心配した親から「あんたムッシュんとこ行ってきなさい」って言われて
──1973年の第1回、渋谷西武劇場でのNYRFの出演者は、内田裕也、キャロル、ファニー・カンパニー、ミッキー・カーチス、加藤和彦、かまやつひろし、クリエイション、ファー・アウト、ジャネット、頭脳警察、カルメン・マキ&OZ、近田春夫です。
KenKen ムッシュ(かまやつ)もいたんだ。
──かまやつさんは1973年は3作目のソロアルバム「釜田質店」をリリースして、75年には吉田拓郎が作詞作曲した「我が良き友よ」がオリコン1位の大ヒット。このシングルのカップリング曲「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」は1994年に再レコーディングされています。
Zeebra 当時Brand New Heaviesの曲をやったりしてたね。俺、1回ムッシュのライブにフィーチャリングで参加したことあるな。
KenKen 僕も晩年の5年間はずっと一緒にいたんですけど(KenKen、ムッシュかまやつ、山岸竜之介の3人でLIFE IS GROOVEとして活動)、ムッシュがいたザ・スパイダースって、グループサウンズ史上最初のバンドなんですよね。その人たちと直接会えるタイミングがまだある間に、当時のいろんなこと聞いとかないともったいない。ネットには絶対載ってない話ばっかりだから。例えば「堺さんは芸能のほうに行ったのにムッシュはなぜ行かなかったんですか?」って聞いたら「いや、僕にはあんま向いてないですよね」のひと言(笑)。
Zeebra 俺も18歳ぐらいの頃、素行が悪くて心配した親から「あんたちょっとムッシュんとこ行ってきなさい」って言われて、サシで話したことあるんだ。六本木のJ TRIP BARの向かいにムッシュが1部屋持ってて。中にオイルが入ったランプ(1960年代に流行した「ラバランプ」)が3個ぐらい並んでる中、「お前最近どうなんだ」って根掘り葉掘り聞かれたの。「いや、俺こんな感じでヒップホップやってて」と全部話したら、おふくろに「あいつ大丈夫だよ」って言ってくれて。それ以来おふくろから怒られなくなったから。ムッシュのおかげです。
KenKen 俺はムッシュのことを、未来から来た人だと思ってますから。NYRFに1回目から出てるのもそうだし。やっぱすごいよ、あの人。
HIRØ 裕也さんの「なんだ、お前ら。俺の話もっとしろよ」って声が聞こえてきそうだな(笑)。
KenKen 70年代はフォークとロックって戦争レベルで対立してたじゃないですか? ロックの代表が裕也さんで、フォークには吉田拓郎さんとかがいて。でも、後ろにいる人たちが勝手に揉めてるだけで、ムッシュとか裕也さんは関係なくどっちとも遊んでたんだよね。裕也さんは、うちの親父(ジョニー吉長。KenKenと金子ノブアキの父)が倒れたときも、身内にしか言ってないのに誰よりも先に病室に来てくれて。俺そのときたまたま1人で病室にいたんですけど、めちゃめちゃよくしてもらったから本当に感謝です。
──日本のヒップホップシーンを牽引してきたZeebraさんも、裕也さんにシンパシーを感じるんじゃないですか。
Zeebra それは感じます。俺も裕也さんからはいろんな話を聞かせてもらったし、すごくお手本にさせてもらってます。ああ、こうやってずっとやってきたんだなって。きっと高木完さんも同じことを感じてると思う。俺と完ちゃんでよく裕也さんの話をするんだけど、裕也さんのように1つのジャンルを引っ張っていくことについては、俺もいろんなことを感じます。
HIRØ ジョー山中さんも「おい、俺の話もしてくれよ」って言ってるだろうな(笑)。ジョーさんこそが本当にロック。フラワー・トラベリン・バンドで海外に仕掛けに行って、カナダでヒットチャート1位になって。そんなジョー山中がNYRFにいたことは、ものすごい説得力があった。
KenKen あの人たちが若かった頃は混血だと不当な扱いを受けることが多かったみたいで。それもあって、うちのジョニーとは20代からザ・カニバルスってバンドをやったり(解散後、ジョニー吉長はイエローを結成)、ずっと仲よくしていました。
HIRØ MOUNTAIN MANの原田喧太なんて10代の頃にNYRFでステージデビューしてますから。桑名正博さんとやったり、お父さんの原田芳雄さんとやったり。喧太はたぶん一番NYRFをわかってますよ。そして元・男闘呼組で今もバンドをやり続けてる高橋和也くんもMOUNTAIN MANのメンバー。高橋和也くんは去年、MISIA & Rockon Social Clubで「紅白歌合戦」のトリをやって、MOUNTAIN MAN でNYRFのトリをやるという面白いことをやってくれました。
KenKen 喧ちゃんも下北沢で、地元が一緒なんです。
HIRØ 毎年原田さんちでやる餅つきがまた修羅場でね(笑)。大物同士がケンカしたり。それを彼は子供のときからずっと見てるわけです。
KenKen ちなみに正月の原田家にかかる紅白幕は金子総本店(KenKenの実家である1926年創業の葬儀屋)が寄付したものです(笑)。
来年どう生きていこうかと悩んでいる人に、NYRFで愛を感じてもらいたい
──ちなみにNYRFに出演するまで皆さんは大晦日はどのように過ごしていましたか?
KenKen うちは実家が葬儀屋なので本当は年末年始は家にいなきゃいけないんですけど、親がライブしに行っちゃうんで、それについて行ってました。それこそNYRFとか。俺は年をまたぐ瞬間、パーティするしかない派ですから(笑)。絶対仕事しないっていうミュージシャンもけっこう多いですけどね。
HIRØ 僕は、親がハワイに住んでいたから、年越しは毎回ハワイで一緒に過ごしていたんです。ところが30年前、内田裕也に監禁されて、そこからずっと30年間……(笑)。
Zeebra うちらはクラブが年越しイベントを必ずやるから、ずっと何かやってました。あっち行ったり、こっち行ったり。カウントダウンのタイミングで違う会場に行っては、また戻ってくることも何度かあったし。
HIRØ でも、去年は直前に胃腸炎になっちゃったよね?
Zeebra そうなんだよ。つらかった。
HIRØ それでもがんばって渋谷の街を練り歩いて、告知のフライヤーを配ってくれて。
──出演メンバー全員による恒例の年越しセッションも楽しみです。
HIRØ 時代が変わっても、音楽は歌い継がれることで生きていくものだと思うんです。ここ何年かはPANTAさんが作った裕也さんの「コミック雑誌なんか要らない」をみんなで歌っているので、この先もずっと歌い継いでいけたらと思っています。この曲、歌詞がいいじゃないですか。「俺のまわりはピエロばかり」って。今まさに若者が巻き込まれているトクリュウ問題、Zeebraが取り組んでいるいじめ問題、歌舞伎町の立ちんぼ行為やホストによる売り掛け問題──この歌舞伎町の問題は瓜田純士くんのYouTubeチャンネルで知って、自分たちでも何かできないかと思い「歌舞伎町アンプラグド」っていうアクションをしたんですけど、純士はいまだに毎週末ちゃんと活動し続けている。本当に感心致します──そんないろいろな問題があるけれども、大事なのは愛することだと俺は思うんです。来年どうやって生きていこうかと悩んでいる人にはNYRFで俺たちの愛を感じてもらって、「よし、また1年がんばろう!」と思ってほしい。全力のロックで愛をバラまいて、次の1年のパワーを与えられる夜になるといいなと思っています。
KenKen ぜひライブの現場に来てほしい。俺はまだ、ライブハウスに行かないとミュージシャンに会えない時期をギリギリ経験できてるけど、俺よりちょっと下の世代からは、みんなYouTubeで観れちゃうんですよね。でも俺は本当にいろんなことをライブハウスで先輩から教わりました。全然金なかったのにずっとごはんを食べられてたのも、誰か先輩がおごってくれてたからだし。優しくされたら、同じことを自分もまた後輩にしてあげようと思うじゃないですか? そういう愛もわかるはずなので、動画でライブを観ることに慣れている人も現場に1回来てみればいいと思います。
Zeebra あとはまだ発表されていないアーティストがいるので、お楽しみにって感じですね。
HIRØ そういえば、今年の模様は来年3月にTOKYO MXで放送されることも決まりました。
KenKen 年明けの深夜にフジテレビで放送されてた頃、オープニングで自転車に乗ってる裕也さんの映像を観るのが大好きだったな。弔いじゃないですけど、ジョニー、マコちゃん(鮎川誠)、裕也さんたちがいなかったらRIZEはもちろん存在していないし、子供の頃から観てきた人たちなので、音楽を通じて少しでも恩返しできたらと思ってます。
HIRØ 最後に1つ。来年、伝説のカルチャー誌「BURST(バースト)」が1号だけ復活して、僕が編集長をやることになりました。それで先日、撮影を兼ねてブラジルに行ってきたんです。僕が編集長をやるからにはロックとアウトローに特化したものになると思うので、こちらもご期待ください。今年のNYRFに出演するメンバーも巻き込もうと画策しているので(笑)。