昨年10月に亡くなった作曲家の筒美京平を偲び、4月17、18日に東京・東京国際フォーラムにて開催されたトリビュートコンサート「ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート」。岩崎宏美、太田裕美、郷ひろみ、ジュディ・オング、野口五郎、斉藤由貴、早見優、松本伊代ら総勢29組のアーティストが登場し、めくるめく“筒美京平ソング・オンステージ”を繰り広げた。WOWOWでは10月3日に、この公演の選りすぐりの名場面が出演者のインタビュー映像を交えながら放送・配信される。本稿では同番組の見どころとともに、筒美の功績やその魅力を紹介する。
取材・文 / 松永良平撮影 / 国吉辰一
「職業作曲家」。自作自演であることが重要視されていた時代には「職業作曲家」という言葉はちょっと分が悪かった。職業として作曲をして、ヒットを出し続けることは本当にすごいことなのに。
筒美京平(1940-2020)は、そんな「職業作曲家」のイメージを鮮やかに塗り替えた存在だ。自身がスター的なキャラクターとして活躍をしたとかはでなく、むしろその逆。インタビューもほとんど受けず、裏方としてポップソングを量産し、歌手の背中を自分の楽曲の力のみでひたすら後押ししていった。なにしろ半世紀以上にわたって作曲した楽曲の生涯通算売上枚数は7600万枚に達し、他の追随を許さない。また、本格的に作曲活動を開始した1960年代から2000年代まで5つの年代でナンバーワンヒットを出してきた。それもまた前人未到の境地だ。
1968年12月にリリースされ、翌69年、筒美にとって最初にチャートのナンバーワンをもたらした「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ / 作詞:橋本淳)に始まり、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦 / 作詞:阿久悠)、「真夏の出来事」(平山三紀 / 作詞:橋本淳)、「男の子女の子」(郷ひろみ / 作詞:岩谷時子)、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美 / 作詞:松本隆)、「グッド・ラック」(野口五郎 / 作詞:山川啓介)、「魅せられて」(ジュディ・オング / 作詞:阿木燿子)、「ギンギラギンにさりげなく」(近藤真彦 / 作詞:伊達歩)、「センチメンタル・ジャーニー」(松本伊代 / 作詞:湯川れい子)、「なんてったってアイドル」(小泉今日子 / 作詞:秋元康)、「卒業」(斉藤由貴 / 作詞:松本隆)、「人魚」(NOKKO / 作詞:NOKKO)、「強い気持ち・強い愛」(小沢健二 / 作詞:小沢健二)、「AMBITIOUS JAPAN!」(TOKIO / 作詞:なかにし礼)……。これほどの名曲を列挙しても、まだ氷山の一角でしかない。しかも、改めて驚かされるのは、いわゆる“筒美京平節”とジャンル分けされるような、特徴的なメロディやアレンジのクセがないことだ。筒美は、作詞家の言葉のみならず、シンガーの歌声やキャラクターの魅力を生かした楽曲を作り続けた。究極の万能作曲家にして、歌い手の才能を無限に引き出すマジシャンでもあった。生前の筒美のエピソードで僕が特に好きなのが、大ベテランとなってもなお都内の輸入盤店から最新の洋楽アルバムや12inchシングル、CDなどを大量に購入し、世界の最先端に対応していたという話だ。近田春夫の著書「調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝」(リトルモア)や「筒美京平 大ヒットメーカーの秘密」(文藝春秋)でも明かされていた、移動中には携帯テープレコーダーに気になる洋楽曲をイントロから一番のサビまでだけで切り取って、たくさんカセットに入れて聴いていた、という話もすごい。
単に流行に敏感で、研究熱心だったというだけではない。松本隆や秋元康ら才能を認めた相手との仕事では、曲先と詞先の両方で制作をしようと持ちかけて楽しんでいたという。プロとして最大限の誠意でオファーに応えながら、序列や年齢に一切こだわらず、制作面での遊びや刺激を忘れずにいた。自分が送り出したヒット曲のスタイルに拘泥することなく、次々と違う方向性で名曲を生み出せたのも、その軽やかさゆえだろう。“大作家”として公に振る舞うことで、その軽さが失われると直感的に知っていらしたのだと思う。また、日本のポップスの成り立ちにおける洋楽の影響力の強さを、単純なカバーではなく、日本語と融合させてオリジナルなポップスに帰着させる手腕において、筒美は間違いなく先んじていた。そのアプローチで結果を出し始めていた1960年代末は、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の4人が日本語のオリジナルなロックを目指してはっぴいえんど結成に向かっていた時期と、奇しくもシンクロする。後年、筒美と松本隆が強力なコンビとなって数々のヒット曲を連発したのは、お互いの出発点が最初から近いものだったという側面もあるのかもしれない。
それにしても、筒美作曲の大ヒット曲は、それを歌った歌手やバンドにとって、少しも重荷にならない。引きずられる過去の栄光ではなく、歌うことで現在にも輝きを与え、歩んできたキャリアを軽やかに感じさせる。筒美を失ったということは、J-POPの歴史を構成してきたひとつのピースが欠けたどころではなく、日本の音楽全体に大きな影響を及ぼす事件だった。だが、逝去後にメディアでもたくさん流れた筒美京平印のヒット曲は、巨大な才能を失った悲しみよりも、過去からの未来に向けたエールを意識させた。
来る10月3日にWOWOWで放送・配信される「ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート」(2021年4月17、18日に東京国際フォーラムで開催)は、その揺るぎない事実をまざまざと感じさせるものだった。楽曲を歌った歴代のオリジナルアーティストたちはもちろん、リスペクトたっぷりで意外性も抜群なトップアーティストたちの歌唱で構成された大舞台。もちろん名曲を歌うアーティストの皆さんにとっては筒美京平という大恩人への恩返しの場でもある。だが、涙を誘うような湿っぽさは要らない。メソメソ歌うために曲を書いたんじゃない、というような筒美の声を誰もが感じていたのかもしれない。
楽曲を支える演奏陣も、日本のトップがそろった。音楽監督・指揮はアレンジャーの船山基紀。ミュージシャンは、中西康晴(Key)、安部潤(Key)、土方隆行(G)、増崎孝司(G)、吉川忠英(Acoustic Guitar)、髙水健司(B)、山木秀夫(Dr)、斉藤ノヴ(Per)、AMAZONS(Cho)、ルイス・バジェ(Tp)、竹内悠馬(Tp)、鍵和田道男(Trombone)、アンディ・ウルフ(Sax)、石亀協子ストリングスという大編成。筒美京平楽曲のレコーディングにも数多く参加してきた強者ミュージシャンたちの顔ぶれにくらくらするほどだ。イントロが流れると、ステージ奥の扉が左右に開いてアーティストが登場する。どれも大ヒット曲だからおなじみだということもあるが、やはりイントロからすでに曲としての個性を明確にさせる手腕の見事さを称賛すべきだろう。優れたイントロは、単に歌が始まるまでの飾り付けではなく、歌う側にも聴く側にも曲に思いを込める大事な時間になる。そして、ヒットから時間を経ることで、あの頃がまざまざと蘇る記憶のスイッチにもなる。たぶん、このコンサートに登場したすべてのアーティストも、イントロにエスコートされる瞬間から最高の心地よさを味わっていたはずだ。
総勢29組が登場した、めくるめく筒美京平ソング・オンステージ。中でも際立った存在感を示したシンガーたちをピックアップして紹介したい。アイドルとしてのデビュー当時から歌のうまさが際立っていた岩崎宏美は、2ndシングルにして彼女に初のチャート1位をもたらした名曲「ロマンス」(75年)を歌う。円熟味と歌のうまさがさらに増した彼女が今歌う10代の恋心が淡く愛おしい。80年代アイドル勢からは、“花の82年組”の松本伊代、早見優が登場。それぞれ代表曲である「センチメンタル・ジャーニー」(81年)、「夏色のナンシー」(83年)を歌う。万人が認める高い歌唱力よりも声の個性を重視したと言われる筒美にとって「センチメンタル・ジャーニー」は、まさに完璧な1曲だし、早見のスポーティで健康的な魅力をほとばしらせた「夏色のナンシー」も鮮烈な印象を残す。そうした声の個性をポップスとしての幅広い魅力として成立させてゆく筒美の着眼と手腕は、女優志向でありながらアイドル歌手としてデビューをした斉藤由貴のデビュー曲「卒業」(85年)にも最大限に発揮されている。1つの方程式に当てはめるのではなく、答えから問いを引き出し、最良の回答を新たに引き当てていくような曲作り。このコンサートで、3人の異なる個性の80年代トップアイドルの歌を聴くことで、その力強さを再認識した。
そして、何よりもこのコンサートの華やかさを特別なものにしたのは、70年代の“男性アイドル新御三家”の2人、郷ひろみと野口五郎の参加だ。ともに筒美作品を数多く歌ってきた2人だが、その色合いは異なっている。デビューシングルで圧倒的にユニークな個性を確立した「男の子女の子」(72年)から「洪水の前」(77年)まで、郷の楽曲はほぼ筒美専属と言ってもいいほどだった。いたいけでスリリングなティーンエイジャーの気持ちを代弁するように、筒美メロディは鳴り響いた。そして郷が歌うのは、自分の出発点である「男の子女の子」と「よろしく哀愁」(74年)。一方、野口も2ndシングル「青いリンゴ」(71年)以来、数々の筒美楽曲を歌っているが、徐々に楽曲の方向性は青年期に向かう野口の成長を見届ける方向へと向かう。数ある名曲の中から、野口は大人の階段を登るようなバラード「甘い生活」(74年)、そして「グッド・ラック」(78年)を選んだ。同じ時代を同じようにアイドルとして過ごしたはずなのにこうした違いが楽曲に出るのは、それだけ筒美が2人の歌手としての性格と成長を見つめていたからではないか。
コンサートも終盤。満を持して登場するのはジュディ・オング。79年当時、サビの英語がなんと歌っているのかわからなくても子供たちが皆振り付けまで真似して歌ったと言われる名曲「魅せられて」。歌手としてもキャリアの長かった彼女だが、実はこの曲は当初CMソングとしてお茶の間に流され、彼女の名前もクレジットされていなかった。それが、テレビで繰り返し流れるサビのメロディと歌声があまりに印象的だったためジュディ・オングの歌だと解禁され、その後、累計で200万枚を超える大ヒットシングルとなったのだという。まさに徹底した楽曲主義者にして、歌手の声の魅力を知り尽くした筒美作品だからこそ起こった奇跡のようなもの。今なお変わらぬジュディ・オングの美声と、このコンサートで実現した超豪華なバンドサウンドによる「魅せられて」をぜひ味わってほしい。コンサートの幕はいったん降りるが、アンコールでは野口、岩崎、郷、松崎しげるらが登場し、「あの曲も歌ってほしかった」と誰もが期待する名曲を披露。そして最後を締めるのは……乞うご期待というところ。
「昭和歌謡」という言葉が定着したのは、当然ながら昭和が終わって平成になってからのこと。最初は“懐かしさ”で受け止める感覚が主だった。だが、時が経つにつれ「昭和歌謡」から、徐々に現代から見ても新鮮なアイデアやポップ性を発見する“新しさ”のほうが優ってきているようにも感じる。その“新しさ”の大きな部分を筒美の楽曲は担っていた。それだけじゃなく、多くの昭和の作家が第一線から一歩引いてゆく中で、筒美は平成にもちゃんとヒット曲を出していたんだからすごい。単に新しいだけでなく、歌手のキャラクターと時代の要請を読み取る柔軟なバランス感覚もあった。数々の名曲は、誰にでも歌えるけどその人が歌うと一番際立つという絶妙なポイントを突いていた。「その人じゃないとダメ」という孤立や壁を作るのではなく、中心となるシンガーから歌が世間という裾野へと広がっていく景色をイメージしていたような気がする。それは、流行歌というものの本質でもある。だからこそ、そこに作曲者という自分の個性が居座ることをよしとしなかったのだろう。歌だけが残っていくことに美学を見出していた。その姿勢からも今学ぶべきものはたくさんある。
それにしても、こんなに豪華で、こんなに歴史を感じさせるラインナップで、あれほど名曲ばかりをそろえてもまだ足りない。あの曲も、あの曲も、あの曲だって聴いてみたい。汲めども尽きない筒美京平ワールドの奥深さと幅広さ。可能ならまた違う視点での選曲や人選も見てみたい。マニアックな名曲集もいいし、踊れる曲ばかりの一夜もいいかも。何より、歌がもたらす幸せを、このコロナ禍で誰もが欲しているんだということを本当に実感する3時間半だ。
- 筒美京平(ツツミキョウヘイ)
- 1940年5月28日生まれ。レコード会社勤務を経て、1966年から作曲家としての活動を開始。いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、岩崎宏美「ロマンス」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、ジュディ・オング「魅せられて」、近藤真彦「スニーカーぶる~す」など数々のヒット曲を世に送り出し、作品総売上枚数7600万枚超という国内作曲家歴代1位の金字塔を打ち立てている。2003年に紫綬褒章を受章。2017年の「第59回輝く!日本レコード大賞」では功労賞を受けた。2020年10月7日に誤嚥性肺炎により80歳で逝去した。