「外見至上主義」は外見のせいでいじめを受けていた高校生・長谷川蛍介が、顔も肉体もパーフェクトな“もう1つの体”を手に入れたことから奇妙な二重生活を送る学園ストーリー。LINEマンガで連載され、8月にはスマホゲーム化を果たした。また12月からはNetflixでアニメも全世界独占配信されている。
「外見至上主義」はどうして多くの人を惹きつけ、アニメ化されるまでの人気作品となったのか。この理由を探るべく、コミックナタリーでは4人のマンガ好きライターに協力を依頼。同作を読み、それぞれがグッときたポイントを紹介してもらった。
「外見至上主義」
学校でひどいイジメに遭っていた主人公・長谷川蛍介。彼は人生をリセットするため、母を1人残し有名芸術高校に転校することを決意する。ひとり暮らしを始めたある日、蛍介が目覚めると鏡の前には自分と正反対な“超絶イケメン”が立っていた。もう1人の自分を手に入れた蛍介は、昼はイケメンの体で学校に通い、夜は元の体でバイトをする奇妙な二重生活を始め……。
なお登場人物の名前は原作だと日本語名、Netflixのアニメだと韓国語名に。長谷川蛍介はパク・ヒョンソク、北原流星はイ・ジンソン、四宮紅輝はホン・ジェヨル、馬場晃司(バスコ)はイ・ウンテ(バスコ)、今敏斗はピョン・ドクファとしてアニメに登場する。
マンガ好きライター4人の感想は……?
「正義の象徴」たる蛍介のお母さんから目が離せない!
文 / 粟生こずえ
「人を見た目で判断しない」は、常識的な正論としてかなり古くから謳われてきたフレーズである。だが、ジェンダーやハラスメントについての関心の高まりとも相まって、現代ではこの言葉はかなり複雑な意味を持つものに変容してきている。ミスコンを非難する声が高まり、「内面重視のミスコン」なるものが立ち上がってはまた議論を呼ぶ。とはいえ「美」を商品にすることを、だれが否定できるだろうか?
一方で「美人ですね」は賞賛だけでなく、場合によってはセクハラ、あるいは「容姿以外の能力を軽んじた、人を傷つける言い方」と判断されることもある。「これを言ったら『アウト』」を列挙していくだけではキリがない。もしかしたら「一目惚れのラブストーリー」だって「外見重視を助長する」と非難されるようになるかも? そんな世界にならないためには、人をフラットに見る視線が大切なのだ。
考えてみれば、低身長で小太りの人間が「ダメなヤツ」と判断されるのと同じように、高身長で美形の人間もまたある種極端な決めつけをされている──本作にはそんなことを気付かされもする。
1日の半分だけイケメンでいられる「二重生活」の設定により、蛍介が自分に向けられる視線の違いを常に比較せざるを得ないという仕組みは秀逸だ。
また、蛍介の「変身」が起こる前──第1話の最後に、蛍介が「自分もお母さんを虐げる側にいた」と気付くシーンが描かれている意味にも注目したい。
これもまた、他人や自分を客観的にながめる視線を問うものであろう。
しかし、本作において蛍介のお母さんの存在感には折に触れハッとさせられる。シングルマザーで、家計は苦しい。爪に火を点すような生活を送りつつ、愛しい息子には苦労をさせまいと身を粉にして働く母の姿は全体から浮いているほどデフォルメが激しいが、それだけにパンチがある。お母さんがここまで記号的に描かれているのは、普遍的な正義の象徴のようにも思えるのだ。実は、このストーリーの中で一番誰にも媚びへつらわず、また自分を偽ることなく正直に生きているのは蛍介のお母さんなのかもしれない。
お母さんが、一人暮らしを始めた蛍介を訪ねるくだりは、なんとも古風でベタな展開なのに思わずグッときてしまった。イケメン姿の蛍介を自分の息子の友達だと信じ、蛍介の話ばかりするお母さんを前に、蛍介はいつも一番の味方であった母に虚勢を張ることしかできなかった自分を悔やみ「本当の僕が変わらないと‼︎」と心に誓うのである。
また、私が好きなキャラクターは「上位」の者たちにバカにされるのも意に介さず、音楽に情熱を注ぐ敏斗だ。彼が、学園祭ライブのパートナーに蛍介を誘う場面も名シーンだ。蛍介は反射的に「僕たちなんかが?」と思ってしまうのだが、すぐに彼と自分を「僕たち」とまとめてしまったことを反省する。敏斗の方が、自分よりはるかに強い人間なのだと理解し、「僕たち」ではなく「僕だけが情けなかったんだ」と自覚するのである。
しかし、ここまで敏斗の心を尊いものとして描出しながらも、彼がいい目を見ることにならないあたりのリアルさも胸を刺す。随所に現れる「人を見た目で判断しない」という正論だけでは突破できない現実、残酷な本音に読み応えを感じる。
本作は必ずしも強者を批判的に描いたり、弱者を美しく描くものではない。底辺同士で仲良くやっている場で、すかさず人を見下す側に立とうとするキャラクターもいる。恵まれた容姿だったり、ケンカが強かったり、家が裕福だったり──そうした優越感の上にあぐらをかく人、そうでない人。多彩なキャラクターが登場する長い物語を読むなかで「誰に思い入れて読んでいるか」は、「自分は日々何に引っかかっているか」「どんな人間でありたいか」をあぶりだす試金石になるのかもしれない。
プロフィール
粟生こずえ(アオウコズエ)
編集者・ライター・作家・作曲家。「このマンガがすごい!」(宝島社)をはじめマンガ関連のレビュー、インタビュー多数。著書にショートミステリ「3分間サバイバル」シリーズ(あかね書房)、「必ず書ける あなうめ読書感想文」(学研プラス)、など。私物放出の「おもしろ古本市!」、読書普及トークイベント「四度の飯と本が好き」を不定期で開催している。
「こんな話なんだろう」を上回り続ける
文 / 青柳美帆子
外見で判断される世の中で、ある日突然イケメンの体を手に入れたらどうなるのか──「外見至上主義」の物語は、シンプルな“奇跡”からスタートする。
いじめられっ子で「ブタ」と呼ばれるような蛍介が新しく得たのは、顔もスタイルも抜群の自分。同級生からの反応も、バイトの面接も、大きな成功へのチャンスも、何もかもが違う。イケメンの蛍介に与えられる道の方が、広く明るく歩きやすいように見える。
〈僕たちの運命は食物連鎖の底辺だと生まれた瞬間から決められていたってこと〉
〈僕が解放されたのは運命から外れた体を手に入れたからだ〉
なるほど、イケメンになって周りを見返す話なんだな……? もしあなたがそんな予想をしたら、それはきっといい意味で裏切られる。
本作は最初の数話で、がつんと「外見こそすべてなんだ」と描いて見せる。いじめ、暴力、貧乏。蛍介が置かれた状況よりはひどくなくても、「ただしイケメンに限る」「人は見た目が9割」なんて言葉を聞いたことがいくらでもあるように、私たちは誰もがルッキズムの存在に気付いている。
本作はもともと韓国で作られたwebtoonで、日本ではローカライズ(人名や地名を日本風に変更して翻訳)して展開している。ローカライズにほとんど違和感がないのは、外見に関する価値観が似通っているからだろう。
外見が劣っているよりも、優れている方がいい……なんてのは、マンガで読まなくてもみんな知っている。そんな世界にがっかりもしている。「外見至上主義」の物語が面白いのは、“その先”を描いているところにある。
蛍介がもうひとつのイケメンの体を得たのは、いじめられて転校を決めたタイミング。昼は「イケメンの体」で高校生、夜は「元の体」でコンビニバイトという二重生活を送り始める。
新天地で築かれる人間関係は、奇妙なことに昼と夜でクロスしていく。蛍介の周りの人々は、2人の蛍介が同一人物だと知るよしもなく、意外な形で交流を深める。
前半のキーとなるレギュラーキャラクターは、流星、バスコ、四宮だ。どのキャラクターもデコボコがあってそこがいい。
流星は挫折したボクサーで喧嘩っぱやく暴力的。弱い人間にも強い人間にも暴力を振るう、どこからどう見ても“敵キャラ”だ。そんな流星は転校初日の蛍介にケンカを売り、みんなの前で敗北。この経験が流星を大きく変えていく。
バスコは弱い者に優しく、イケメンに厳しい。他の人物とは違い、夜の蛍介とはすぐに打ち解けるが、昼の蛍介への対応が変わらずなかなか友達になれない。彼がなぜこういう人物になったかは、51話から始まるエピソードを読み進めていくとわかり、バスコのことがぐっと好きになってしまう。
四宮はずっと謎めいている人物。四宮の魅力は太田祥暉さんなど他のライターさんが語ってくれているのでここでは多くを書かないが、彼はもっとも蛍介に大きな関心を寄せ、デカめの感情を向けている。四宮が出てくるたびにうれしい気持ちになる読者は多いはず。
蛍介が昼と夜それぞれの姿で友人の異なる一面に出会うたびに、読者は彼らのことがどんどん好きになる。と同時に、物語の冒頭で描かれた「外見こそすべてなんだ」は打ち崩されていく。
外見で判断されることに苦しんでいた蛍介自身、相手のことも自分のことも外見で判断していたことに気づき、蛍介の内面はどんどん揺れる。昼の蛍介が後悔を招く行動をすることもあれば、夜の蛍介が誰かに大きな影響を与えることだってある。
22話から始まる「文化祭編」と呼びたくなるエピソードは、序盤のクライマックスだ。クラスの“食物連鎖の底辺”の1人である敏斗が蛍介を誘い、2人のある挑戦が始まる。22話で蛍介が応える「僕にできるかな?」のシーンは、思わずはっと息をのむような名場面。そこから先はスクロールする指が止まらなくなる。
もちろん外見がよければ生きやすいことは多いし、外見によって不利な扱いを受けることはある。外見に対する評価によって持てる自信だって大きい。
だけど、決してそれだけじゃないよね?
そんなメッセージにつながるからこそ、「外見至上主義」はこれだけ多くの読者に響く。
プロフィール
青柳美帆子(アオヤギミホコ)
1990年生まれのライター。女性向けカルチャーを中心に、書籍、雑誌、Webなどで執筆活動を行う。アニメ・マンガ・映画・ミステリ関連のインタビューや、トークイベントの構成も担当する。
四宮紅輝の蛍介に対する想いと、その矢印の行方
文 / 太田祥暉(TARKUS)
太っていて、イケメンではないが故にいじめられてしまった少年・長谷川蛍介。彼はその経験から徐々に卑屈な性格になっていってしまう。しかし、彼はひょんなことから、眠ると人格を入れ替えられるイケメンの身体を得た。その身体は、なぜか運動神経がよく、強大な力が発揮できる。蛍介はイケメンの身体と元の身体を交互に使い、新たな環境での生活をはじめるが──というのが、LINEマンガで配信されているwebtoon「外見至上主義」のイントロダクションである。
本作は蛍介の成長譚であり、登場人物と育む友情物語であり、新たな環境での青春物語であり、さらにはケンカアクションありと、語るべき切り口が多数存在する。韓国文化を下敷きにしているため、ローカライズはされているもののその空気を感じ取る、という楽しみ方もあるだろう。
そんな中でも、私が特に意識して読んでいる点がキャラクターの個性の強さである。主人公の蛍介は言わずもがな、バスコこと馬場晃司やボクシングの達人であり蛍介の最初の壁になる北原流星など、本作には「このキャラクターはなぜこうなったのだろう?」と興味を抱かせるパーソナリティの持ち主ばかりが登場する。各キャラクターのバックボーンが描かれた瞬間には、「ついに来た!」とガッツポーズをしながら読み進めていくまでがテンプレート、ともいえるだろう。そんな個性豊かなキャラクターの中でも、特に意識して読んでしまうのが四宮紅輝である。
四宮紅輝といえば、蛍介と同じファッションデザイン学科に通う高校生だ。目元を金髪のマッシュヘアーで隠しているため素顔をうかがうことができないし、綾波レイ(「エヴァンゲリオン」シリーズ)や長門有希(「涼宮ハルヒ」シリーズ)のように無口で、彼がどういった気持ちなのかは基本的に他者が「○○だって?」と意を汲む形で明かされる。そんな彼の魅力はなんといっても、蛍介への思いの強さと持ち前の優しさだろう。
蛍介はそもそも、自身がいじめられていた経験や貧乏な境遇故に、イケメンの身体を得てもなお他者のことを気に掛けている。外見や権力に左右されることなく、分け隔てなく接しようと心掛けているのだ。その考えに感化されて、蛍介と戦った北原たちは他者への思いやりの心を持っていく。
一方で、四宮は財閥の御曹司である。高級マンションに住んでいて、お金持ちの少年だ。だが、その情報は蛍介たちには開示されていない。四宮が自らひけらかすことを必要と感じておらず、あくまで対等な友人関係を築きたいと感じているのである。さらには安価な服を着ていてナメられそうになった蛍介に高価な服を渡したり(四宮は高価な服と明かさないが)、犬が苦手でありながら人助けと4匹の子犬の里親になったりと、心優しい面を見せている。
そんな心優しい面が強大化したターニングポイントが、蛍介に助けられたとある事件だろう。そこからというもの、決して表に出ることはないが、蛍介に危害を加えようとする者に制裁を加えたり、蛍介たちに勉強を教えたりと彼のことを陰からバックアップしていく。その思いの強さといったら、もう! 里親になってからのエピソードも胸がキュンキュンするほどかわいらしくてたまらない。
そんな彼にも、もちろん胸の内に抱えた闇が存在する。お金持ちであるのにも関わらず、彼が親元を離れて暮らしている理由、そして彼が蛍介のことを想うように、他人を思いやれるようになったのはなぜなのか? その理由がいつ明かされるのかと考えると、とにかく次のエピソードへ進まざるを得ない。それが「外見至上主義」の魅力の1つなのだ。
貧乏な家に生まれてしまった蛍介と、お金持ちである四宮。互いの境遇は異なるものの、その枠を超えた信頼関係を彼らは結んでいく……。その仲睦まじい関係が楽しい本作。ぜひ熱いストーリー展開とともに、これらの描写も楽しんでいただきたい。
プロフィール
太田祥暉(オオタサキ)
1996年、静岡県生まれの編集者・ライター。アニメやライトノベル、VTuberなどを得意ジャンルとする。「世話やきキツネの仙狐さん オフィシャルファンブック もっともふもふするのじゃよ!」(KADOKAWA)の構成・取材・執筆や、「石浜真史アニメーションワークス」(インプレス)の企画・構成・取材・執筆などを担当。共著で「ライトノベルの新潮流(スタンダーズ)も手がけている。
気持ちよさと表裏一体で描かれる世界の残酷さ
文 / 小林聖
ヤンキーマンガや異世界転生の系譜に連なる気持ちよさ
成り上がり、下剋上の物語というのはいつの時代も気持ちいい。マンガの世界でも成り上がりモノはたくさんある。
ヤンキーマンガはその典型ジャンルだろう。学校では落ちこぼれと呼ばれる者たちや、いじめられっ子がヤンキーとなってその世界で絆を手に入れ、認められる。古典的ヤンキーマンガは学校社会でヒエラルキー下位にいたキャラクターたちの逆転劇といえる。
近年なら異世界転生ものもその構図を持っている。王道は現世では冴えない主人公が、死んで異世界へと転生して活躍する。これも逆転劇だ。
「外見至上主義」は、こうした系譜の上にある作品だ。貧乏で、力も弱く、容姿にも優れず、学校では不良の奴隷のように過ごす主人公・蛍介が、転校とともになぜかイケメンの身体を手に入れる。しかも、外見だけでなく喧嘩もめっぽう強くなり、一躍学校のトップヒエラルキーに入ることになるのだ。異世界転生ならぬ、同世界転生と言っていい。爽快感がないわけがないし、「なぜ別の身体を手に入れたのか」「2つの身体を持つ秘密をどう守っていくのか」といったサスペンス要素も相まってスルスルと読み進められてしまう。
世界が変わらない残酷さ
だが、「外見至上主義」の面白さは単純に爽快な成り上がりドラマではないところにある。重要なのは、世界のルールが依然変わらないままであるという点だ。
ヤンキーマンガも異世界転生も、元々の社会・コミュニティの外側に脱出する構造を持っている。例えばヤンキーマンガなら、落ちこぼれ・いじめられっ子といったレッテルを貼ってくる学校社会(あるいは大人社会)から、ヤンキー社会という別のルール・価値観のコミュニティへと移ることで、新しい尊厳を手に入れる。異世界転生も、転生による能力付与といった要素はあるにせよ、別世界に行くことで元の世界では役に立たなかった能力や才能が開花するという側面がある。
だが、「外見至上主義」の場合、貧困や非力、タイトルにもなっているルッキズムによる抑圧という社会構造は変わらない。蛍介が新しい身体で新しい人生を歩み始めても、社会そのものの理不尽は変わることなく残っているのだ。
これは極めて皮肉な構造だ。新しい肉体を手に入れた蛍介が活躍し、成り上がっていくことは、イケメンであること、力が強いこと、お金があることでこれだけ人生が変わってしまうのだ、という無慈悲な現実の強固さをまざまざと見せつけてくる。完全無欠のような肉体に生まれ変わるというこの上なく気持ちいい夢を見せてくれる一方で、それが華やかであればあるほど、現実が変わらないことを突きつけられるのだ。読み手の我々は、いまだこのクソみたいな世の中を生き続けなければならない、と。この気持ちよさと表裏一体の胸くそ悪い残酷さが、「外見至上主義」の独特の禍々しい読み味をつくり出している。
無慈悲な地獄の底で輝くもの
イケメンの身体で手に入れた友人関係や環境は、元の身体には持ち越せない。世界のルールが変わらない以上、不細工な身体の蛍介の人生もそう簡単には変われない。
だが、それゆえに元の身体の蛍介や、虐げられる同級生たちのエピソードが胸を打つ。
たとえば、登場人物の1人である敏斗。外見から誰にも認められていない彼は、物語の中でラップの才能を示す。めでたしめでたしとなりそうな展開だが、「外見至上主義」では結局芸能界で売れていくには容姿という才能が足りないと切り捨てられてしまう。あまりに無慈悲だ。しかし、敏斗はそれでも折れず、才能を磨き続けていく。
「外見至上主義」は世の中のクソさをそのまま、より残酷に描き出す。都合よく変わってはくれない。だからこそ、物語の中心である華やかなイケメンたちよりも、地獄の底であがくキャラクターたちの姿に惹きつけられるのだ。
プロフィール
小林聖(コバヤシアキラ)
フリーライター。主な執筆分野はマンガ。その1年で読んだマンガから面白かった作品を自身の独断と偏見で選ぶTwitter上の企画「俺マン」こと「俺マンガ大賞」を毎年開催している。