竹内まりや|キャリア42年で初めて映像作品リリースに至った理由

竹内まりや初の映像作品「souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~(Special Edition)」が11月18日にリリースされた。

「souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~」は2000年に開催された18年ぶりのライブ「souvenir」と、2010年の「souvenir again」、2014年の「souvenir2014」のベストシーンを収めた映像作品。2018年11月に劇場公開され、14万人を動員、興行収入も3億円を突破するなど、音楽映画としては記録的なヒットとなった。パッケージ版には劇場上映された映像に加え、これまでに制作されたミュージックビデオを収録。夫でありプロデューサーでもある山下達郎とのスペシャル対談を掲載したブックレットも付属し、ファン垂涎の内容となっている。

音楽ナタリーでは本作のリリースを控えた竹内にインタビュー。キャリア42年にして初の映像作品のリリースに至った経緯や、“親友”だという山下達郎との関係、時代や国境を超えて再ヒットしている楽曲「プラスティック・ラブ」のことなどたっぷりと話を聞いた。

取材 / 臼杵成晃 文 / 清本千尋

11年ぶりのテレビ出演と「紅白」初出場

──このたびリリースされる「souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~」は、2018年に劇場公開されたライブドキュメンタリー映画とこれまでに発表されてきたミュージックビデオを収録した作品です。2018年11月にデビュー40周年を迎えてからは、先述のドキュメンタリー映画の公開はもちろん、NHKの特番「竹内まりや Music&Life」や「NHK紅白歌合戦」に出演するなど、何かの蓋が開いたかのように活動が活発化していますよね。

竹内まりや

「souvenir the movie」は40周年に向けて作った作品ですが、その後の展開は自分から積極的に広げてみようと思ったわけではないんです。紅白への出演については、NHKのスタッフの方々から熱意ある長いお手紙をいただいたのがきっかけで。

──どんな内容だったんでしょうか?

お手紙は「Music&Life」を一緒に作ったスタッフさんからいただいたんですけれど、その番組内で歌った「いのちの歌」がいろんな場所で広まり始めていたこともあり、この歌をどうしても全国に届けたいという熱い思いがつづられていました。「Music&Life」ではスウェーデンでロケをしたこともあって、番組のスタッフさんと過ごす時間が長かったんですが、皆さん本当に誠実な方たちばかりで。テレビメディアとは一線を画してきた達郎とは違って、私はもともとテレビに出て歌っていた人間なので、絶対的に無理ということもありませんでしたし、彼らからこれほどの熱意をいただいたのであれば、その要望に応えたかった。それに2019年末に紅白に出るというのはよい40周年の締めくくりにもなるのかなと思えたんです。親孝行という意味でも。

──なるほど。紅白では「いのちの歌」にまつわるエピソードや写真を募集する企画も行われました。

番組に届いた「いのちの歌」にまつわる皆さんの人生のストーリーには感動しました。皆さんそれぞれのこの曲への思いを踏まえたうえで紅白で歌うのはどうか、という提案をいただだき、それならばと受けたところもありました。たまたまそんな流れが去年は重なって、すごく活発に活動しているように見えたのかなと思うんですけれど、だからといって自分の活動に対するスタンスが大きく変わったわけではないんです。昔からテレビに出ていなかった人間であれば、きっと一連のテレビ出演もしていないと思います。ただそれを長い間選ばないできた、という感じですね。

あのシアターライブはソフト化するべき

──そんな中、今回リリースされる「souvenir the movie」は、40年以上のキャリアがあるまりやさんが初めて発表する映像作品になります。

もともと、この「souvenir the movie」を作ろうと思ったのは、達郎のシアターライブ(2012年に劇場公開された「山下達郎 シアター・ライヴ PERFORMANCE 1984-2012」)がとてもよかったからなんです。もちろん生のライブとは違うけれど、これまで達郎のコンサートを観たことがない人が1984年から2012年までの彼のライブ活動をスクリーンで一気に観られるのはすごく意義があると思ったんですね。だとすれば、私はライブをあまりやってこなかった人間だからこそ、彼のシアターライブに近い形でライブ映像を映画化することにも意味があるのではないかと。それで、2000年、2010年、2014年のライブで撮影された映像を40周年に合わせて公開しようという運びになったんです。ありがたいことに「souvenir the movie」の劇場上映が好評で、上映期間を延長したりもしたんですけど、「自分の街には映画館がなくて観られなかった」「達郎さんがライブ映像をパッケージで出さないことはわかっているけれど、まりやさんのほうはせめて出してもらえませんか?」という声が「サンソン」(JFN系列で放送されているラジオ番組「山下達郎のサンデー・ソングブック」)にたくさん届いて。とは言え、私のバックバンドには達郎がいるし歌も歌っているので、ソフト化するには達郎の許可がないといけないなと思って本人に聞いたんですよ。そしたら「自分はメインではなくバックバンドなんだからいいよ」と。コロナ禍でライブも開催できないし、ファンの皆さんはきっと家でNetflixを観たりしているわけでしょう。だったら「souvenir the movie」が家で観られたらいいんじゃないかと、コロナによる自粛がパッケージ化を後押ししてくれた部分も大いにあります。

──そうだったんですね。

達郎がずいぶん映っているのでそれを彼がよしとするかどうかが心配だったんです。私個人としては、結婚後は3回しかライブをしていないので、その数少ないステージを記録として皆さんのお手元にお届けできるということに意義があると感じたわけです。結果的に、このタイミングでリリースできてよかったなと思っています。

──ちなみに2000年にライブをやったときはパッケージ化の話は挙がらなかったんでしょうか?

まったくなかったですね。私たちは90年代終わり頃までミュージックビデオですら作ろうとしていなかったんですから(笑)。時代の趨勢で徐々にMVは作るようになったんですけど、当時はライブ映像をソフト化するという発想はなかったです。ただ、ライブをやるときは毎回記録用に何台かのカメラで撮影しているんですよ。達郎もすべてのツアーを記録用に撮影します。

──自分たちでパフォーマンスをチェックするために?

そうです。どんなふうに歌が届いているのか、どう伴奏が聴こえているのか、メンバーの配置はどうなのか、そういうことをチェックするために。音だけでなく映像でも確認できるようにカメラは回しています。まあ、私はともかくとしても、達郎のあのシアターライブは絶対にソフト化するべきだとずっと言ってるんですよ。「みんながどれだけ待ってると思ってるの?」って(笑)。

──それはぜひ説得してください。

それがね、「俺がいなくなってから出せばいい」って言うんです。いなくなってから出すのと今出すのとになんの違いがあるんだと思ってるんですけどね。「souvenir the movie」のブックレットの対談でもそれは強く言っていて。達郎のライブはなかなかチケットが取れなくて生のステージを観たことがないファンも多い。だったらせめてお茶の間で観られる機会を作ろうよって。でもね、達郎はそれじゃライブを観たことにならないって言うんです。なぜかと言うと、巻き戻したり、ビールを取りに行ったり、トイレに行ったりで中断したりするじゃないかって。自分もそうやって人のライブ映像を観てるのに(笑)。

──(笑)。でもまりやさんが達郎さんにかけ合ってくれて、無事「souvenir the movie」がリリースされることになって本当によかったです。

ありがとうございます。この日しか出なかったと本人も言っている「プラスティック・ラブ」の達郎のロングトーンをね、せっかく記録していたんだからその場にいなかった人たちにも観せてあげようよって。彼がいかに私の歌を食ってるかというところも含めて(笑)。

7年ぶりのツアーは達郎の体が空いているタイミングで

──まりやさんご自身は映像作品を出すことにまったく抵抗はなかったんですか?

「souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~(Special Edition)」より。

そうですね、映画を作った時点でそこは覚悟していますよね。映像作品を出すことにもし抵抗があったらMVも作ってないと思います。それにファンの目線で考えたときに、すごく好きなアーティストのライブ映像があったら観たいのは当たり前ですよね。私は、例えば昔のThe Beatlesのライブ映像がブートレグで出てたら買ってでも観たいと思うタイプなので。そういう意味で映像作品を出さないのはファンに対してあまり親切じゃないなという思いもあるんです。今回は2010年、2014年の映像もまとめて1つのコンサートみたいな形で観てもらえたらいいなと考えてこういう構成になりました。私たちがいつもレコーディングで使ってるスタジオを紹介するのもめったにない機会なので、ライブ映像の合間に入れ込もうとか、そういうアイデアは私から出して。

──オフの映像も観られるのはご褒美のようでした。まりやさんがレコードショップでレコードを掘る姿なんてなかなか見られるものではないので。

あれはね、ちょうどスチール写真を撮りにロサンゼルスに行った際にムービーも回していて。そういう映像を休憩みたいな感じで挟むことによって映画としての起承転結ができるんじゃないかと、スタッフと相談しながら構成を決めていきました。

──でも、まりやさんがそれだけファン心理がわかってらっしゃって、ファンに親切であるべきだって思ってらっしゃるならば、この40年間にもっとライブをやったりテレビに出たりしてくださってもよかったのでは?とも思うのですが。

いや、それは物理的にも精神的にも無理でしたね。私は山下達郎の音楽のファンなので、彼の活動を阻止してまで自分の活動を優先するのは違うなと思っていて。というのも、私はもう彼がバンマスで、彼のバンドでないと歌うことができないんですよ。だから私がツアーをやるとなったら、彼の肉体的な余力を奪ってしまう。だったら数年に1枚アルバムを作ることだけ死守できればいい、それだけで十分だという思いが常にあったんですよね。達郎もバンドのメンバーチェンジやレコーディングテクノロジーの変化とかいろんな事情を抱えた中、長くライブ活動を休んでいた時期もあって、ようやく2008年からコンスタントにやれるようになったので。

──なるほど。ではまりやさんの今後のライブ予定もまだ……?

いえ、7年ぶりにやることになりました。コロナの状況にもよりますが2021年の春にやる予定です。達郎の体が空いているタイミングで。

──いろんな折り合いがあってこのライブ本数だったんですね。よくわかりました。

そうですね。2000年にやっとステージに立てたのも、子供が高校生になったからなんです。本来アーティストとして続けていくにはあまりにスローなペースでの活動だと思うんですけど、それが私にはちょうどよかったし、達郎のキャリアを確保したうえで続けられる方法がこんな感じだったんですよね。

──映像作品としてパッケージされたご自身のライブを観てどういう感想を抱きましたか?

そのときの緊張感やお客さんに対する感謝の気持ち、歌った曲ごとの心情は鮮明にフラッシュバックしますね。2000年のライブは青ちゃん(2013年に亡くなったドラマーの青山純)が叩いてくれていることも含めて、ある種の感慨を持って観ました。青ちゃんの前に達郎が立ってギターを弾くオープニングに「この2ショットはもう二度と観られないんだ」と思ったり。でも、自分が緊張して心細い感じが伝わって当時を思い出してしまうので、あまり落ち着いては観れない感じ。だからこそ達郎が「プラスティック・ラブ」の後半で思いっきり歌ってくれる場面は安心します。