米津玄師|僕はこういうふうに生きていきます──「地球儀」に込めた“宮﨑駿と私”「君たちはどう生きるか」主題歌制作の4年を振り返って

光栄であると同時に、やっぱりものすごく恐ろしかった

──主題歌の依頼があったのは宮﨑さんがFoorinの「パプリカ」をラジオで耳にしたのがきっかけだったと聞きました。

「パプリカ」は、子供たちが歌って踊る曲を作るという、自分にとって初めての体験をした作品で。かつ、何らかの応援歌であってほしいという要望もあったんです。本来応援される立場である子供が応援歌を歌うってどういうことなのだろうかと自分の中で悩んだ時期に、宮﨑さんの映画が大きな参照源になったんです。子供にずっと向き合って映画を作り続けてきた人なので、彼がどういうふうに映画を作ってきたかを今一度調べ直しました。そのうえで自分が出したある種の結論が、子供をナメないことだった。「こうしたら歌いにくいかな」とか「この言葉は子供にわかるかな」とか、そうやって子供の精神性や身体性よりも優しいものにするという選択はおそらく子供をナメることにつながるだろう、と。「子供はこういうものだ」という枷を自分で自ら作り上げるんじゃなく、とにかく「こういうものができました、あなたたちはどう思いますか」と、同じ目線に立ってものを作り上げていくことが大事だと考えながら「パプリカ」という曲を作ったんですね。で、その1年後くらいに「ジブリ映画の主題歌どうですか」という話が急にやってきて。驚愕としか言いようがない感じでした。「ええ!?」みたいな。

──話を聞いて、まず驚きがあった。

はい。まず「なんで?」じゃないですか。いろいろ話を聞くと、ラジオで流れていた「パプリカ」を宮﨑さんが耳にしていたそうなんです。ある日、ジブリで運営してる保育園で子供たちがこの曲を歌ったり踊ったりしているのに合わせて、宮﨑さんが一緒に口ずさんでいた、と。それを見た鈴木さんが、これはもうある種の運命だろうということで「この曲を作ってる人に主題歌を作ってもらうのはどうですか?」と聞いたら「それはいいですね」となったということでした。だから、宮﨑さんの映画が大きな礎となって作った「パプリカ」という曲を、宮﨑さんが聴いて、それがきっかけで「君たちはどう生きるか」の主題歌に白羽の矢が立つというのは、なんだかすごく感じ入るものがありました。

──オファーの経緯を聞いて曲を作るということになった、そのときの感覚ってどうでしたか?

あんまり覚えていないんですよね。話が来たときのファーストインプレッションも、実はほとんど覚えていない。自分の記憶に衝撃的に残っていてもおかしくないじゃないですか。でも、そのときの情景もほとんど覚えていない。なんでなのか考えてみると、光栄であると同時に、やっぱりものすごく恐ろしかったと思うんですよね。自分の人生の中で一番の光栄なことであると同時に、自分の音楽家人生が終わるんじゃないかという、うっすらとした不安みたいなものがそこから4年間ずっとあった。だから、あんまり覚えてないというのが正直なところです。

米津玄師

余すところなく受け取って帰ろう

──宮﨑監督や鈴木プロデューサーから作品の説明を受けたり、打ち合わせのようなものもありましたか?

まず最初に絵コンテをいただいて、それを読ませてもらって。その後に対面して打ち合わせという形でお話しさせてもらいました。宮﨑さんからは、基本的な理念の話というか、いろいろ映画を作り続けてきたけれども、今回は蓋を開こうと。今までは自分の内にあった暗くドロドロした部分にある意味蓋をしながらずっと生きてきたけれども、今回はそういうものも全部取っ払って、自分が今まで行かなかったところ、後ろ暗い部分も含めてすべて映画にしようと思っていますという話をしてもらいました。

──そうだったんですね。

また、自分が子供の頃に「果たしてこの世に生きてていいんだろうか」という迷いや暗いものを抱えて生きてきたことをすごく覚えている。だから映画を通して、その頃の自分や、今の時代を生きているその頃の自分と同じ世代の子供たちに対して、「この世に生きてていいんだよ」「この世は生きるに値する」ということを伝えたいという話もされていて。この言葉はいろんな書籍とかインタビューでも宮﨑さんがずっと話されてきたことで、自分も聞いたことがあったんですけど、実際それが彼の口から自分の耳に飛び込んできて。宮﨑さんがそれを話しながら感極まってちょっと涙を流されていたんです。それはすごく強く覚えていますね。

──宮﨑監督の子供時代の話もあったんですね。

そうですね。全然関係ない話もいっぱいしました。宮﨑さんが船の絵を描くために、近所の川に木で作った船を浮かべたら草木に引っかかってしまって。それが、いつ行っても同じ場所に留まっているんです。これが呪いのように見えるんですよねと言っていて。最近あったことをただただ話しただけだとは思うんですけど、そういう言葉もすごく印象に残っています。

──制作にまつわる打ち合わせだけでなく、子供の頃の記憶の話をしたり、こんなものを見てこう感じたというようなとりとめのない話をしたりしている時間が、すごく大切なものだった感じがある。

そうですね。こっち側からすると、本当に幼少期から彼の映画に救われて生きてきて。青年期になって、勝手に私淑が始まって。個人的な話ですけど、自分にとって、たぶん一番の師匠なんですよね。その彼と一緒に仕事ができる。面と向かって机を挟んで対面に座っている、彼の一挙手一投足、発言を余すところなく受け取って帰ろう、と。最初はものすごく肩肘を張って、張り詰めていました。

古びることもなく新しくもない、長く聴けるようなものを

──実際に曲を作り始めたのはいつ頃のことでしたか。

あまり覚えてないんですけれど、たぶん2年前くらいから作り始めたと思います。ずっと絵コンテを見ながらどういうものがいいのかを考え続けていたんですけど、公開がいつになるかもわからない状態で。その中で自分が手を尽くせる限りいろんな試行錯誤をしたくて、考えたり手を動かしたりしながらも、絵コンテをもらってから2年くらいの間は曲としてまとめ上げることはなくて。ずっと絵コンテと向き合う時間が流れ続けていました。

──曲を作るにあたってはいろんな選択肢があると思うんですけど、この映画の最後に流れるにふさわしいものとなると、必然的にこういう曲調が望ましいであろうというイメージもあったのではないかと思います。米津さんが曲を作るにあたっての出発点になったのはどういうところでしたか?

最初から、土台自体は定めていました。「スコットランド民謡を作ろう」というところから始まって。なんでそうなったのかと言われると非常に難しいところがあるんですけど、自分が宮﨑さんの映画からずっと感じていたのが、スコットランド民謡的な何かだったんですよね。それでいて、素朴なものを作ろうと思いました。いろんな楽器を積み上げてゴージャスに響かせるというよりは、本当に素朴な、ピアノとか最低限の楽器を使って、あとは自分の声で歌う。古びることもなく新しくもない、もっと言うと最初から古い、そういうフォーマットで長く聴けるようなものを作るべきであるという。それは最初のうちから定めていました。

──イントロのバグパイプの音色も印象的ですが、これは?

曲を作っている最中にエリザベス女王が亡くなって、その国葬の映像を観たんです。その中の一節に、毎朝彼女を起こしていた専属のバグパイプ奏者の独奏があった。対称的な画角の中、バグパイプ奏者が演奏をしながらゆっくり奥のほうに進んでいって消えていく。それを観たときに、すごく感じ入るものがあって。そのバグパイプの映像を作っていたデモ音源の上に試しに乗せてみたら、スケールが一致したんですよね。いろいろ調べると、バグパイプという楽器はスケールが何パターンかしかなくて、たまたま作っていた曲のスケールがそのうちの1つに合致した。これはバグパイプを入れるしかないだろうとなって。本当はピアノ1本の弾き語りみたいな形で行こうと思ってたんですけど、その体験があってから、これは何かがあると思って、入れざるを得ないという感じがありました。

──耳を凝らすと聞こえるくらいの音量で椅子が軋むような音も鳴っていますが、このサウンドに関してはどうでしょうか。

今回の曲は1つひとつ丁寧に作っていきたいと思ったので、デモを作るためにプリプロとして、レコーディングスタジオに行って、そこで録音しながらデモを作り上げたものを提示するという段階を経たんです。ただ、ちゃんとレコーディングすると言っても、いろんな楽器をトライしていたので、マイクの録音環境もそんなに決め込まずに録ったんですよね。そしたらピアノのペダルがギシギシいう音までデモに入ったんです。それを意図したわけではなかったんですけど、実際録ってみると、その音がなんだかとってもいいなと思って。それがない、ちゃんとした録音状態でノイズを一切排除したピアノも録ったんですけど、それは物足りなくてしょうがなかった。レコーディングも、いろんな環境で試したんですよ。スタジオも変えて、何台ものピアノを試したし、レコーディングの場所も変えた。ちゃんとしたゴージャスなピアノを試したりもしたんですけれど、やっぱりペダルの音がギシギシいっている最初のピアノの音に勝るものがないという思いがどうしても拭えなくて。

──そのような経緯があったんですね。

最終的に「1回試してみるか」ということで、今回の共同編曲で入ってくれた坂東(祐大)くんの実家のピアノで録ったんです。ごく一般的な家にある、普通のピアノ。特に防音設備が整っているわけでもない、彼が幼少期から暮らしていた部屋にマイクを立てて、彼の母親の代から弾いていた古いピアノで録音しました。定期的にメンテナンスをしていたわけじゃないんですけれど、その感じがやっぱり一番いいなって。

──完璧な防音の環境やリッチなピアノよりも、なんでもない、けれども確実にその人と時間を過ごしてきたピアノの音が一番しっくりきた。

一番しっくりきましたね。そのレコーディングをしているときも同じ部屋に坂東くんのお母さんがずっといて。そもそもそのピアノはお母さんが子供の頃に買ってもらったものなんだそうです。お邪魔したのが正月くらいだったので「帰省した感じがあるね」と言いながら、和気あいあいとやっていて。すごく楽しい体験でした。