ZIGGYのアルバム「ROCK SHOW」と、sadsのアルバム「FALLING Ultimate Edition」が時を同じくして10月24日にリリースされる。ZIGGYのアルバムはバンドのルーツの1つと言えるL.A.メタルを彷彿とさせるハードな1枚。sadsのアルバムは、2018年をもって活動休止することを発表している彼らにとって休止前最後のオリジナル作品となる。
これら2枚の発売を記念して音楽ナタリーでは今回、森重樹一(ZIGGY)と清春(sads)の対談を企画。互いの音楽についてトークしてもらうのみならず、10月30日で清春が50歳になることを受けて、五十代のロックボーカリストとしての思いも語り合ってもらった。
取材・文 / 増田勇一 撮影 / 宮脇進
普通に考えればアンチのほうが多くなりがちな行為
──ひさしぶりの再会、と言うほどではないはずですよね?
清春 こないだ僕、ZIGGYのライブを観させていただいて。
森重樹一 前回のツアーの最終日(4月30日の東京・Zepp DiverCity Tokyo公演)だったよね。
清春 その前にテレビ局でたまたま一緒になって。昔、sadsがEMI所属だった頃のプロモーターの人がそこにいて、ZIGGYの宣伝をやっていると言うんで「ライブ観に行きます!」とお願いしたんです。僕はここまでの経緯は詳しく知らないんですけど、今は“森重さん=ZIGGY”になっているじゃないですか。ライブでもそれを貫いてるのをすごく感じさせられて。僕も実質1人みたいなところがあるし、Guns N' Rosesだって今は復活してますけどアクセル(・ローズ)だけの時代が長く続いてた。日本でそういうことができちゃう数少ない先輩だと思います。
──現在のZIGGYは森重さん以外のメンバーが不在です。このような形での始動自体、かなり思い切った判断だったはずですよね?
森重 実際、普通に考えればアンチのほうが多くなりがちな行為ではあるし、それは誰が考えてもわかることで。それをあえて押し切ってやるモチベーションが自分の中で続くのかどうか、というのがすごく大事な部分でしたね。でも今は「ああ、やっぱりやってよかった」とシンプルに思う。その一歩を踏み出さずにいたら何も起きなかったわけで。それこそ過去のメンバーを集めて興行を打つことは可能かもしれない。だけどそれは、そのときの自分がやりたいものを新鮮な気持ちで作るのとは次元が違うことじゃない? 俺がやりたいのはやっぱりそっちなんだよね。そこの部分を大事にできなかったらナンセンスだし。しかも俺がみんなを追い出したとか、そういうわけじゃないし(笑)。
清春 「過去には答えはない」みたいなことをMCでもおっしゃっていて、会場に集まってる人たちは普通に今のZIGGYを楽しんでいたんです。そこにZIGGYが存在していることがうれしい、みたいな。そういう空気を感じました。
「これが俺のリアリティだ!」とか気張ってると演技感が出てしまう
──今、作りたいものを作る。そこは清春さんの活動のあり方にも重なる部分ではないかと思います。
清春 確かに。でも森重さんは僕どころじゃないですよね。僕、森重さんほどには作れないと思う。今回のアルバムも聴かせていただいたんですけど、まず、歌詞の情報量と言うか文字の多さに驚かされて。そういった歌詞のあり方というのも、それこそ初期のZIGGYとは全然違ってるじゃないですか。一時はもっと漢字が多くて、「おっ!」と思わされてたんですけど、それが今はちょっとまろやかになってきてると言うか。
森重 噛み砕かれてる感じになってる、と言うかね(笑)。
──清春さんの驚きは「このペースで作っていて、しかもそんなに書きたいことがあるのか!」という部分に対するものなんですか?
清春 そう。すごいですよね。ストイックなんだろうなと思いますね、普段の生活の中でも。僕とは全然違う(笑)。僕の場合、昔はもうちょっと神経質で、だんだんラフになってきたタイプなんですよ。森重さんは僕らがキッズの頃に見てたイメージからすると、昔はもっと……。
森重 乱暴な感じでね(笑)。
清春 と言うか、「どうでもいいや」みたいな印象がちょっとあったのが、今はすごく哲学的になってる感じがするんですよね。
森重 ある程度の年齢になると、下地ができてくるんじゃないかなと思ってるんだよね。いい悪いではなくて、年齢と共に、自分にとって居心地がいいところに行きたくなると言うか。若い頃は「自分はこういうイメージで」と思ったら、無理をしてでもそこに焦点を合わせてたような気もするわけ。それがだんだん自分にとって無理のない表現になってきたのかもしれないな、と思っていて。好きなものに還っていく、と言うかね。俺の場合、元をたどればロックンロールと言うよりも三多摩フォークだからさ(笑)。ちょっとヒッピー文化が入ってるからね。ラブ&ピースな感じ。そういった幼少のときに通過してきたものとか、育ってきた環境とか、思春期の頃にいいなと思ったものとかがどんどん複合されていくんだけど、時間が経つにつれ、自分にとって最終的に居心地のいい椅子みたいなものがなんとなく決まってくるんじゃないのかな。
──そこでようやく本当の自然体にたどり着く、ということですね。
森重 たどり着いたのかどうかわからないし、これはまだ不自然なのかもしれないけどね。なんかそんな気がする。結局、理想は作品に投影できればそれでいいかな、と最近は思えてきた。
清春 なるほど。
森重 そこで「これが俺のリアリティだ!」とか気張ってやってると、ある種の演技感が出てきてしまう。それは多少なりとも絶対みんなあるはずだと思うけど、その演技感がマジなものになっちゃうと、自分が混乱すると言うか、ホントの意味で楽しくなくなっちゃう部分が出てくると思うんだ。もちろん、「これは俺の生き方だからさ」みたいにどこかで思ってはいるよ。でも作品は作品でしょ、というところが同時にある。なんか俺は最近、すごくそう思えてるかな。しかもストイックかどうかと言えば、むしろ俺はユルいしね。なにしろ自分のしたいことしかしないし、したいこと以外には一切興味も持たないし。部屋なんか散らかってても全然気にならないしね(笑)。
清春 すごくきれいそうなイメージですけど、違うんですね?
森重 そこはもう、大いなる期待外れ男だから(笑)。極論を言うと、ホテルに住みたいくらいだもん。
清春 ああ、それはわかります。
森重 ある種、理想的だよね。どうやって自分の日常から生活感を放り出そうとしても、どんなに「俺がロックだ!」なんて息巻いてても、生活というのはものすごい量でのしかかってくるものだから、それは消せるものじゃない。
清春 そうですよね。日本だから、という部分もあるのかもしれないですけど。どうしても海外のアーティストがインタビューでしゃべっているような風景にはならないんですよね、なぜかわからないけど。
森重 何かが違うんだよね。
清春 こうして部屋に置いてあるものも違えば、飲み物1つも違うわけで。
森重 土壌の違いと言うかね。そういうところでの差異はいつまでもある。
清春 だから海外とかに行くと、ついついそれっぽい写真を撮りたくなってしまう(笑)。
森重 結局、そういう日本ならではの部分を否定しながら、海外の人たちよりもカッコいいものを作れるかどうかが問題なんだよな。奇をてらわずに王道としてのパッケージングを考えていくと、リフにしてもコード進行にしても、もうとっくに出尽くしてる。そこでものすごく新しい音楽をやると言うよりは、音楽をやる人間の“間合い感”みたいなものに新しさがあればいいんだと思う。そこにたぶん、人は食いつくはずで。
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今の50歳は昔の30歳だよね