないから働きたいという気持ちでお店に入ったんです。森さんはレコードコレクターでもあるから、森さんの集める音楽を聴ければそれでいいみたいな。

──そこからずっと店に立っていたんですか?

LEOが幼少期に遊んでいた場所の付近で光るライト。

そうですね。もともとお店に立つ前から曲を作ったりツアーを回ったりもしてたんですけど、自分の音楽について「これは本当に自分が心から感動できるものか?」とか「これをやったら世の中にウケる? ウケない?」とか、そういうことを考えるのが嫌になっちゃって。それで、「何年経っても自分が自然な状態で表現できる音楽をやりたい」と思っていたときに森さんに出会えたので、3年くらい本腰を入れていろんな音楽を聴いて勉強したんです。勉強といっても森さんと一緒にひたすらレコードを聴くだけなんだけど、それがめちゃくちゃデカかったんですよ。森さんが聴かせてくれる音楽はYouTubeとかネットには上がっていない曲ばかりだったし、いいオーディオで聴くと音の細胞を感じられるような気がして楽しかった。店に立っていた間は毎日そういう経験ができたので、すごく特別な時間でした。

──森さんと出会って自分の中で音楽的な革命が起きたんですね。

まさに。それで、今まで自分が好きだった音楽は一旦全部忘れようと思って、7inchアナログでしか出てないような人たちの音源をたくさん聴かせてもらいました。本当に森さんとの出会いは大きくて、今も俺の親父だと思ってます。