多くのミリオンヒットナンバーが誕生し、J-POPが大きな発展を遂げた1990年代。日本ではメジャー、インディーズ問わず多種多様なアーティストが革新的な楽曲を生み出し、刺激を受け合いながらさまざまなムーブメントを起こしてきた。その大きな潮流の1つである“渋谷系”は、世界でも有数のレコード店の多い街・渋谷を起点に発生したムーブメント。古今東西のカルチャーに造詣の深い洗練されたアーティストたちが生み出した作品が、渋谷センター街のド真ん中にあったHMV渋谷の名物バイヤー・太田浩氏の目利きにより店内の一角に集中して陳列され、そのディスプレイから漂うある種のムードは日本中、さらには世界中へと拡散し、やがて“渋谷系”と呼ばれるようになった。その“渋谷系”ムーブメントの中心的存在と言えるのが、ピチカート・ファイヴだ。
1984年に活動をスタートさせたピチカート・ファイヴは、メンバーの脱退や2度のボーカル交代を経て、1990年に小西康陽、高浪慶太郎、そして3代目ボーカリスト・野宮真貴による3人組のバンドとなった。それ以前から独自のポップセンスで高評価を集めていた彼らだが、野宮というミューズを迎えたことで、職人気質のソングライター、小西と高浪はさらに覚醒する。また小西が持つアートワークへの強いこだわりも、どんなファッションも着こなす野宮のビジュアルで巧みに具現化され、ピチカート・ファイヴのジャケットは“渋谷系”を象徴するビジュアルとなった。
21世紀へと変わった2001年元日、アルバム「さ・え・ら ジャポン」をリリースしたあと、小西はピチカート・ファイヴ解散を決意。同年3月31日のライブ、通称「ピチカート・ファイヴのお葬式」をもってその歴史に終止符を打った。このたびリリースされる7inchアナログ16枚組ボックス「THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001」は、野宮在籍時に発表された1991~2001年の楽曲から小西が「自分がDJでかけたい曲」を基準にセレクトした36曲を収めたコレクターズアイテム。収録音源には小西自らによるリエディットが施されている。音楽ナタリーでは小西へのインタビューを行い、1つの時代を作った“20世紀のバンド”ピチカート・ファイヴについて語ってもらった。
取材・文 / 臼杵成晃 撮影 / 吉場正和
20世紀のバンド
──今回は1991年から2001年までのピチカート・ファイヴを凝縮したボックスですけど……1991年というと今から29年前で、あの頃1960年代の音楽について話していたのと同じような時間間隔なんですよね。
そうなんですよ。最近よくそういうことを考えるんですけど、僕がいわゆる今で言うソフトロックのような音楽を知って、夢中で探し始めたのがたぶん1974年か75年。10年ほど前の音楽だったけど、なかなか手に入らなかったんですよ。比べて30年というとずいぶん経っている気がするけれど、その一方で、ピチカート・ファイヴを知っている人にとっては、きっとまだ全然地続きのような感覚もあると思うんです。
──小西さんご自身としては、ピチカート・ファイヴを遠い昔の出来事のように感じているのか、それとも地続きなものとして感じているのでしょうか。
そうだなあ……なぜかわからないけど、1997年よりあとの曲は地続きで、96年より前の曲はオールディーズという感じがずっとあった。でも今はあまり関係なくなっちゃったな。
──作品タイトルでは「ピチカート・ファイヴは20世紀のバンドである」と表明していますよね。小西さんが近年ピチカートの話題を挙げるときのテーマのようなフレーズだと思いますが。
ええ、そうですね。
──今回の作品に収められる90年代のピチカートは特に象徴的ですが、90年代は音楽が音楽だけじゃなく、映画や小説、デザインなど、古今東西さまざまなカルチャーと複合的に結びついて盛り上がっていたと思うんです。あの感覚を、今現在ユースカルチャーの渦中にいる若い人にニュアンス込みで伝えるのは非常に難しいなと感じていて。
うん。たぶん今の人にはこのバンドの在り方はよくわからないんじゃないかな、という気持ちはある。でも、例えば小室哲哉さんとか、浜崎あゆみさんとか、そういう方の音楽にも同じような開きがあると思うんですよ。昔のある時代の音楽、というか。歌謡っぽさ……そう、今回改めてリエディットしてみて感じたのは、ピチカート・ファイヴというか僕の音楽が、いかに歌謡曲の延長にあるかということなんですね。筒美京平さんのような音楽が作りたいと思っている自分が、一方で90年代のクラブカルチャーに刺激を受けてアレンジを施した音楽がピチカート・ファイヴだった。その構造を、作っている時分は気付かなかったんだけれど、横で一緒に作業している福富幸宏さん(自身もアーティストとして活動しながら、ピチカート・ファイヴの作品にマニピュレーターとして携わっていた。今作でも小西と共にリエディットを手がけている)はそう感じていたんだって。
3つのピチカート・ファイヴがようやく1つに
──ピチカート・ファイヴのファンとしては、作品を通して1991年から1年刻みで当時のムードを思い出せるほど、時代との結びつきが強い音楽だと感じるんですよ。音楽シーンの変遷から機材の進化まで、年々更新されていた10年だったという印象があって。このときはこんな音楽があって、ピチカートはこんな音楽をやっていたと。
うんうん、まさしく。
──リエディット作業を通して、当時のマスター音源と向き合うことで、改めて「ピチカート・ファイヴはこうだったんだな」と感じたこと、あるいは逆に当時とまったく違う感じ方をしたところなどはありますか?
3年ほど前にソニーでも初期の作品を再発する機会があったし、一昨年は「レコードの日」にそれよりも前のテイチク時代の作品をレコードで出させてもらったんですけど……それぞれの時代で、同じ名前を使っているのに3つの違うバンドのような感覚があったのが、今回ようやく自分の中で整合性がとれたというか。僕の音楽って全然変わってないんだなって気が付いた。もう1つの大きな発見は、やっぱり野宮真貴さんのボーカルの素晴らしさですね。この人のボーカルに本当に惚れ込んだ時期があったということを思い出したし、それをずっと忘れてたというのもあるし。
──別々のバンドのように感じていた3つの時代のピチカート・ファイヴがようやくつながったというその感覚について、具体的に言葉にすることは可能ですか?
自分の好みの音楽や手クセって、全然変わんないんだなって。「女性上位時代」(1991年9月に発売された、野宮真貴加入後初のフルアルバム)を出す前に、「最新型のピチカート・ファイヴ」「超高速のピチカート・ファイヴ」「レディメイドのピチカート・ファイヴ」(1991年6~8月に3カ月連続で発売された)という3枚のミニアルバムを出したんです。今回の作品にはどれも入っていないけど、最近、あの頃の曲もけっこういいなと思っていて。あの時期はまだ野宮さんにぴったり合う曲を手探り状態で探していて……今聴いてみると、僕がNegiccoとかアイドルに書いた曲とそんなに変わんないんです。僕が初対面で様子見で出す曲って、ずーっと変わってないんだなって(笑)。
──あははは(笑)、なるほど。やはり野宮さんの加入が小西さんの創作に与えた刺激は大きかった?
極端な話、野宮さんがアーティスト写真の中央にいれば何をやっても大丈夫だろうという気持ちがありました。それをわかってくれたのが信藤三雄さん(ピチカート・ファイヴ初期からアートワークを手がけるデザイナー。Mr.Childrenや松任谷由実ほか多数のアーティストの作品で斬新なアイデアのデザインを施している)だった。たぶんその時点では野宮さんも高浪(慶太郎。1994年まで在籍)さんもそこまでは思ってなかったみたいだけど、信藤さんはその感じをすごく理解してくれたんです。
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