西片梨帆|誰とどんなふうに生きてきた?私の人生を映し出すメジャーデビュー作

シンガーソングライターの西片梨帆が、9月23日に日本コロムビア内のレーベル・BETTER DAYSからメジャーデビュー作「彼女がいなければ孤独だった」をリリースした。

梨帆名義で2015年に音楽活動を開始し、オーディション企画「出れんの!?サマソニ!?」を経て「SUMMER SONIC 2015」への出場を果たした西片。その後2017年に発表された1stミニアルバム「行けたら行くね」の収録曲「元カノの成分」は、そのリアルで赤裸々な歌詞が彼女と同世代のリスナーの間で話題となった。メジャー1作目となる本作には、「元カノの成分」「黒いエレキ」といったインディーズ時代の楽曲に新たなアレンジを施した音源と新曲の計6曲を収録。うち5曲にアレンジャーとしてゴンドウトモヒコが参加している。

音楽ナタリー初登場となる今回は、特集前半で西片にこれまでの歩みとメジャーデビュー作に込めた思いをインタビュー。音楽活動の傍らZINE制作や執筆活動などを行ってきた彼女にとって、音楽と表現とはどのような存在なのかを語ってもらった。後半は、西片のアイデンティティに影響を与えた6冊の本を本人のコメントと共に紹介する。

取材・文 / 秦理絵 写真 / 松永つぐみ

私のための言葉でもある

──今回のアルバムは、まず「彼女がいなければ孤独だった」というタイトルが印象的でした。ファンの方にもらった手紙に書かれた言葉から付けたそうですね。

はい。インディーズ時代、私はZINEを作ったり、本屋さんで企画ライブをしたり、ちょっと変わった活動をしていて。そのライブが終わったあとに、時間の許す限りファンの人と会う機会を作るようにしていたんです。そのときにもらった手紙の1文に、「西片さんがいなければ、私は本当に孤独でした」という言葉があって。

──梨帆さんの音楽に救われたファンの方の言葉だったんですね。

はい。その言葉が自分の中に強烈に残っていて、今回作品を出すことになったときにパッと浮かんだんです。日本コロムビアからのメジャーデビュー作ではあるけれど、レーベルに入っても私のスタイルは変わらないし、変えるつもりもない。私は17歳のときから歌っているので、私にとってはそのときがデビューだったというか。それを象徴するために、このタイトルにしたんです。これはファンの人がくれた言葉だけど、私のための言葉でもあって。お互いが共生しているというか。あと今回のレコーディングから新しい方々と一緒にやることになって、作品の制作中に今までとは違う緊張感があったんです。それで友達に相談したくても、コロナ禍で直接会えなかったりして。内側に籠もって制作をしてたので、このタイトルにはずっと救われてたんです。

──1人じゃないと思えたんですね。

はい。最初は純粋にもらった言葉が印象的でうれしかったんですけど、制作中により自分の中で大事なものになっていきましたね。

──17歳で歌い始めたということですが、その頃からメジャーデビューを目標にしていたんですか?

そこまで明確な目標ではなかったと思います。でも歌手としての成功という意味ではわかりやすいから、親戚からの圧力は感じていたんですけど(笑)。

西片梨帆

──なるほど(笑)。

もともと私は高校生のときにギターで歌い始めたんですが、高3のときに初めて作った曲で、2015年の「出れんの!?サマソニ!?」というオーディションのステージに立ったんですね。そのときは「このままうまくいくかな?」と思ってたけど、それ以降本当に何もなかったんですよ。同じタイミングで歌い始めた友達が活躍していくのを、下のほうで見て焦ってましたね。でも今思うと、当時の私には切実さというか、「これしかないんだ」みたいなものが足りなかったんだと思います。それなのに周りの人たちを意識しすぎて、歌うのが嫌になってしまって。ステージに立つと声が出なくなっちゃったんです。自分は才能がないと卑下してたし、大学1、2年の頃は生きること自体も投げやりになってました。今回のアルバムの曲だと、「嫉妬しろよ」を書いた時期ですね。

──そこから立ち直っていくきっかけはなんだったんですか?

大学2年生のときに、友達が「夜間のデザイン学校に通う」と言い出したんですよ。で、私も一緒に通うようになって。

──ダブルスクールですよね。大変だったでしょう?

本当に忙しかったです。でも、すごく楽しくて。音楽では周りの人たちばかり気にしてたんですけど、デザインを勉強するうちに「あ、最初に音楽を始めたときは、こんな感覚だったな」と初心に帰れたんです。正直、そのときはもう音楽を諦めてた部分もあって。大学の経営学部だったのもあり、一時期は広告代理店のコピーライターを目指してたんですよ。

──就職活動もしたんですか?

少しですけどね。でも就活中に、自分はクライアントや誰かのためにコンセプトを考えるのが苦手だなと気付いて、もう一度音楽と向き合ってみることにしたんです。デザイン学校に通ったことで、映像やZINEを自分で作れるようになって表現を多角的に考えられるようにもなったし、とりあえず周りを気にせず、自分がワクワクすること、ドキドキすることをやってみることにして。その時期はメジャーデビューとかはまったく考えずに活動してましたね。

ピュアな創作をしていたい

──コピーライターを目指していたと聞いて、なるほどなと思いました。梨帆さんはご自分の歌の中でも歌詞を大切にされていますよね。

はい。

──言葉への興味は、昔から強いほうだったんですか?

もともと本は好きでしたね。高校生ぐらいまでは図書館に行くのが好きで。本の装丁を見るのが好きだったので、そのときは漠然と装丁家になりたいなと思ってて。だから特定の作者を追うというよりは、装丁を見て、その場でディグっていくみたいなことをやっていたんです。

──ジャケ買いみたいな感覚?

そうですね。そうやって言葉や物語への興味が強くなったから、私の音楽は言葉と密接に関わっているんだと思います。アーティストでも石崎ひゅーいさんや大森靖子さんのような、いろいろな方向から言葉が飛んでくるというか、同じ方向に矢が向かない表現をする人が好きではありますね。

──ほかに言葉の点で、梨帆さんに大きな影響を与えた人というと?

小学生のときから「ストロベリーショートケイクス」という映画の脚本を書かれた狗飼恭子さんの作品をずっと読んでいました。「オレンジが歯にしみたから」とか「冷蔵庫を壊す」とか、作品のタイトルが衝撃的で。あとは、綿矢りささん、岡崎京子さんとか。

──自分が好きな言葉の紡ぎ手たちに共通するものはなんだと思いますか?

共通するかはわからないですけど、ガールクラッシュというか。女の子が強く生きていく様子や、男の子を負かすぐらいの勢いでたくましいけど、そこには弱さや儚さがあるという部分が繊細に描かれた物語が好きなんだと思います。岡崎京子さんの「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」という作品に「私はいつもひとりの女の子の落ち方を考えてる」という一節があって。たぶん岡崎さんは“女の子”を表現することが好きだと思うんですよ。

──ええ。

そういうものに影響を受けてたので、中学生のときは、クラスですごくかわいいと言われてる女の子を観察したりしてました(笑)。綿矢りささんの「勝手にふるえてろ」という小説の中で、主人公が相手に気付かれないように、クラスメイトを見る“視野見”というのをするんですよ。この人はこう動いてるなとか、この人と会話してるなとか、こういうものが好きなんだとか。私も中学生のときその主人公と同じことをしていたので、読みながら「わかる!」と共感しましたね。

──話を聞いていると、学校という集団に溶け込むよりも、クラスメイトのことを一歩引いた視点で見ていたように感じますね。

そうだと思います。通っていた中学校がエリートの集まる学校で、頭のよさでヒエラルキーができていた雰囲気があったんですよ。自分は学力が高いほうじゃなかったから浮いていたと思いますし、不器用だし、あんまりしゃべらないし、愛嬌もない。なんなら変人だと思われてたから、周りの子たちとの圧倒的な違いを感じてました。そういう劣等感はありましたね。

──そこから物語に没頭するようになって、やがては自分で歌を作り出していくまでになった?

そうですね。いつも組織の中でうまく機能できなくて……でも「音楽をやってる」と言うと、それなりに「変なやつだ」と思われるし、周りが尊敬してくれる気がしたんです。いつも「自分っていったいなんだろう」みたいなことを考えていたけど、音楽をやることで楽になれたというか。

西片梨帆

──大学時代にはその音楽のために精神的に追い詰められたわけですけど、ここまで梨帆さんが音楽を続けられた原動力はなんだったんでしょう?

ちょっと話が逸れちゃうかもしれないんですけど……今回のアルバムに「黒いエレキ」というリード曲があって。これは高校生ぐらいのときに初めてライブハウスに出るようになって書いた曲なんですが、ライブハウスに出てる人たちって、街にいたら全然ダメそうに見える人ばっかりだったんですよ(笑)。「何して働いてる人なんだろう?」みたいな。でもその人たちがステージに立つと、誰よりも美しくて。流行りとか社会性とか、こういう地位に就きたいとか、そういう邪念が一切なくて、ただ歌そのものが好きだから歌っているという、ピュアな創作だったんですよね。そうやって自分の信念を守っている姿を見て、めっちゃカッコいいなと思ったんですよ。

──それが音楽に惹かれた原点でもあるんですね。

そう。やっぱり自分はそういうピュアな創作をしていたいとデザイン学校に通ったことで思い出せたんです。今回、たまたま日本コロムビアさんと縁があってメジャーデビューしますけど、それがなかったとしても、自分はずっとそれを続けていただろうなと思います。

──浮き沈みのあったインディーズ時代を、今ご自身ではどんなふうに振り返りますか?

今思うと、「出れんの!?サマソニ!?」でうまくいかなくてよかったかもしれない。本当に音楽が嫌なときもあったけど、1回そういう時期がないと、今みたいに自分の核となる強いものが生まれてないだろうなと思うから。悔しかったり、つらい思いをしたこともいい経験でしたね。