東京事変|10年ぶりのフルアルバムで、たどり着いた“音楽”

一緒に考えましょう

──8年間の休止期間の間も、個々のメンバーと仕事はされてましたし、この5人がそろうこともあったわけですけど、今回継続的に5人で作業をしていく中で、バンドの空気の変化というのはありましたか? 単純に、皆さん8つ歳はとったことになるわけですけど。

どんどんよくなっているというか、そこに関してはいい話にしかならないです。みんなさらに大人になっているので。御免なさい。解散するちょっと前から、もうそういう感じでしたかね。4人とも非常に和やかなよい人物で。亀田さんと浮雲の話すことは子供のような下半身案件が多くて、ほかの2人がそれを制するみたいな。普段はだいたいそのノリです。

──アルバムの導入部はいつになくファンキーというか。冒頭からラップ、ファンク、ドラムンベースっぽい曲と続いて。

ラップ、ファンク、ドラムンベース……そうやっていざ言葉にされるとすごく照れるんですけど(笑)。

──すみません(笑)。でも、その流れからの4曲目の「命の帳」は、このアルバムの中でちょっと異彩を放っていて。これは先行で配信シングルとしてリリースされたときにも思ったんですけど、伊澤さんの書かれた曲でありながら、かなり林檎さんのソロっぽい曲というか。

いやいや、こんなアカデミックな曲、私には書けないです。

──林檎さんのリリックに印象が引っ張られているのかもしれません。

これもアルバム前半、親世代として、未成年の方々に「こう思っていてほしい」という姿勢を書いた曲で。「人の肌に触れる」ということが神聖なことでさえあれば、未然に防げる悲劇もあれこれあるでしょうし。お若い皆さんには凛と気高くあってほしいという、そういう願いを込めてます。あまり細かいことを言うと、ジェンダー問題に引っかかってしまいそうですね。

──「女優」という言葉を使うのにも覚悟と注釈が必要な時代ですからね。

なるほど。息苦しい。

──特にアルバムの前半に顕著ですが、今回のファンク色の強さについてもちょっと突っ込んで聞いてみたいのですが。もちろん、過去の事変の曲にもそうした要素はありましたけど。

コードワークに対するメロディメイクでいったら、ファンクというよりも、どっちかというとジャズなのかもしれないです。浮雲も一葉も。マイルス(・デイヴィス)とかロイ・ハーグローヴとか、そういうフィーリングなんじゃないかって、私は解釈していたりします。どうなんでしょうね。

──なるほどなるほど。個人的には、そうしたフィーリングやグルーヴも相まって、先ほど言ったプロテストアルバム、あるいはプロテストミュージックといった印象が醸成されていったところもあります。

そうですか。でも、皆さんも普通に感じて、ツイートをしたりしてる平易な内容だと思いますけどね。リリックの面では一般的な呪詛や願望しか書いてないつもりなんです。いつも。

──そうだとしても、それを林檎さんが歌っているということに、リスナーは勇気付けられるし、鼓舞されるわけですよ。

うーん、そっか。

──逆ギレ的なテンションもあって。

「逆ギレ」っていうと、私があらかじめ何か悪いことをしたみたいじゃないですか?(笑)

──あ、そうですね。そこは言葉を間違えました。ヤケクソ感というか。例えば、「黄金比」の「地球環境さえもいい感じ」だとか、不謹慎と言われれば不謹慎なフレーズじゃないですか。

そういうところは、物書きと言えども所詮はプレイヤーであり曲を書く側なんで、どうしても音楽的にアプローチしちゃうんですよね。ここで「いい~感じ~」ときたら浮雲のハーモニーが気持ちいいなと思っただけで、あそこはよがってるところです(笑)。でも、文脈的にもこうしたらもうちょっといい感じになるんじゃない?っていう、ヤケクソというより、わりとポジティブなつもりでしたよ。リリックに関しては、「個人的な意見がある」ということよりも、「みんな、そんな感じじゃない?」っていうところで書いてました……。

──それがポップミュージックの本来の役割ですからね。

民意を読み間違えてなければいいんですけど。

──いやいや、読み間違えているどころか、ポップミュージックの役割をここまでちゃんとまっとうしているということに、今回本当に感動してしまって。少なくとも今の日本には、ここまでちゃんと踏み込んで、それを言葉にしているポップミュージックはほかにないですから。

いえいえ、何をおっしゃいますか。

──ソーシャルメディアにおけるハッシュタグアクティビズムのように、左の言説と右の言説にすっかり分断されてしまった中で、「毒味」にも「一服」にも出てくる「センターライン」という言葉に、その覚悟が象徴されていると思いました。

ずっとそのつもりでやってきたんですけどね。それでもことさら分断を煽る仕組みがあるから、表現のうえでご法度、禁句とされがちなのもさもありなん、つまらないですよね。

──「遠い両極端の丁度間には中道があるって思い込んで人生半分を終えた」(「一服」)というフレーズには、なかなかの重みがありました。

そこのフレーズは、一葉に歌わせたかったというのもありましたし(笑)。どれもこれもネガティブなメッセージじゃないぞ、と釘を刺しておきたかったんですかね。

──目の前に広がっているこの惨状も、社会が変化するプロセスであるということですか?

そうですね。カジュアルに、一緒に考えましょうよ、とあくまで楽しげに響いてほしいです。

──林檎さんや東京事変の音楽が確実に新しい世代にも届いていることを実感させられることも多いので、その「一緒に考えましょう」という言葉には説得力があります。

しかし新しい世代のお客さまが「どこで知ってくださるのかな?」っていつも不思議に思いますね。ライブがあるときに遠征してくださっているお客さんのことをTwitterで追っていても、母親のように冷や冷やすることも多くて。「あ、高速バスに乗った」とか「まだこの方、お宿がとれてないんだ」とか。

東京事変

すべては自ずと決まっていくもの

──近年、若い世代のアーティストと話をしていても、林檎さんの音楽からの影響についての話になることがすごく多いんです。ただ、以前林檎さんがあえてよく使っていたタームの「J-POP」ということでいうと、ようやく日本の音楽シーンも次の時代へと移行したという実感はありませんか?

音楽シーンみたいなことは、近頃あまり気にしてないですね。でも、そうおっしゃるのなら、確かに変わったのかもしれません。私自身、最近は「J-POP」という言葉を発してないですし、今回事変のアルバムを作ってるときも。そういうことはまったく考えてませんでした。「J-POP」って、定義としては歌謡じゃないですか。でも、もともと事変の音楽は、歌謡として捉えてもらったときに、そこでも成立するギリギリのところを狙ってきたバンドで。基本的には、プレーヤーのセッションに声の素材も入っている、という内容なので。そのインストゥルメンタルの部分のリフやコードワークを整理して、あたかも「J-POP」のフォーマットのように「A、B、C」とかっていう構成があるかのように工夫して作ってますけど、必ずしも都合よくいつもそうはならないんですよ。それでも、なんとか一応そう聞こえるように仕上げるから、ポップスとして取り扱ってもいただけているのかしらというだけで。ほかの日本のポップスと比べると、声のレベル自体がものすごくちっちゃいですからね。

──確かにそうですね。

キックの音も、ヒップホップみたいな出し方とは違いますけど、勇気の要る独特な出し方をしています。それと、うちのお客さんには吹奏楽、軽音部、ジャズ研などを経験されていたような方が多いこともあって、そういう方たちにも満足していただける、演奏してみていただいた際、面白みの出るアンサンブルというのも常に意識していて。だから、「J-POP」というのは、私にとっては自分の音楽を仕事として成立させるための、1つのキーワードだったんです。戒めとして言ってたというか。J-POPとして楽しんでくださっているお客さんを、別に裏切りたいという悪意なんかももちろんなかったですし。

──だとするならば、「J-POP」という言葉が廃れ、その実態が変わったのだとしても、それについて何か郷愁のようなものを覚えることはないということですね。

なんにもないです。「ふーん」という感じ。あ、「カラオケで気持ちよく歌っていただける歌」以外の音楽が、リスナーに受け入れられていっている状況は、喜ばしく思っていますよ。

──今回の東京事変のアルバムをそのものズバリ「音楽」と名付けた、その理由を最後に教えてください。

深い考えはないです。すべては自ずと決まっていくものだと思っています。今回のタイミングは満場一致で「音楽」でした。でも、もしかしたらここまでずっと取っておいたのかもしれません。アダルト、バラエティ、スポーツチャンネルなどに取り組む前にミュージックチャンネルに着手していたら、そこで活動が終わっていたのではないかという気もします。

──確かに、「音楽」と名付けてしまったら、いよいよ次がないような気もしてしまいます。

チャンネルシリーズを終わりにするしかないかもしれませんね(笑)。

──あるいは、「政見放送」とか?

そっか。今こそそれか(笑)。