スクールJCA×アンタッチャブル|コンビ揃って思い出話!2人が出会った場所

プロダクション人力舎のお笑い養成学校、スクールJCAが30期生(2021年度入学)を募集している。お笑いナタリーはこのたびJCA3期生(1994年度入学)のアンタッチャブルに話を聞いた。

2019年、約10年ぶりのコンビ復活を遂げたアンタッチャブル。華々しい活躍をする前には、2人とも真面目に通い続けたというJCA時代があった。このインタビューでは2人のスクール生時代の思い出を中心に、山崎が現在のような“ザキヤマ”のキャラクターに変貌を遂げたことや、「THE W」で優勝した吉住など同じ人力舎の後輩芸人について語ってもらった。

取材・文 / 成田邦洋 撮影 / 後藤壮太郎

スクールJCAとは

数多くのお笑い芸人を擁するプロダクション人力舎が1992年に開校した、関東初のお笑い芸人養成学校。人力舎のノウハウをもとに、基礎からライブまでの実践型カリキュラムを用意している。

講師陣はお笑い界を知り尽くすタレントや放送作家などのプロばかり。場数を踏むためのライブも幾度となく経験でき、その実力次第では人力舎に所属してプロの芸人としてデビューすることが可能だ。

現在スクールJCAは30期生(2021年開校)を募集中。オフィシャルサイトで詳細を確認して、芸人生活への第一歩を踏み出そう。

アンタッチャブル インタビュー

山崎が最初に“かました”センセーショナルな自己紹介

──以前、スクールJCA特集のインタビューで柴田さんお一人に話を伺いました(参照:アンタッチャブル柴田のスクールJCA特別授業)。今回は柴田さんの話を引用しながら、お二人に当時のことを改めて聞かせていただければと思います。柴田さんからはJCA入学の経緯について「芋洗坂係長の鶴の一声があった」とお聞きしましたが、山崎さんはどんなきっかけがありましたか?

山崎弘也 ダウンタウンさんを観ていたので、お笑いやろうというときにはNSC(吉本総合芸能学院)という選択肢が最初はあったんですけど、当時(1994年頃)はまだ大阪にしかNSCがなかったんです。僕が読んだ雑誌に載っていたのが、東京にお笑い養成所として唯一あったJCAで、そのとき人力舎に所属していたシティボーイズさんやB21スペシャルさんといった有名な方の写真が載っていて、「ここしかない」って感じです。あくまで“僕調べ”ですけど、1店舗しかやっていなかった。

──では「人力舎の芸人になりたい」という思いは入学前にはあまりなかったのでしょうか?

山崎弘也

山崎 正直言って、なかったです(笑)。次の年(1995年)に東京NSCができて愕然としました。「できるんかい!」って(笑)。変な話、東京NSCが選択肢にあったら、たぶんそっちに行っていました。ただ、そもそもダウンタウンさんが吉本興業という意識も、ウッチャンナンチャンさんがマセキ芸能社という感覚も当時はあまりなかったです。

──ダウンタウンさんに憧れてお笑いを始めようとして、最初にやろうとしていたのは漫才でしょうか? それともコントでしょうか?

山崎 どっちに決めようという強い気持ちも全然なかったです。お笑いをやろうと思った一番の大きい理由は「生きる上でなんの目標もないから」なので(笑)。なんとなく「俳優になりたいな」と思っていた時期もあって、別の事務所に履歴書を送ったこともあったんですけど返信用のハガキを入れていなかったので結果、返信が来ない。じゃあ次はお笑いかなって。申し訳ないけど胸を張って言えるような話じゃないです(笑)。だから結果的に“ツイてる”としか言いようがないです。

──そんな山崎さんと柴田さんの出会いの場がJCAだとお聞きしました。お互いの第一印象は?

山崎 明るくて、池谷幸雄さんみたいだなと(笑)。運動神経もいいし。やんちゃな人。ノリが軽い。

柴田英嗣 その頃は金髪だったので、見た目でそう思われていたかもしれないです。逆に山崎は、自己紹介でみんながそれぞれ面白いことを言っている中、「山崎弘也、最寄り駅は『藤の牛島』です!」みたいなことを言っていて。「そんなところの駅名を言うんかい!」ってツッコミを待っていたのかわからないですけど、みんな埼玉の「藤の牛島」という駅のことを知らないですから、「ああ、そういう真面目な自己紹介をされる方なんですね」という印象でした。

山崎 その自己紹介を“かました”のは覚えています。たぶんボケだったと思うんです。「いや、知らねーよ!」って言われたい。でも、本当に知らないから(笑)。今で言うと、たとえばロケに行ったときに知らないおじさんに「45歳です」って言われたあとに「いや、ツッコんでよ。俺50歳なんだから」って言われるパターン。そんな雰囲気のボケに近かったかもしれないです。

柴田 全員が自己紹介したんですけど、山崎が「藤の牛島」っていう駅名を言ったことしか覚えていないんですよ。山崎と組むというのは、そのときは思っていなかったんですけどね。それだけセンセーショナルな自己紹介でした。

ダラダラ生きていてもなんとかなる人もいる

──その後、お二人はJCA内でコンビを組まれるわけですが、柴田さんの話によると「まわりの人に言われて組んだ」ということでした。もう少し詳しくコンビ結成の経緯を教えていただけますか?

柴田 大原さんという先輩に言われて組んだのは事実です。

山崎 当時、大原さんという方がブイブイ言わせていた。関西弁の魔力みたいなものがあるんですよ。関西弁を使っているとワンランク上、みたいな雰囲気が当時ありました。それで、関西弁を使っている大原さんのもとに、徐々にみんなが集まってきちゃってたんですね。で、「今度ライブがある」という話を聞いて、いろんなコンビやピンで出る人がいる中、僕らがどうしていいかわからなかったところに、大原さんが「柴田と山崎、やったらエエんちゃうの?」と。「やったらエエんちゃうの?」ですよ。もう、すごいですから(笑)。関西弁でガッと来られて、「はい、じゃあ」みたいなことで組みました。今考えたら鶴の一声です。関西弁にホンマに感謝です(笑)。

柴田英嗣

──柴田さんは本当はツッコミではなくボケをやりたかった、という話もお聞きしました。コンビの役割分担はどう決まったのでしょうか?

柴田 まず、JCAの講師を務めていたブッチャーブラザーズさんの台本があったんです。ぶっちゃあさんが「自分たちのネタを配るから、AとBにわかれてやってみなさい」と。それで僕が読み始めた文章がツッコミのほうだった、というだけです。

──山崎さんは、もともとボケのほうをやりたかったのでしょうか?

山崎 はい。ボケるのがお笑い芸人だと思っていました。仕事を始めてからはツッコミの人の役割がよくわかるんですけど、当時はボケの取り合いです。みんなボケたくて入ってきている。だからこそ、僕は台本にAとBがあるのを見たとき、Aはツッコミだったので黙っていたんです。そしたらAを読み始めてくれたので、じゃあそのまま行こうと(笑)。ただ、そのボケが「相方の股の間から顔を出す」とかで「やりたいボケはこれではない」とは思いました(笑)。

柴田 もうちょっとセンスを出していきたかった(笑)。

山崎 ぶっちゃあさんのドタバタ系の激しいボケでした。

柴田 1回漫才を経験してみよう、みたいなことだったんでしょうね。

──ここまでお笑いを始めた理由やコンビ結成の経緯をお伺いしていると、山崎さんは自分から積極的に物事を決めるというよりも、その都度、流れに身を任せることが多いような気がします。

山崎 そうですね。こう言ったらアレですけど、そこまでの意思がない。みんなに夢を与えたいのは、「ダラダラ生きていてもなんとかなる人もいる」ということです(笑)。お笑い芸人にはもちろん憧れてはいましたけど、強い意思があったかといえば、そこまでではない部分もある。僕の生き方ですね。出たとこ勝負。ちゃんと自分で決断できたのは「Aを読まない」というところで、そこだけはボケたいと思っていました。

無我夢中でやっていた最初のネタはボケとボケ

──山崎さんがJCAにほぼ皆勤賞で毎日通っていたというのはよく聞く話です。これほど真面目に通われていた当時のことを改めて教えてくださいますか?

山崎 本当に授業は毎日、真面目に通っていました。その結果、最後のほうは誰もほかの生徒がいなかったくらいです(笑)。午後になったら、みんな来るんですけどね。午前中は当時、校長だった前田さんしか学校にいなくて、タップダンス(※当時あった授業)と発声をやっていました。

柴田 僕もかなり通っていたほうなんですよ。18歳で一番年下でちゃんと通わなきゃなって真面目なところもあったんで。ただ、あるとき授業に行こうとしたんですけど、1人が踊ってる音しか外には聞こえてこない(笑)。そうなると中に入りづらくて。僕は目の前の公園で昼になるまで待ってから行っていました。山崎は埼玉から通って、一番遠かったんじゃないですかね?

山崎 家にいてもとにかくやることがなかったんです(笑)。まわりのみんなは就職しちゃっているし。埼玉の春日部を出発して、池袋、新宿、渋谷あたりから東京に入るのを僕は“正面玄関”って呼んでいたんですけど、そこのルートでJCAに行けていたので「すごいな。東京に来ちゃってるぞ」みたいな楽しみもありました。僕の中では上野から東京に入るのは“裏口”という感覚です(笑)。

アンタッチャブル

──真面目に通われたことで身になったことはなんでしょうか?

山崎 声が出るようになったんじゃないですか? 声がデカいんで、そこは当時の発声方法が生きていると思います。タップダンスはビートたけしさんのモノマネをするときにできるので、正確に踏めているかどうかはわからないけど役に立っているのかなと。

柴田 ブッチャーブラザーズさんがいたので、お笑いの部分は学べましたね。JCAの授業は当時からリニューアルされて、今のほうがよりしっかりと学べるようになっていると思うので、身に付くことは僕たちのときよりも多いはずです。

──お二人が組んで最初に漫才を披露したライブでウケて、柴田さんはガッツポーズをしたという思い出を以前お聞きしました。山崎さんは最初のライブの手応えを覚えていらっしゃいますか?

山崎 ウケた印象があって「よかったかな」というのはありますけど、「こんなに痛いものなんだな」とは思いました。

──「痛い」とは?

山崎 めちゃめちゃツッコミで叩かれるんで、痛いんです。しかも当時は尋常じゃないです。ツッコミの言葉が出ないときは何も言わずに叩いたりしていましたから。感情よりも先に手が出る、みたいな。練習では叩いてこないんですけど、本番では倍、ヘタすりゃ3倍くらいの強さでした。最初のネタは、ダウンタウンさんに憧れて入ってきたもののよくわからなくて、お互いにボケとボケみたいな感じで、とにかくボコボコにされるという印象でした。

柴田 まだアドリブには対応できないけど、ツッコまなきゃいけない。ボキャブラリーがないから、「言葉は出ないけど手は出るぞ」みたいな。もともとツッコミをやろうと思ってこの世界に入っているわけでもないですし。突拍子もないことを言われて、たぶん対応できなかったんです。

山崎 無我夢中でやっていました。