東京・渋谷発の7人組バンド、ALI。日本だけでなくヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカといったさまざまな国にルーツを持つメンバーで構成され、インディーズ時代からファンクやソウル、ジャズ、ラテン音楽などの要素を取り入れた楽曲を発表してきた彼らが、11月25日に4曲入りのメジャー1stシングル「LOST IN PARADISE feat. AKLO」をリリースした。
本作にはMBS / TBS系アニメ「呪術廻戦」のエンディングテーマでAKLOをフィーチャーした表題曲や、J-REXXX、K.A.N.T.A.、なみちえ、GOMESSといったそれぞれ異なるジャンルで活躍するアーティストを客演に迎えた楽曲を収録。“多国籍”なサウンドとヒップホップを見事にクロスオーバーさせた重厚なサウンドが詰まった1枚に仕上がっている。
音楽ナタリー初登場となる今回は、バンドのフロントマンを務めるLEO(Vo)にインタビューを実施。渋谷で生まれ育ったという自身の幼少期の記憶や音楽的なルーツ、メジャーデビュー作の制作秘話、そして今の東京という街への思いなどをたっぷりと語ってもらった。
取材 / 三宅正一 文 / 三宅正一、笹谷淳介 撮影 / 濱田普
R&Bが大っ嫌いだった
──先ほどナタリーの担当編集者から聞いたんですけど、LEOさんはこの渋谷区神宮前にあるナタリー編集部の近所の中学校に通っていたとか。
そうなんです。本当にすぐ目の前の中学校に通ってたんですよ。だからこのあたりはずっと遊んできた場所というか。さっきも小さい頃に友達と鬼ごっことかドロケイをしていた場所でこの取材用の写真を撮ってもらいました。
──いつ頃からこのあたりに住んでいたんですか?
僕は生まれたときから渋谷っ子で、小学校も「渋谷小学校」という名前に“渋谷”が入っているところに通ってました。でも当時は全校生徒が50人くらいしかいなくて、すごく過疎ってたんです。1つ下の学年なんて生徒は1人。でも先生がすごく変わっていて、めちゃくちゃオールドスクールな人だったんで、コマとか竹馬とかを教えてくれたんですよね。だから当時の俺にとってはそれが普通だった。このあたりも20年前はこんなハイエンドな感じではなくて、もっとゲットーな、小さな街だったんです。
──過去のインタビューを拝見すると、LEOさんの幼少期は家にいろんな人が集まってきて半ばレイヴ状態になっていたそうですが、実際はどんな様子だったんですか?
いやあ、すごかったですよ。僕が2歳くらいのときに両親が離婚してお父さんが出て行ったんですけど、お母ちゃんは当時23、4歳で僕の面倒を見なきゃいけなくなって。でもお母ちゃんは日本語が話せないから、お父さんが派遣したベビーシッターが僕の世話をしてくれてたんですけど、その人の友達が家にいっぱい来て。でも夜になるとみんなクラブに行っちゃうから、夜は家に誰もいないんですよ。
──お母さんもヒップな人だった?
めっちゃヒップ(笑)。俺、子供の頃に指をドアに挟んで指が逆側に曲がったことがあるんですけど、そのときもお母ちゃん、救急車の呼び方がわからないの!(笑) 幸いシッターが「こういう場合は冷やしましょう」って機転を利かしてくれたから、なんとか元通りになったんですけど、その状況はヤバいですよね(笑)。
──それはすごい。家にいろんな人が来て音楽を流していたそうですが、そういうのはシッターさんが始めたことなんですか?
そうですね。シッターを中心に外国人たちが集まってきてました。で、音楽を流すうちにダンスバトルとかが始まるわけですよ。今考えるとすごく近所迷惑ですよね(笑)。そういうときに流れてた音楽は主にR&Bだったんですけど、当時は嫌いだったんですよね……。90年代のR&Bってトーンが甘いじゃないですか? だから思春期の頃は大っ嫌いだったし、ノイズに感じていた。その反動で、中学校ではパンクにハマりましたね。
──LEOさんは以前ボブ・マーリーやニーナ・シモン、ジム・モリソンを自分のヒーローとして挙げていましたが、それはどういった経緯で?
ボブ・マーリーに関しては、家にCDがあって。中学生のときにライブ盤の「No Woman, No Cry」を聴いて、ヤバいと思ったわけですよ。あと、ほかにもSly & The Family Stoneも好きなんですけど、Slyはもともとはお母ちゃんが好きだったんです。自分の中ではジミ・ヘンドリックスやNirvanaがヒーローになったのが先だけど、大人になってからすごくいいなと思うアーティストは、小さい頃に経験したレイヴのカルチャーに影響されているのかもしれないです。
──でも、よくその環境で道を外れたりしませんでしたね。
それはお母ちゃんがヒステリーで、俺が終わっちゃうとすべてがダメになるから。お母ちゃんがお父さんと毎月会ってケンカして「国に帰れ!」って言われたりしているのを見てたら、かわいそうだしなんとかしてあげなきゃなと思うじゃないですか。それでミュージシャンになれば金がもらえるだろうと思って、ある時期からがんばったりするんですけど、でも最初にメジャーデビューしたときの給料は1万5000円でした(笑)。
──最初のメジャーデビュー? それはいつ頃なんですか?
21、22歳ですね。The John's Guerrillaというバンドをやっていて。
──そこでもフロントマンを?
そうですね。当時THE BAWDIESやThe Mirraz、the telephonesとかが近くにいました。ロックンロールリバイバル世代でしたね。
──そうだったんですね。話を戻しますが、アウトローな方向に行かなかったのはお母さんを守ってあげたいという思いが強かったから?
うーん、そういうのもあったんでしょうね。今考えると、お母ちゃんを人質にされているから悪いほうには行けないみたいな感覚もあると思うけど(笑)。でもまあ、俺の心根が優しいんでしょうね。
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頼るのは昔のロックスターだけ