日本映画への果敢なチャレンジ!「宮松と山下」を辛酸なめ子、映画ジャーナリスト金原由佳が紐解く

香川照之の主演映画「宮松と山下」が、11月18日に全国公開される。

本作は、平凡なエキストラ俳優・宮松が主人公の物語。過去の記憶がない宮松が、自分が何者か思い出せない中で毎日数ページだけ渡される「主人公ではない人生」を演じ続けるさまが描かれる。CMや教育番組「ピタゴラスイッチ」で知られる東京藝術大学名誉教授・佐藤雅彦、NHKでドラマ演出を行ってきた関友太郎、多岐にわたってメディアデザインを手がける平瀬謙太朗からなる監督集団「5月」が監督、脚本、編集を担当した。

映画ナタリーでは、本作をひと足早く鑑賞した辛酸なめ子のイラストコラムを掲載。そして映画ジャーナリスト・金原由佳のレビューで本作の魅力を紹介する。

イラスト / 辛酸なめ子文 / 金原由佳

辛酸なめ子がイラストエッセイを描き下ろし!

辛酸なめ子の「宮松と山下」描き下ろしイラスト。
辛酸なめ子の「宮松と山下」描き下ろしイラスト。

辛酸なめ子の「宮松と山下」描き下ろしイラスト。

プロフィール

辛酸なめ子(シンサンナメコ)

1974年8月29日、東京都生まれ。マンガ家・コラムニストとして雑誌、新聞、Webメディア、テレビなどで幅広く活躍し、独自の視点で幅広い層の支持を得ている。主な著書には「おしゃ修行」「辛酸なめ子の独断! 流行大全」「スピリチュアル系のトリセツ」「女子校礼讃」「無心セラピー」「新・人間関係のルール」、小説「ヌルラン」「電車のおじさん」などがある。

映画ジャーナリスト・金原由佳 レビュー

映画のために意図的に作り出された死の瞬間

普通の映画なら、スクリーンの端っこの方にしか映らない。あるいは主人公の後ろの背景としてぼやけて、映ったとしてもおそらく数秒。なぜなら、エキストラは主役にとっては日常で通りすぎるしかない存在であり、主人公の目に留まり、記憶に残されるくらいなら、エキストラではなく、きちんと番手でクレジットされるからだ。

「宮松と山下」

「宮松と山下」

従来の映画では決してスクリーンの真ん中で長時間、大写しにされることのないエキストラの一世一代の死に方のバリエーションをひたすら積み上げていく映画。それが3人の映画監督ユニット「5月」による「宮松と山下」である。香川照之演じる宮松は撮影所の大部屋俳優で、時代劇や、現代劇で、日々いとも簡単に殺されていく。この映画を見ると、映画というフィクショナルな空間の中で、いかにエキストラが一瞬の出番のために工夫を凝らして壮大に命を散らしていくのか、その詳細をまじまじと観察することができる。映画のために意図的に作り出された死の瞬間をただただ羅列していくことで、「ああ、こっちは生きていてよかった」とか、「この時、先祖が生き延びたから今の自分がいるのね」と歴史の荒波をどうにかサバイブした先祖の存在を思い出し、胸をなでおろす観客はさぞ多いだろう。演出された死の光景を眺めることで、いつかやってくる自分の死の風景を想像し、そのあっけなさに人間の生きることの本質を見出す人もいるかもしれない。

「宮松と山下」

「宮松と山下」

「宮松と山下」

「宮松と山下」

5月は、東京藝術大学大学院映像研究科、佐藤雅彦研究室を母体とし、NHK、Eテレの名物番組「ピタゴラスイッチ」など数々の映像作品で知られる佐藤雅彦と、彼の教え子で、現在は映像作家、映像プランナー、脚本家など多彩な活動をしている1980年代生まれの関友太郎と、平瀬謙太朗の3人が設立した映像集団である。一日に何度も、殺され役をするエキストラのアイディアは、関が参加していたNHKの時代劇で実際に見た光景がもとになっている。ユニークなのは、宮松は過去の記憶を失っていて、自分が誰なのか、今イチ、実感が持てない人として設定されていることだ。かりそめの誰かの人生を演じることで、空白のプロフィールを埋めていくような男。自分の演じた役柄のセリフと設定が書かれた台本の数ページ分の紙切れは捨てられることなく几帳面にファイリングされ、時折、宮松はその束を眺める。一度だけ、セリフが与えられた役についたことがあるというエピソードは、東映の大部屋俳優で、「日本一の斬られ役」として知られた福本清三が、テレビドラマ「丹下左膳 剣風!百万両の壺」(1982年 / フジテレビ)で夏目雅子の許婚役に抜擢されたときの華やかな逸話が重なり、時代劇ファンのツボを押す描写もある。

「宮松と山下」

「宮松と山下」

だが、この作品は、映画が虚構の世界だということを、次々と暴いて、映画の枠組みをも鮮やかに解体していく。どんなにリアルなセットも、ベニヤ板のパネルで仕切られた空間であり、その裏側のあっけなさも披露する。それでも私たちは虚構と知りながら、なぜ映画の世界にアクセスすることで救われるのか。虚構と現実の境界線を毎シーンごとに解体していき、メタフィクションをさらにメタフィクション化し、人を映すという行為の裏にあるものを5月は挑発的に見せていくのだ。

香川照之の存在

さて、「宮松と山下」の、群衆に紛れ込んでしまうエキストラの目立たなさを体現するのが香川照之だ。香川は、女性店員への不適切な行動が報道され、テレビドラマを降板するなどしている。今作での彼はほぼ出ずっぱりであるので、今現在、観ないという選択をする観客もいるだろう。

「宮松と山下」

「宮松と山下」

「宮松と山下」

「宮松と山下」

ただ、5月の日本映画の定石を解体するという果敢なチャレンジが実現したことは、香川照之という俳優が引き受けたからという事実は消すことができない。テレビドラマ向けのデフォルメされた顔芸は今作では封印され、スクリーンだからこそ認識できる微細な変化をその表情に投影する。例えば、尾美としのり演じるかつての同僚が訪ねてきて、彼の過去や、彼に妹がいることを告げた時に、その頬に突如、現れる微かな痙攣など、何がスイッチとなってこれが表出したのか、不思議でならない。ミドルエイジの男性のアイデンティティの揺らぎという題材においては、同じ時期に公開される石川慶監督の「ある男」と見比べても面白い。

監督が編集した予告編が公開中!