マカロニえんぴつが4月1日にフルアルバム「hope」をリリースした。
マクドナルドのテレビCM曲「青春と一瞬」、日本テレビの情報番組「バゲット」のエンディングテーマ「ブルーベリー・ナイツ」、テレビ東京ドラマ「びしょ濡れ探偵 水野羽衣」のオープニングテーマ「Supernova」といったタイアップ曲を含む14曲入りのこのアルバムは、マカロニえんぴつの勢いと、“ライブが楽しい”という現在のバンドのモードを反映した充実作に仕上がっている。
音楽ナタリーでは「hope」のリリースを記念し、はっとり(Vo, G)と彼がリスペクトし続けている奥田民生の対談を、奥田の作業スペース・ヘロスタジオで実施。はっとりがユニコーンと奥田から受けた影響、お互いのバンド観、アルバム制作に対するスタンスなどについて語り合ってもらった。
取材・文 / 森朋之 撮影 / 永峰拓也
はっとりと「服部」
──はっとりさんの名前は、ユニコーンのアルバム「服部」(1989年6月発売)が由来だとか。
はっとり(マカロニえんぴつ) そうなんですよ。
奥田民生 “はっとり”が芸名なの?
はっとり はい、本名じゃないです(笑)。マカロニえんぴつを結成する前から、“はっとり”を名乗らせてもらっていて。
奥田 そうなんだ(笑)。
はっとり 去年の「FM802 30PARTY FM802 ROCK FESTIVAL RADIO CRAZY 2019」(2019年12月に大阪・インテックス大阪で開催されたライブイベント)で初めて挨拶させてもらったときも、「どう思われてるんだろう?」とちょっと不安でした。
奥田 うれしくなくはないよ。迷惑ってこともないし。ものすごくうれしいかと言われると、ちょっとわからないけど(笑)。
──はっとりさんがユニコーンの存在を知ったのは、いつですか?
はっとり 中学生のときですね。僕はユニコーンが解散した1993年に生まれて……。
奥田 え、そうなの?
はっとり はい。ユニコーンを知ったのは、スキマスイッチがきっかけなんです。スキマのお二人がテレビ番組で「学生のときにコピーバンドをやってた」とユニコーンを紹介していて、「Maybe Blue」「ペケペケ」「大迷惑」「ブルース」「開店休業」のミュージックビデオが流れて。どれも曲調が違うし、別のバンドが演奏しているような印象を受けたんです。それまでは“このバンドにはこういうカラー”というのがあってしかるべきだと思っていたんですが、「こんなに自由でいいんだ!?」と。ユニコーンの歴史も紹介されていて、髪型やファッションも時期によってまったく違っていたし。あとはやっぱり、民生さんのボーカルのカッコよさですね。
奥田 スキマのおかげだったんだ(笑)。
はっとり その日のうちに父に「ギターを買ってほしい」とお願いしました。親父もずっとバンドをやっている人だったから喜んでくれて。その2年後、中学3年の正月にユニコーンの再始動が発表されたときは、飛び跳ねて喜びました。僕は山梨出身なんですが、「ユニコーンツアー2009 蘇える勤労」(2009年3月から5月にかけて開催された、ユニコーン再始動後初の全国ツアー)で地元に来てくれて。友達と一緒に観に行きました。
ユニコーンや奥田民生の曲を歌った学生時代
──ギターでユニコーンの曲をコピーしていたんですか?
はっとり その前にハードロックの曲を弾いてましたね。Deep Purple、マイケル・シェンカー、Scorpionsとか。それは親父の影響なんですけど。
奥田 親父さんと話が合いそうだな(笑)。
はっとり ははは(笑)。でも、途中で「自分にギターの速弾きは無理だな」と思って、歌の練習を始めたんです。家の防音室でユニコーンや民生さんのソロの曲を歌って、録音して、それを聴いて、また歌って。
奥田 俺も同じような感じだったかな。今はいろんな音楽が簡単に聴けるけど、(ギターに興味がある10代が)通るところはそんなに変わってない気がする。俺も最初はギタリストだったんですよ。学生のときに組んでたバンドは、いとこがボーカル担当で。
はっとり Ready(ユニコーン結成前に奥田が参加していたバンド)ですよね。
奥田 そうそう。初めはギターとコーラスだったんだけど、ちょっとずつ歌うことが増えて、そのうちにハンドマイクになって。ユニコーンに入った当時は、ぜんぜんギターを弾いてなかった。
はっとり レコーディングでも弾いてなかったんですか?
奥田 最初はね。テッシー(手島いさむ)がレコーディングで苦労して特訓させられてるのを見て、「大変だな。ギターじゃなくてよかった」と思ってた(笑)。でも、途中から「それ、俺は弾けるけどね」と思って、お互いに得意なほうを弾くようになったんだよね。ハードロックみたいなギターはテッシーで、音が歪んでないヤツとか、ブルース的なのは俺が弾いて。で、ライブでも弾くようになって。
ユニコーンにはなれない
──はっとりさんがマカロニえんぴつを結成したとき、ユニコーンを参考にした部分もあったんですか?
はっとり バンド像としてはユニコーンが教科書だったから、憧れはありました。でも、「ああいうバンドにはなれない」というのもわかっていて。今でこそほかのメンバーも曲を作っていますけど、最初はメンバーを集めた時点で自分が中心だったし、曲も全部俺が書いていたので。ユニコーンはメンバーの皆さんの個性が際立ってるし、曲もそれぞれ書かれていますよね。
奥田 ユニコーンもデビュー当初は、ほとんど俺が書いてたよ。でも自分だけ働いている感じがイヤで(笑)、ほかのメンバーにも書いてもらおうと。
はっとり 自分でバンドを動かすつもりはなかったんですか?
奥田 というより、バンドとしていろんな可能性があったほうがいいなと。「このやり方です」と決めたくなかったんだよね。
はっとり 僕らもそれに近いかもしれないですね。自分以外のメンバーは受動的というか、「はっとりがやりたいようにやればいいよ」という感じだったんです。それじゃ物足りなかったので、「それぞれ役割を担って、バンドっぽくなろうぜ」って言うようになって。でも、最初はうまくいきませんでしたね。例えば僕が作ったデモ音源とは違うフレーズを考えてきたメンバーに「そうじゃない」って否定しちゃったり。
奥田 ははは(笑)。そりゃうまくいかないわ。
はっとり そうですよね……もっと積極的に関わってほしいんだけど、「そういうことじゃない」と思うことが多くて、うまく回らなかったんですよ。
奥田 まあ、俺らも徐々にだったけどね。
──今のユニコーンのスタイルになったのは「服部」くらいからですか?
奥田 そうだね。
はっとり 「服部」の本(2019年11月発売の書籍「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」)を読ませてもらったんですけど、プロデューサーやアレンジャー、特にマイケル(当時のユニコーンのディレクター・河合誠一マイケル氏)さんが仕向けたところもあったんですね。
奥田 うん。1stアルバム(1987年10月発売の「BOOM」)、2ndアルバム(1988年7月発売の「PANIC ATTACK」)は主に笹路正徳さんにアレンジしてもらったんだけど、「服部」からはメンバー主導になって。ABEDONがバンドに入ったこともあって、マイケルさんが「自分たちでやりなさいよ」と。歌詞も、メンバー1人ひとりとマイケルさんが話しながら書いてたんだけど、すごい働きぶりですよね。今のディレクターはそんなことしない人が多いと思うけど、昔はそういう力があったんですよ。「ほかにはないスタイルのバンドを目指す」というマイケルさんが思い描く絵によって動いたというか。俺らは広島から出てきた田舎者で何も知らなかったし。いろんな音楽を聴かせてもらったしね、マイケルさんの家で。
はっとり そうなんですね!
奥田 事務所に行くと、誰かがメシを食わせてくれて。その流れでバーで音楽を聴いたり、マイケルさんの家に行くことが多かったから。マイケルさんはロックよりもソウルやブラックミュージックが好きで。そういう音楽はまったく知らなかったから面白かったんだよね。で、その影響を受ける暇もなく、自分で作る曲に取り入れて。
はっとり すごいですね。いきなり自分のものにして。
奥田 自分のものにはなってないけど(笑)、「こういう音楽が世の中にあるのか」と思って、「こういう感じでやってみよう」と試してみたってことだよね。例えば歌詞とメロディの譜割りだったり。
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奥田民生節