小林克也&ザ・ナンバーワン・バンドが実に25年ぶりとなるオリジナルアルバム「鯛 ~最後の晩餐~」をリリースした。
小林がアルバム発売の発表時に「おそらくこれが最後のアルバムになると思う」とコメントしていた本作。完成したアルバムは、小林克也&ザ・ナンバーワン・バンドらしい古今東西の洋楽のエッセンスを取り込んだユニークな内容に仕上がった。
意味深な「鯛 ~最後の晩餐~」というタイトルも話題の今作。小林は何を思い、再びザ・ナンバーワン・バンドと共に制作に臨んだのか。「最後の晩餐」というサブタイトルの真意とは。ザ・ナンバーワン・バンド誕生の経緯から語ってもらった。
取材・文 / 秦野邦彦 撮影 / 吉場正和
ザ・ナンバーワン・バンド誕生のいきさつ
──このたびは喜寿、そしてザ・ナンバーワン・バンドのニューアルバム「鯛 ~最後の晩餐~」の完成おめでとうございます。メジャー作品のオリジナルアルバムとしては1993年リリースの「ます」以来25年ぶりの新作ということで、楽しく聴かせていただきました。
ありがとうございます。なかなか大変でしたけどね。
──今作では1982年のデビューアルバム「もも」から共に活動してきた佐藤輝夫さんをはじめ、オリジナルメンバーが再結集したということで、改めてザ・ナンバーワン・バンドの成り立ちから伺わせてください。
僕は1970年代後半からスネークマンショーというユニットをやっていて、イエロー・マジック・オーケストラの「増殖」に参加したり、咲坂守(小林克也)と畠山桃内(伊武雅刀)というキャラクターで「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」(作詞:スネークマンショー / 作曲:細野晴臣)というシングルを作ったりしていたんです。細野さんの作った曲がBlondieの「ラプチュアー」まんまでびっくりしたんですけど(笑)。その頃からラジオのディレクターだった佐藤輝夫とはスタジオでよく顔を合せていたんです。彼はギタリストとしての顔も持っていて、ある日いきなり「バンドやんない?」ってデモを作ってきて。それがザ・ナンバーワン・バンドのスタートです。
──デビューシングル「うわさのカム・トゥ・ハワイ」(作詞:小林克也 / 作曲:佐藤輝夫)は日本語ラップ黎明期を語るうえでも重要な楽曲です。
広島弁の“のう”で韻踏んでるでしょ? 「ごきげんいかが1・2・3」のときはまだ遊びだったけど、「うわさのカム・トゥ・ハワイ」は本気で日本語のラップをやろうと思っていろいろ考えたんです。だけど美しい日本語でやろうとすると、どうしてもダメで。日本語はメロディアスだから壊れちゃうわけ。いい例で言うと、60年代に坂本九さんの「上を向いて歩こう」がアメリカでもヒットしたでしょ? あれ名曲じゃないですか。でも、ケチを付ける人はあれは大阪弁だって言うんです。これのどこが美しい日本語ですかって。
──作詞された永六輔さんもレコーディング当時、坂本九さんの「♪ウヘホムフイテ」という歌い方が気にいらなかったとおっしゃっていましたね。
対して英語の歌い方は強弱なんです。発音の時点で根本的に違うんですよね。それで思い付いたのが、ハワイの日本語だったら成立するんじゃないかと。面白いことにハワイの移民には、広島弁が残っているんです。僕が聞いたところによると最初の移民は広島県と熊本県の方が多かったそうで、要するに田舎の貧乏な農家の三男坊とか四男坊が働き手として行っちゃうわけです。僕もハワイから来たハワイアンバンドの司会をやったとき、マネージャーの日系の女性がすごい美人なんだけど、日本語で話すと広島弁でびっくりしちゃって(笑)。それで佐藤くんに広島弁と英語が混ざった歌詞を書くからそういう曲を作ってよって話をしたんです。
──日本語と英語の発音の違いを踏まえたうえで歌詞を書かれたんですね。第2次大戦前夜に新天地を求めてハワイへと移住した日本の農夫たちを突然襲った真珠湾攻撃、というけっこうシリアスな内容でした。
あの頃は楽曲にメッセージを込めるのが普通だったから。あと、マイノリティの話にもなるじゃない? ただ、サビの「きんさい きんさい」という部分以外の歌詞がなかなか決まらなくて。レコーディング当日に「インサイド アウトサイド」が浮かんで、「シーサイド ヒルサイド」って続いて、「ああ、これでバッチリだ」ってなった。面白いのが3番の歌詞に「ふとんで泣いたんじゃ」ってあるでしょ? なぜハワイでふとんと思うかもしれないけど、実は“ふとん”ってアメリカでもそのまま通じるんです。ベッドがない部屋で寝るときに便利だから。当時CNNで、ハワイの人が日本に来るとふとんを買って帰るっていうニュースを報道してて、「よし、これを歌詞に入れよう」って。
──サウンド的には当時最先端だったTom Tom Clubのデビューアルバム「Tom Tom Club」の影響もうかがえます。
白人である彼らが成功したのは、ヒップホップとかファンクから逃れたことだよね。あのクールな感じはずいぶん参考にさせてもらいました。
ナンバーワン・バンドと桑田佳祐
──初期のナンバーワン・バンドは桑田佳祐さんの参加も話題になりましたね。
桑田くんとは僕が当時やっていたFM番組で知り合ったんです。最初はギターでゲスト参加してもらう程度の予定だったから、まさか曲を書いてくれて一緒に歌うとまでは思ってなくて。
──「もも」で桑田さんは、嘉門雄三名義で「六本木のベンちゃん」と「My Peggy Sue」を作曲されています。歌詞は小林さんとの共作でした。
歌詞も桑田くん節が出てますよね。「六本木のベンちゃん」で僕が最初書いた歌詞は「ふたり 中目黒の アパートの窓」だったんです。それを桑田くんが「中目黒」を「きゃーめぐろ」にして。僕も彼の言語センスにはずいぶん影響を受けてます。「My Peggy Sue」は当初「克也さんと俺の間に沢田研二がいて、3人で自慢し合いながら、それぞれの世代の価値観の微妙なズレを歌う曲にしよう」って言われて歌詞を待ってたんだけど、サザンのツアーが始まっちゃってそれどころじゃなくなって。しょうがないから曲だけもらって英語で歌ってるんです。
──当時、桑田さんは洋楽のカバーライブをやるときの変名として嘉門雄三を使っていました。
あれも最初は俳優の河原崎長十郎をもじったような名前だったんですよ。あるとき一緒に飲んでると「咲坂守って名前はどうやってできたんですか?」って話になって。スネークマンショーでやってたコントのキャラクターに名前を付けるとき、「いかにも真面目なアナウンサーふうがいいよね」って話をしていたら伊武がすぐ「向坂」って言ったんです。当時NHKの向坂松彦さんという有名なアナウンサーの方がいらっしゃって。それを僕がちょっと派手に、花が咲く「咲坂」に変えて。この名字ならファーストネームは保守的な重みがあるものだろうってことで「守」にしたんです。その流れで河原崎っていうのはちょっとイメージが違うんじゃないかということになった。要するに向こうの音楽をカバーするんだったらスター的な名前がいいんじゃないかって。「みんなおいでよ!」って呼びかけるみたいな感じって言ったら、桑田くんが英語の「C'mon」から「嘉門」って付けたんです。
──当時のライブアルバム「嘉門雄三 & VICTOR WHEELS LIVE!」には小林克也さんのお名前もクレジットされています。
あのライブは会場が渋谷のeggmanで、司会みたいなことで入ってくれって言われてね。当日はブルースやR&Bのカバーをやるっていうからシャネルズみたいに靴墨で黒く塗って出たんですけど、取るのが大変で上着がダメになっちゃった記憶があります(笑)。
──アルバムタイトルの「もも」というのはどこから出てきたんですか?
僕はフルーツの中で桃が一番好きなんです。それから鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」という映画で桃を食べるシーンがあって、桃が含んでるエロチックなイメージからです。個人的な体験だけど、うちの親父の実家が大きな桃畑を持っていたんです。実家に行くたび、その桃を手でもいで食べるのが楽しみでね。ところが3歳か4歳の頃、疫痢にかかって桃を食べちゃダメだって言われて。だけど子供だから我慢できないじゃない? 指でちょこっとすくって食べて、裏返して隠したんだけど、すぐ見つかって怒られて(笑)。そういう記憶もあって、桃にはこだわりがあるんです。
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ライブやるなら絶対アルバム作んなきゃ
- 小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド
「鯛 ~最後の晩餐~」 - 2018年3月21日発売 / SPEEDSTAR RECORDS
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完全生産限定盤 [CD2枚組]
5940円 / VIZL-1355 -
通常盤 [CD]
3240円 / VICL-64984
- DISC 1 収録曲
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- ナムアミダブツ IN 九品仏
- The Noh Men
- LET'S MAKE LOVE ~REGGAE ONDO~
- あるパティシエの愛
- SHOWA WOMAN
- ふるえる君に ~Tears For Fears~
- FUKUYAMA
- FOOL FOR YOU ~コンチキショウ~
- 豊満な満月 ~フムフム・ヌクヌク~
- FUNKY KISS
- STRAWBERRY FIELDS
- 夢
- お茶物語
- ナミマニ
- 完全生産限定盤 DISC 2 収録曲
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小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド
Live in Nagoya 1983.10.20- ナンバーワンバンドのテーマ(Live in Nagoya 1983.10.20)
- うわさのカム・トゥ・ハワイ(Live in Nagoya 1983.10.20)
- ダイアナ(Live in Nagoya 1983.10.20)
- ジャック&ダイアン(Live in Nagoya 1983.10.20)
- 港の女(Live in Nagoya 1983.10.20)
- キャント・ゲット・イナッフ(Live in Nagoya 1983.10.20)
- 六本木のベンちゃん(Live in Nagoya 1983.10.20)
- 野球小僧(Live in Nagoya 1983.10.20)
- ダウン・アンダー(Live in Nagoya 1983.10.20)
- ジョニーの青春(Live in Nagoya 1983.10.20)
- ケンタッキーの東(Live in Nagoya 1983.10.20)
- マイ・ペギー・スー(Live in Nagoya 1983.10.20)
鯛 ~Special Bonus Tracks~
- コンニチワ・エブリバディ
- CRYING
- まもる
- DO YOU REMEMBER
- 小林克也(コバヤシカツヤ)
- 1941年3月生まれ、広島県出身。29歳でラジオのDJとしてデビューし、低く渋い声と流暢な英語で人気を博す。ラジオ番組「スネークマンショー」の構成を手がけたことをきっかけに、1976年に伊武雅人らと同名ユニットを結成。1982年には小林克也&ザ・ナンバーワン・バンドを結成し、アルバム「もも」を発表した。以降もコンスタントにリリースを重ねていたが、1993年にリリースした「ます」以降は活動休止状態に。2018年3月に25年ぶりとなるオリジナルアルバム「鯛 ~最後の晩餐~」を発表した。音楽番組「ベストヒット USA」で長年VJを務めている。