さとう。ミニアルバム「とあるアイを綴って、」でバンドサウンドと向き合う

2000年生まれ、静岡県伊豆出身のシンガーソングライター・さとう。のミニアルバム「とあるアイを綴って、」がリリースされた。

さとう。は2018年、AbemaTV(現・ABEMA)「バラエティ開拓バラエティ 日村がゆく」の企画「高校生フォークソングGP」への出演をきっかけに本格的に音楽活動を始め、昨年1月に弾き語り楽曲「3%」をリリース。スマートフォンのバッテリーが3%しか残されていないにもかかわらず、好きな人の声を聞こうとする曲の主人公に共感する若者が続出し、SNSを中心にバズが起こった。

音楽ナタリーでは、さとう。に初インタビュー。弾き語りだけではなく、多彩なサウンドに挑戦した「とあるアイを綴って、」の制作秘話はもちろん、さとう。を形作ったルーツ、シンガーソングライターを目指したきっかけについてじっくり語ってもらった。

取材・文 / 西廣智一

キュイーンって音が鳴るギターが欲しかったけど

──さとう。さんは小さい頃から歌うことが好きだったんですか?

物心付いたときから将来の夢を聞かれると「歌手とかミュージシャン」と答えるぐらい、ずっと歌うことが好きだったんです。人に聴いてもらうのも好きだったので、気付いたら「将来は音楽でごはんを食べていけるような人になりたい」と漠然と考えるようになっていました。

──当時から人前でよく歌っていたんですか?

小学校の音楽の先生がアクティブな方で、1年に2回ぐらい文化祭とはまた別で、みんなの前で歌を披露する場を作ってくれていたので、そこに毎回出ていました。あとは、地元のお祭りで友達と一緒に歌ったり。地域のおじさんとか友達が「よかったよ」と歌を褒めてくれてうれしかったですし、何より人前で何かすることに対する“恥ずかしい”という壁をひとつ飛び越えられた気がします。

──原体験として強く記憶に残っている歌やアーティストは?

両親は誰か特定のアーティストさんを応援するというよりも、そのときに流行っている曲を聴いたり、TSUTAYAで気になったアルバムを借りてきたりすることが多くて。なので、小さい頃はそういう存在はなかったんですけど、自分が中学生になったくらいのときに邦ロックにハマって、そこからはONE OK ROCKさんやRADWIMPSさん、サカナクションさんを中心に聴くようになりました。

──その頃、ギターにも興味を持つようになり、中学1年のクリスマスプレゼントにエレキギターをおねだりしたそうですね。

そうなんですよ。ONE OK ROCKさんとかRADWIMPSさんを見ていると、みんなキュイーンって音が鳴る赤や白のエレキギターを持っていて。それで母に明確なイメージを伝えずに、ただ「ギターが欲しい」っておねだりしたらアコースティックギターだったという(笑)。母の中ではギター=アコギってイメージだったんですよね。で、「これじゃない!」って思いながらも口にすることはできず、「ありがとう」と言ってそのまま使い始めたことで今に至ります。

──なるほど(笑)。

そのとき、母がギターのコードブックと4つのコードで簡単に弾ける教本を一緒にプレゼントしてくれたので、それを見よう見まねで練習していたら自然と弾けるようになりました。

──もしそこでエレキギターを手にしていたら、また違った道に進んでいたかもしれませんね。

今頃バンドの道に進んでいたかもしれませんね。でも、今こうしてシンガーソングライターさとう。を応援してくれる人がたくさんいることを考えると、あのときアコギを受け入れてよかったなと素直に思います。

何があっても音楽は手放さない

──オリジナル曲を作るようになったのはいつ頃ですか?

中学2年生のときにツイキャスで弾き語りを始めたんですけど、その頃にワンコーラスだけできたオリジナル曲を披露したりしていました。その後、高校3年生でYouTubeを始めて、最初はカバー曲をアップしていたんですけど、せっかくだったらワンコーラスだけあるオリジナル曲もアップしたいと思うようになって、ちゃんと形にするようになったんです。その頃、AbemaTV(現・ABEMA)の「日村がゆく」(「バラエティ開拓バラエティ 日村がゆく」)で「高校生フォークソングGP」という企画をやっていて、そこに出させていただく機会を得て。失恋したことがきっかけで生まれた「幸せ」というオリジナル曲をそこで披露して、たくさんの方に共感してらえたんですね。YouTubeでも公開したら、たくさんコメントをいただきました。そのときに初めて「自分のオリジナル曲が、自分の知らない人に届いた」と実感が得られて、だったらもっとたくさんの人に自分の歌を届けたいと思って、頻繁にオリジナル曲を公開するようになったんです。

──作詞や作曲も独学なんですよね?

高校生までは完全に独学です。2019年春に上京してから音楽の専門学校に2年間通っていたんですけど、そのときの先生は生徒1人ひとりに寄り添ってくれて。「絶対に作詞はこうあるべきだ」という指導の仕方ではなかったので、自分自身の詞や曲とじっくり向き合いながら学ぶことができました。

──その専門学校時代ですが、在籍中の2020年にコロナ禍に突入してしまいます。当時はどんな気持ちで過ごしていましたか?

自分が東京に来てライブハウスに出始めたのが2019年11月で、そうこうしているうちにコロナ禍に入ってしまったんです。2020年4月に決まっていたライブもできなくなって、学校の始業式も先延ばしになった。そういう状態だったので、母からも「しばらく(地元の)伊豆に帰ってくれば?」と言われたんですけど、自分の中では音楽で何も結果を残せていないまま故郷に帰ることに対して、なんとなく劣等感を覚えてしまって。結局帰省せず、東京の一人暮らしの部屋で一応ギターを触ってみても何か曲が浮かぶわけでもなく、悶々としながらただ日々が過ぎていくだけでした。もちろん私だけじゃなくて、ほかのアーティストさんも戦っていた時期だとは思うんですけど、それでも私は「このままライブにも出られなくて、誰とも出会えないまま、誰にもさとう。の声を聴いてもらえないまま終わっちゃうんじゃないか」と本気で思いましたね。私はそれまで挫折というものを経験したことがなかったので、あの時期は初めてズシンと気持ちが沈みました。

──それでもここまで音楽を続けてこられた、モチベーションになっていたものってなんだったんでしょう?

失恋を機に書いた「幸せ」をたくさんの方に聴いてもらえたという経験を一度していたから、音楽を手放すっていう選択が自分の中にはなかったです。だから……漠然としたものですけど、どれだけ沈みきっていてもこの経験もいずれ歌にできる日が来ると信じていたからかな。昨年8月に出した1stアルバム「産声みたいで、」の中に「楽屋」という曲があるんですけど、あれはまさにその頃の自分のことを書いたもので。リアルタイムでは歌にできなかったんですけど、やっと形にしたことで今の自分の自信にもつながっています。

──つらい時期も、過ぎてしまえば思い出に変わるし、そんな経験も全部歌にすることができる。さとう。さんは生粋の表現者なんですね。

いやいや。でも、そういう生き方ができるようになれたのは、本当にコロナ禍の経験がすごく大きかったと思います。

日常に佐藤があふれているからこそ

──ところで、さとう。というアーティスト名はどういう経緯で使うようになったんですか?

佐藤って日本で一番多い苗字で、私の本名でもあるんですけど、佐藤◯◯という名前のアーティストさんはたくさんいるものの、佐藤だけを名乗って活動している方はたぶんいらっしゃらない。もちろん、街中にもあふれている苗字だし、佐藤不動産とか株式会社佐藤◯◯みたいな看板もたくさん目にしますよね(笑)。そうやって、日常で佐藤が付くものを目にした瞬間に、「そういえば、さとう。ってアーティストがいたな」と思い出してもらえたらうれしいじゃないですか。

──これだけ日常に佐藤があふれていれば、必然的に思い出すきっかけが増えますし。

あふれているからこそ絶対に忘れない名前だし、だったら、さとう。と名乗るのが一番いいんじゃないかと思い、これで活動することにしました。

「線路沿い1Kを飛び出して」最終公演より。(撮影:スエヨシリョウタ)

「線路沿い1Kを飛び出して」最終公演より。(撮影:スエヨシリョウタ)

──コロナ禍が落ち着く頃には、さとう。さんの音楽活動がより本格化します。2023年7月に行われた初のワンマンライブがソールドアウトし、翌2024年1月からは7カ月連続でシングルを配信リリースしました。ご自身の歌やメッセージがどんどんリスナーのもとに届いていることを実感する機会も増えていったのかなと思います。

そうですね。7カ月連続リリースが始まる前は「さとう。の中にある、内なる言葉をただ自分のために歌って、それを誰かに聴いてもらえたらいいな」ぐらいの気持ちでやっていたんですけど、リリースを重ねていく中で徐々にさとう。に出会ってくれる人が増えていきました。自分のために書いた曲が誰かに寄り添ったり、誰かのそばに置いてもらえているんだっていう感覚がひしひしと伝わってきて、以降は聴いてくれる人のことを思い浮かべながら作詞するように、ちょっと意識も変わりましたね。

──その過程で、「3%」という楽曲がSNSを中心にバズるという経験もします(参照:さとう。「3%」 | スマホ充電3%でも声が聞きたい─リアルに描く“どこかの誰かのノンフィクション”)。

「3%」自体は4年前に作った曲なんですよ。応援歌でもないですし、そんなに明るい曲でもない素朴な弾き語りなのに、急にTikTokでいろんな人に聴いてもらえたり、ミュージックビデオを公開したらたくさん観てもらえたりしました。自分自身はもちろんですけど、4年前からこの曲を知っていたファンの人たちもそうですし、ずっと応援してくれていた家族や友人も喜ばせることができたのは、自分の中ですごく大きかったです。

──歌詞の中の言葉は決して難しいものではなく、20歳前後のリアルさが伝わる作風だと思いました。だからこそ聴いたときにその光景がイメージしやすいというか、絵が浮かびやすい歌詞なんですよ。

ありがとうございます。自分は作詞をするとき、なるべく辞書を引かないようにしているんです。やっぱり、カッコいい言葉とか素敵な言葉って辞書にも世の中にもたくさんあふれていますけど、例えば空の色でも悲しい気持ちでも自分にしか伝えられない表現って絶対にあると思う。そういう意味でも、辞書に頼らず作詞するように意識しています。