Ms.OOJAが短編映画「くもり ときどき 晴れ」の主題歌「くもり ときどき 晴れ」をLINE MUSICで先行配信リリースした。これを記念して音楽ナタリーでは、彼女と旧知の仲であるKURO(HOME MADE 家族)をインタビュアーに迎え、Ms.OOJAのインタビューを実施した。「逆Stories ~シンガーソングライターとしてのMs.OOJA~」をテーマに、KUROがMs.OOJAに切り込んだロングインタビューを楽しんでほしい。
取材・文 / KURO(HOME MADE 家族) 撮影 / joylous Tokyo(Tazz)
都内某所、ユニバーサルミュージックの新社屋でメジャーデビュー8周年を迎えたMs.OOJAに会った。濃紺のニットにアシンメトリーのプリーツスカート。足元からは紫革のショートブーツが覗き、異国情緒あふれるエキゾチックピアスがお決まりのショートヘアから下げられ、あの頃となんら変わらない笑顔の彼女がそこにいた。Ms.OOJAは昔からよく笑い、どんな洋服でもよく似合う。
僕とMs.OOJAの出会いは今から19年前にさかのぼる。彼女がまだ17歳で僕が23歳だった。最初に見た一番古い記憶として今も留めているのは、2階がハリウッドレコードと併設している四日市の老舗クラブのCHAOSだった。イベントのゲストとして僕ら(HOME MADE 家族)が名古屋から呼ばれ、それを主催していた地元のヒップホップグループSCB(Suzuka crazy brothers)のメンバーの一員として彼女は歌っていた。
スラッとした長身で、きれいな緑のワンピースから伸びた長い手足はまるでモデルのようだった。表情にあどけなさこそまだ残していたが、ステージでの堂々とした振る舞いと、何よりも歌のうまさに度肝を抜かれた。リハーサルの時点でメンバーと口をあんぐりしながら見ていたのを今でもハッキリと思い出す。
それから11年後。彼女はさまざまな紆余曲折を経て28歳でメジャーデビューをつかむ。2012年2月にリリースしたシングル「Be...」はレコチョク2012年上半期ランキング4冠を獲得し、配信合計がなんと100万ダウンロードを越える大ヒットを記録。その後の破竹の勢いは皆さんもご存知の通りだろう。
そんな彼女がこの8周年という記念すべきタイミングに、インタビュアーとして僕を選んだのは、おそらく新旧を知る友人として、そして同業者として、“違った視点の語り合い”ができると思ったからに違いない。であるならば、今回はあえて1つのテーマに絞ってこのインタビューに臨んだほうが面白いと思った。インタビューのテーマは……名付けて「逆Stories ~シンガーソングライターとしてのMs.OOJA~」だ(笑)。ところどころかなりくだけた内容にもなっているが、そこは19年来の腐れ縁だと思って許してもらえたらと思う。きっと今まで見たことのない、もう1人のMs.OOJAが浮かび上がってくるだろう。
Ms.OOJA、初の作詞は17歳
──デビュー8周年おめでとう!
ありがとう。そちらも初の小説おめでとう! サミュエル!(笑)(KUROはサミュエル・サトシ名義でオリジナル小説「マン・イン・ザ・ミラー『僕』はマイケル・ジャクソンに殺された」を刊行したばかり。)
──ありがとう! 俺さ、今日はきちんとMs.OOJAの曲を全部聴いてきたんだ。デビューからの音源すべて。でね、自分なりに改めて聞きたいことが出てきて。いろいろと分析してきたんだ。(メモを見せる)
すごーい!!
──実は今日は1つのテーマに的を絞って話を進められたらなと思っているんだ。何かって言うと、Ms.OOJAの“シンガーソングライターとしての側面”について話せたらと。デビューしてからの歌詞につづる内容の移り変わり、そのあたりのことをもっと詳しく聞きたくて。ちなみに、最初に歌詞を書いたのっていつ?
最初に歌詞を書いたのはね……多分、17歳のとき。
──え!? 初めて出会ったあの頃?
うん。多分。あの頃はどうやって歌を歌っていいかわからなくて。当時はレコードのインストでカバーを歌うか、もしくはそのトラックに乗せて自分で勝手に歌うしかなくて。録音の技術もほとんどなかったし、全部自分で歌詞を書いて、それをクラブに持って行って歌うという感じだった。だからその場でしか聴けない歌だったんだよね。
──じゃあ、頭の中で脳内再生してたんだ?
そう。頭の中で音楽を脳内再生して勝手に歌詞を作る。見よう見まねでA、B、Cってパートを作ると、それなりになるし、それを17歳のときに初めてやったんだよね。
──それってさ、最初からオリジナル?
なんかね、レコードに収録されているインストで作ろうってなったときに……まあ、最初は日本のR&Bのカバーもやったりしたんだけど、洋楽のトラックを使いたくなったときに、どうやって歌ったらいいのかなと考えたら、英語がすごく得意なわけじゃないし、だったらもう自分でオリジナルを作るしかないな、と。
──なるほどね。
洋楽のインストは基本ワンループのものが多いから。ちょっとコードが変わったりしたときは、「あ、ここはBメロのパートにしよう」とか考えてたり、「イントロはこんだけにしようかな」とか自分で調節して。頭の中だけで歌詞やメロディの構成を作ってやったのが最初のきっかけかな。というか、それしかやりようがなかったんだよね。トラックを作る人もいなかったし。録音もガチャッとカセットテープでやるレコーダーしかなかったから。私の作詞はそこから始まってる。
──最初は何について歌詞を書いたの?
なんだろう。もう覚えてないんだけど(笑)。でも、多分恋愛モノだった気がする。
──その恋愛ってさ、恋愛中なのか、片思いなのか、失恋しているのか……。
うーん、失恋系だった気がするけど、でもそれも実体験じゃなくて見よう見まねで書いた曲って感じ。その頃はまだ17歳だしさ、そんな別に大恋愛をしているわけじゃないし。
──最初は創作だったんだね。そこから、歌詞とかポエムを書き溜めたりしていたの?
してたね! ノートとかに思ったこととかバーッて書いて……もしかしたら今もそのノートが実家に残っているかもしれない。ハズいから燃やしたいけど(笑)。
──歌詞を書くときはさ、最初からメロディも思い付いてるの?
うん。メロディ付きで考えてたね。歌いながら作るスタイル。途中からは友達のDJ タラコ(SCBのメンバー)が持っていたAKAIのMTRを借りて作ったりもしていたの。当時のMTRはすごくでっかいのに、モニターがめちゃくちゃ小さくてさ。8chか16chしかチャンネルがなくてとにかく重いの。タラコに貸りたMTRを家に持って帰って、個別のトラックで録って自分の声を聴きながら曲を作ってた。
当時は自分というものが
あんまりそこになかった
──なるほど。最初にステージに立ったときに手応えはあった?
手応えはね……まったく根拠のない手応えはあったよ。「これだ!」と思ったし、すっごい楽しかった。多分お客さんは20人もいなかったけど、自分が大人の世界に飛び込んだ、みたいな気がした。
──そうだよね。当時はお客さんの数よりも出演者のほうが多かったもんね(笑)。ところでさ、ステージに立ち始めた頃は歌うことでいっぱいいっぱいみたいなところが誰にでもあるじゃない。いつ頃から自分の言葉がお客さんに届いてると思えた?
いつからだろうね……。
──だいぶあと?
だいぶあとだね。21、2のとき、まだ音源も出していないときなんだけど、三重のセンチュリオン(・ラ・ディスコティック)というクラブでAIちゃんの前座をやらせてもらったことがあるのよ。お客さんの数もすごいし、私もAIちゃんのこと大好きだし……っていう状況で、大勢の人の前で歌ったときに、自分の中でちょっと変化があったのかも。歌い始めて4、5年くらいで、まだクラブで酔っぱらってベロンベロンだった頃の話(笑)。
──うん。その姿をよく見たわ(笑)。ちなみにそこで歌ったのもオリジナル曲だったの?
うん。それこそ友達の力ってやっぱり大きくてさ。地元の友達のアユミとかナビとかクミがステージの真ん前にいて、目をウルウルさせながら私が歌う姿を観てくれていて、そのへんからだよね。あ、言葉が届いているのかなって思えるようになったのは。
──なるほどね。そうやって「人に届いているな」と思えるようになってからは歌詞の内容は変わった? 最初は創作だって言っていたけれど。
うーん。どうだったかな。もう思い出せないんだけど……でもレコーディングスタジオで録音して形になるとさ、客観的に聴けるじゃん。それで少しずつ変わっていったところはあるのかも。HOME MADE 家族は最初から客観的な内容の歌詞だったというか、なんか進んでたよね。
──いや、俺らも客観的な視点を持つようになったのは、メジャーデビューしてプロデューサーとかに散々ダメ出しされてからだよ。
あー、私もそうかも。メジャーデビューしてからちゃんと考えるようになった気がする。
──だってクラブあがりの人たちって「人に直される」ということがないじゃない。
なんでもよかったもんね。その場限りみたいなところもあったし。インディーズで曲を書いていたときも、「とにかくこの雰囲気に合う曲を」とか、「それっぽいものを」とか考えていたし。それをクラブのステージで歌えば、みんなもそれなりに喜んでくれるし。なんかこう自分というものがあんまりそこになかったというか、キャラを演じていたところもあったなって思う。MCでもほとんどしゃべらなかったしね。そういうキャラを作っていたから。
──なるほど。確かにあの頃はまだクラブのステージで歌えていること自体がうれしいという感じだったもんね。
そうそう。その場に自分がいられることがうれしいみたいな。
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2015年に頭の中で鳴った「カラーン……」