忙しさのまっただ中にいた若い頃を振り返り、田中律子は「本当に目まぐるしい毎日でした」と語る。10代で芸能界デビューし、仕事と学業を両立しながら駆け抜けた日々。その先で彼女が選んだのは、自分の人生と向き合うという決断だった。
現在は東京を拠点にしながら、自然豊かな沖縄や山の家で過ごす時間を大切にしている田中。畑でバナナを育て、海でサーフィンを楽しみ、太陽の動きとともに1日を終える。そんな暮らしの延長線上に生まれたのが、食品メーカー・三共食品が手がけるアパレルブランド「GOODFOOD」とのコラボレーションだ。
バナナを育てる日々と、廃棄されるはずだったバナナの茎を素材にした「GOODFOOD」の服作りという接点から実現した今回の取り組み。「Sunshine days」と自ら名付けたアイテムに込めた思いとは。人生の節目や手放してきたもの、心地よく暮らす中で大切にしている感覚について、軽やかに語ってくれた。取材の模様を収めたメイキングムービーもお見逃しなく。
取材・文 / 柴﨑里絵子撮影 / 須田卓馬
スタイリング / 藥澤真澄ヘアメイク / 八巻明子
「101回目のプロポーズ」は転機になった作品
──1991年の名作ドラマ「101回目のプロポーズ」の34年後を描く続編、「102回目のプロポーズ」への出演が話題になっています。前作のヒロイン・矢吹薫の妹である矢吹千恵を再び演じるということで、反響はいかがでしたか? 出演を決めた経緯から教えてください。
オファーをいただいて、武田鉄矢さんが出演されることも聞いていましたし、またご一緒できることがうれしいと思ったのが率直な気持ちで、久々のドラマに参加する緊張感もありましたが、マネージャーと相談して出演を決めました! 34年も経って同じ役を演じられるのは最初で最後だと思ったんです。
──「101回目のプロポーズ」の頃は、まだ20歳前後だったんですよね。当時は大ヒットの予感はありましたか?
ドラマの撮影中に20歳を迎えました。撮影と放送が同時進行だったので、放送を観ながら現場に入るような感覚でしたし、視聴率が20%を超えていると聞いて、「たくさんの方に観ていただいているんだな」という実感はありました。現場も常に熱気があって、スタッフもキャストも、みんなで作り上げている作品でしたね。
──特に印象に残っている出来事はありますか?
高校を卒業してすぐ、19歳のときの作品で、撮影期間中に20歳を迎えたということもあり、自分の中で大人へと切り替わる大きな節目でした。仕事の面でも、気持ちの面でも、いろいろな意味で転機になった作品で、とても思い出深いです。
──その頃のお仕事や暮らしについて伺いたいのですが、どんな生活リズムで、どんな毎日を送っていましたか? ホッとできる瞬間はありましたか?
当時は本当に目まぐるしい毎日でした。学校に通いながらアイドル活動をして、振り付けを覚えて、テストを受けて、生放送にも出演して……とにかくいろんなことが同時進行の毎日でした。スケジュールは常にいっぱいで、ゆっくり休む時間はほとんどなかった気がします。1つひとつが特別に大変だったというより、その生活自体が強く印象に残っています。忙しさの中で必死に食らいついて、「これが芸能界なんだな」と体感していた時期でした。今思えば、あの生活そのものが“THE 芸能界”だったなと思います。
──当時の自分に、今の暮らしや価値観を話したら、どんな反応をすると思いますか?
きっと驚くと思います。「そんな生き方をしているの?」って思うんじゃないかな(笑)。でも同時に、あの頃に一生懸命がんばっていたからこそ今の自分があるのも事実なので、「将来はめちゃくちゃ楽しいよ」「自分らしく生きているよ」という言葉を掛けてあげたいです。
気付いたらストレスを手放せていました
──そんな毎日の中、「このままではいけない」と感じた瞬間はあったのでしょうか?
結婚や出産といったライフイベントが重なったことは、大きなきっかけになりました。仕事はありがたいほど順調でしたが、その一方で「この先、自分はどういう人生を歩みたいんだろう」と、初めて立ち止まって考えた時期でもありました。25、26歳頃が人生について一番深く向き合ったタイミングだったと思います。
──人気絶頂の中で、一度立ち止まることへの不安や葛藤はありましたか?
それは特にありませんでしたね。結婚をする際に当時の事務所社長には「辞めます」と伝えていたんです。でも、レギュラー番組のプロデューサーさんから「戻ってこいよ」と声を掛けていただいて。その言葉がすごく心に残って、もう一度やってみようかな、と前向きに思えたんです。
──結婚を機に芸能界を離れることは、以前から考えていたんですか?
実は高校生の頃から、漠然とですが「結婚したら辞めるんだろうな」という気持ちはありました。明確な計画があったわけではないけれど、どこかでそういう人生の流れを自然に思い描いていたんだと思います。
──やり切った、燃焼しきった感覚があった?
そうですね。自分なりに全力で走り切った感覚はありました。
──そこから現在に至るまで、「手放して楽になったこと」はありますか?
何か具体的なものを手放したというより、気付いたらストレスを手放せていた感じかな。無理をしすぎないことや、自分を追い込みすぎないことを覚えて、結果的に楽になった気がします。その分、手に入れたもののほうが圧倒的に多いですね。
──その中で、一番うれしかったものは?
やっぱり沖縄の家です。
──現在は都会・海・山の3拠点で生活されているそうですが、生活サイクルを教えてください。
仕事の拠点は基本的に東京なので、普段は東京で仕事をしています。その合間を縫って、毎月10日くらいは沖縄に行けたらいいな、というペースです。東京で数日お休みが取れたときに、山の家へ行きます。それぞれの場所で役割がはっきりしていて、東京は仕事、沖縄と山の家は自分のための時間を過ごす場所、という感覚です。
3拠点生活の今は、自然の流れに合わせて1日が過ぎていく
──沖縄の1日はどんな感じなんですか?
その日の自然のコンディション次第ですね。海に波があればサーフィンに行きますし、夏場は借りている畑に行ってバナナのお世話をしたり、庭の手入れをします。お昼は沖縄そばを食べに出かけたり、午後になると友人が遊びに来ることも多いので、夕方15時頃から準備をしてバーベキューをすることもあります。特別なことをしているわけではないですが、自然の流れに合わせて1日が過ぎていく感じです。バナナはもう10年以上育てていて、そのほかにもドラゴンフルーツやパッションフルーツ、グアバ、レモンなど、いろいろな果樹を育てています。
──畑を始めたきっかけは?
畑のすぐ近くに住んでいるおじいから、育てたおいしいドラゴンフルーツをいただいたことがきっかけです。いつか南国フルーツを育てたいと思っていたので、苗を分けてもらい、育て方を1から教わりました。畑では、おじいに「もうすこし肥料を入れたほうがいい」などとアドバイスをもらいながら手を掛けて育てています。
──ご近所の方とも、とてもよい関係を築いていらっしゃるんですね。
もともと、私が沖縄に家を購入したときに、5年ほど父に住んでもらっていたんです。その間に父が近所の方々と交流を深めて、コミュニティを作ってくれていました。沖縄の方々は私がサンゴの保全活動をしていることを知ってくださっていて、「いつも沖縄のためにありがとうね」と声を掛けてくれます。人と人との距離が近くて、温かい関係性の中で暮らせるありがたみを感じています。
──2006年にNPO法人アクアプラネットを立ち上げてから、サンゴの保全活動を続けていらっしゃいますよね。ずっと継続されているのは、本当にすごいことだと思います。
14歳のときに初めてダイビングをして、海が大好きになったんです。10代の頃、しんどいときにダイビングへ行ったり、サーフィンをして、海からたくさんのパワーをもらっていました。だから今は、恩返しのような気持ちでサンゴの保全活動をしています。私にとっては使命というか、海への恩返しですね。
──サーフィンを始めたのはいつ頃ですか?
高校生の頃、雑誌・Fineのモデルをしていたときです。その頃にサーフィンやウインドサーフィンを始めて、ダイビングは14歳から。気付けばずっと海のそばにいて、海で遊ぶことが自分の生活の一部になっていました。出産後は少し間が空きましたが、ここ10数年でまた自然と海に戻ってきた感じです。無理に再開したというより、「やっぱり好きだな」と思って、体が勝手に動いたような感覚でした。サーフィンは波に巻かれると、上下もわからなくなるし、穴という穴に水が入って本当に大変なんですけど、うまく波に乗れた瞬間の快感は言葉にならない。その一瞬のために、何度も失敗して、またトライしてしまう。自然相手だからこそ、思い通りにならないことも含めて魅力なんだと思います。
──田中さんはずっと変わらずいつも自然体でいらっしゃいますが、年齢を重ねても変わらない“自分らしさ”はどこにあると思いますか?
自分では特別なことをしている感覚はなくて、ただ好きなことを続けているだけなんですけどね(笑)。でも、そう言っていただけるのはうれしいです。振り返ってみると、好きなものや大切にしている感覚は、昔からあまり変わっていない気がします。忙しくても、自分が楽しいと思えることや、前向きな気持ちは、自然と持ち続けていたのかもしれません。デニムやシルバーアクセサリー好きは高校生の頃から今もずっと変わっていませんし、ファッションも生活スタイルも、無理をしないスタイルが自分には合っているなと感じています。性格も、根っこの部分はあまり変わっていない気がします。


