筋肉少女帯が振り返るナゴムレコードの日々 ~ 80年代の初期曲をリメイクしたメンバー4人に当時の話を聞く (3/3)

すべてを茶化していた2人に脅威も感じていた もしかしたら自分の考えのほうが違うんじゃないかって

──この流れで皆さんがバンドを始めた頃の70年代末から80年代初頭の思い出話を聞かせてください。

大槻 パンク、テクノ、ニューウェイブがバーンと世に出てきて、ハードロックもある中で、ニューミュージックとフュージョンは敵でしたね(笑)。

橘高 特にフュージョンは大人のものって感じがしたね。

大槻 だけど聴くといい曲だなと思っちゃう自分の中の葛藤ね。落としどころをどこにしようと思って。例えば、ユーミンさんだと「ひこうき雲」は自死を思わせるような部分もある曲じゃない? だから「あれはノーフューチャーだからパンクだ! 荒井由実は認めてやらんでもない!」っていう。

橘高 理由付けね(笑)。

大槻 理由付けが必要だと面倒くさいね。高中正義さんの「Blue Lagoon」も高揚するいい曲だけど、そう言えないから「サディスティック・ミカ・バンドの『黒船』の人だから認めてやらんでもない!」とか(笑)。

橘高 本当面倒くさいよ。「なんで上から目線なんだろ?」と自分たちでも思ってるから。

大槻 中高校生のくせに「お前は世界の王様か!」ってぐらいね。

内田 ドテチンズでライブをやったとき、ほかに2つバンドが出てて、1つが「スモーク・オン・ザ・ウォーター」と「天国への階段」をやるバンド。もう1つがRCサクセションのコピーバンド。その中でドテチンズはただシンセサイザーを使ってただけで、なぜかテクノと言われて。ドテチンズは何かのコピーバンドじゃなく、「うちに集まって適当にやろう」ってところから始まったからジャンルが確定できなかったんですよね。

80年代の大槻ケンヂ(左)と内田雄一郎(右)。

80年代の大槻ケンヂ(左)と内田雄一郎(右)。

大槻 そういう時期に橘高くんのバンドはプロを志してたんだから偉いよ。俺たちにはできないと思った。

内田 ちゃんと練習してる人たちだったから。

橘高 俺は84年にAROUGEというヘヴィメタルバンドでメジャーデビューしたんですけど、当時はロックが世界的に商業化してきて、もしかしたら日本でもロックバンドがテレビにバンバン出るようになるかもって夢を見始める頃だったんです。まだまだ「将来はミュージシャンになります」と言うと鼻で笑われたし、親も「バカなこと言ってないで勉強しなさい」って時代。俺は大学に行かない理由として親や先生に「ミュージシャンとして就職しますんで」と言うためにがんばって、実際に高校在学中にメジャーと契約したわけです。子供ながらに戦略めいたものを練って、デモテープをレコード会社に送ったり、ヤマハ主催のイーストウエストってコンテストに出たり。俺たちは82年、83年と中野サンプラザでやった決勝まで行くんだけど、そのコンテストに同じく出ていたのが大槻くん、内田くんたちだったんだよね。ただ人前で存在証明をちょっとしたいだけのこの人たちが、楽しそうに周りを茶化してて。

大槻 すみません! すべてを茶化してました!

80年代の橘高文彦(G)。

80年代の橘高文彦(G)。

橘高 ただ、そこに脅威も感じてはいたの。ナゴムという新しい波は、日本でも近い将来ロックバンドがビジネス化していくであろうことも皮肉ったパンク的なスタンスで頭角を現してきたけど、もしかしたら自分の考えのほうが違うんじゃないかと思って。実際俺たちはヘヴィメタルブームの青田買いのおかげで若くしてデビューできたところもあるんだけど、ブームってものは必ず衰退していくじゃない? 「インディーズレーベルなんて、どこでも出せねえから自分たちでやってんだろ」ぐらいに否定しないと自分の人生を進めなかったから斜めに見てたけど、そうした中で彼らはナゴムという時代を作っていったわけで。どっちの人生も歩んだ人たちが同じバンドにいて40周年を迎えてるっていうのが感慨深いね。

大槻 そうだね。

橘高 「今のテレビは規制がいっぱいあるからつまんない」って若者がYouTubeやSNSで自分たちのやりたいことを表現するのはとてもナゴム的だし、さっき大槻くんが言った「世の中、筋少的になってきてる」がそれだと思う。メジャーの電波に乗せることを考えないがゆえのエネルギーだよね。俺はギターヒーローになりたくて寝ずに楽器を練習してた人だから、練習しないやつが支持を得ていくことで自分の存在を否定された気がしたけど、逆にそこにロックを感じてしまった部分も正直あった。だから吸収合併された感はある(笑)。その中を行くために俺は俺らしくマーシャルを並べるし、ソロも弾くぞって。それが1周してナゴム的であったかもしれないけど。

内田 そんな真面目にやってる人のアンプを勝手に鳴らしまして……。

橘高 空手バカボン時代の内田くんがね(笑)。1983年のイーストウエストのコンテストのとき、俺たちは前年に決勝まで行ったからゲストバンド扱いで審査中の時間にステージで演奏するために呼ばれてたんです。出場バンドは公平を期すためにヤマハのアンプしか使っちゃいけないんだけど、俺たちはゲストだからマーシャルを持ち込んでたの。そしたら俺の後輩が慌てて走ってきて「橘高さんのアンプに勝手につないでるやつがいますよ!」って。

内田 その日、遅刻して本番ギリギリでステージに行ったら「あら、マーシャルだ。かっちょいい」と思って、ギターつないだらバゴーン!ってものすごい音が出ちゃって。

大槻 あれはロックだった。ジミヘンみたいだったよ。

内田 そしたら石塚BERA(伯広)が「AROUGEのやつが怒ってるみたいだぜ」って教えてくれて(笑)。という因縁の仲なんです。

80年代の内田雄一郎(左)と大槻ケンヂ(右)。

80年代の内田雄一郎(左)と大槻ケンヂ(右)。

橘高 そのマーシャルで俺が空手バカボンを弾く日が来るとは思わなかったね。

内田 当時の空手バカボンはカセットテープとギターという、ひどい編成で。

大槻 なのにカセットテープ持ってくるの、よく忘れてきて。「何しに来たんだ、お前ら」っていう(笑)。

橘高 そういうとこだぞ(笑)。

大槻 悪ふざけでしたね、我々は。

「日本のロックは筋肉少女帯を中心に動いていた」という“筋少史観”になることを目指して

──本城さんはケラさん、内田さんと高校が同じこともあってナゴムとは関わりが深かったと思います。

本城 中学生の頃はLed ZeppelinとかDeep Purpleが好きで、同級生と楽器屋さんで演奏したり、リハーサルしたりする程度だったんです。そのときはベースを弾いてたんですけど、高校に入ったらちゃんと音楽をやりたい、ドラムを叩きたいと思ってブラスバンド部に入ろうとしたんですよ。そしたら部室に行く途中、軽音楽部の先輩に拉致られまして(笑)。そこで出会ったのが後に有頂天を一緒にやるタボさん。軽音楽部ではドラムを叩かせてもらいつつ、ギターも弾くみたいな感じでいたんですけど、高校1年の夏の合宿に、なぜかそれまで一度も顔を出していなかったケラさんが軽音楽部の先輩として突然登場したんです。そこでRCの曲を歌うケラさんにヤラれて、仲よくなって。そのとき、僕は同級生とトリオでバンドやってたんですけど、それがケラさんに丸ごと吸収されてバックバンドみたいな感じでできたのが伝染病というバンドです。伝染病はケラさんが東京都内のライブハウスで次から次へとライブを決めて、どんどん会場も大きくなっていって。それから僕が受験で一度辞めなきゃいけなくなったタイミングで、ケラさんは有頂天という新しいバンドを作って、高校卒業後に僕が有頂天に正式に加入した、という流れです。

80年代の本城聡章(G)。

80年代の本城聡章(G)。

内田 そのあと有頂天とかけ持ちで筋少にも入ったんだよね。

本城 そうそう。伝染病の最後のライブ(1982年4月6日に新宿JAMで開催)は有頂天にとっての最初のライブであり、筋少のデビューライブでもあったんです。最終的に有頂天は目黒鹿鳴館を満員にするまでになるんですけど、そんな中でケラさんが自主制作でレコードを作ろうという話をして。なのでナゴムレコードが立ち上がっていく瞬間を目の当たりにしていました。最初が有頂天のソノシートで、2作目が空手バカボンの「バカボンのススメ」。

──空手バカボンのレコードは大槻さん、内田さん、ケラさんで繰り広げられる曲間のコントも最高でした。

内田 あれはひどいよねえ(笑)。

大槻 筋少のアルバム「LOVE」(2019年発売)の「ドンマイ酒場」でメンバー全員しゃべるのは空バカあってのことですね。

本城 有頂天もライブの合間にずっとコントをやってて、それがだんだんと演劇みたいになっていって台本がどんどん分厚くなるんです。僕は山手線の中で台本を一生懸命覚えてました。バンドのリハより芝居の練習をしてる時間のほうが多いことがイヤで有頂天を辞めたのに、回り回って「ドンマイ酒場」でまた芝居させられるのかと思いました(笑)。

大槻 あの頃から思ってたけど、内田くんは声優的な芝居がうまいよね。

本城 うん、うまいね。

内田 「おばあちゃん××ちゃったんでしょ!」(空手バカボン「孤島の檻」収録のコントを再現)。

大槻 うまいうまい。スタンダップ芝居はチャチャマルくん(有頂天初期メンバー)が一番うまかったなあ。まあ、いいか。そんな話(笑)。

──現在開催中のツアー「KEEP CHEEP TRICK TOUR」ともども、来年に控えたメジャーデビュー35周年がさらに楽しみになりますね。

橘高 来年まで続く「筋肉少女帯 Debut35th カウントダウンシリーズ」の一環としてこの結成40周年記念アイテムが出て、筋少がいい感じに続いていく流れを一緒にみんなで楽しんでいけたら。

大槻 で、最終的な目標としては、100年後に振り返り見たとき「日本のロックは筋肉少女帯を中心に動いていた」という“筋少史観”になるように、これから世論をねじ曲げていきたいと思います(笑)。

橘高 OK!

本城 がんばろう!

──実際に筋肉少女帯が世の中に与えた影響は、文学、オカルト、ファッションなど計り知れないものがありますから。

大槻 はい、それは認めます。サブカルチャーのかなりのものは筋肉少女帯の影響からできてます。中野がサブカルチャーの聖地になったのも筋肉少女帯が生まれた地だからですし、中野サンプラザが解体される動きも、うちの母・けいこが筋少を観に来たときの「あら、サンプラザは2階が揺れてダメだわね」ってひと言から始まったんです。

一同 ハハハハハ!

大槻 かなりのものが筋肉少女帯からできあがってることが最近バレてきちゃいましたねー。あれも筋少? これも筋少?って。

橘高 ずっとベールに包んで隠してきたものがね(笑)。

公演情報

筋肉少女帯 Debut35th カウントダウンシリーズ「KEEP CHEEP TRICK TOUR」

  • 2022年11月8日(火)神奈川県 CLUB CITTA'
  • 2022年11月12日(土)愛知県 名古屋CLUB QUATTRO
  • 2022年11月16日(水)大阪府 なんばHatch
  • 2022年11月26日(土)東京都 江戸川区総合文化センター 大ホール

プロフィール

筋肉少女帯(キンニクショウジョタイ)

1982年に中学の同級生だった大槻ケンヂ(Vo)と内田雄一郎(B)によって結成。ナゴムレコードでのインディーズ活動を経て、1988年にアルバム「仏陀L」にてメジャーデビューを果たす。1989年に橘高文彦(G)と本城聡章(G)が加入し、「日本印度化計画」「これでいいのだ」「踊るダメ人間」などの名曲を発表。特に「元祖高木ブー伝説」はチャートトップ10入りを記録し、大きな話題に。大槻による不条理&幻想的な詩世界とテクニカルなメタルサウンドが好評を博すものの、1998年7月のライブをもって活動を“凍結”。各メンバーのソロ活動を経て、2006年末に大槻・内田・橘高・本城の4人で活動再開を果たす。2007年9月には約10年ぶりのオリジナルアルバム「新人」をリリース。東京・日本武道館公演や「FUJI ROCK FESTIVAL」「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」といった大型イベントへの出演など、精力的なライブ活動を展開する。2015年5月には人間椅子とコラボバンド「筋肉少女帯人間椅子」でシングル「地獄のアロハ」を発表。2022年11月に結成40周年を記念して、空手バカボンのものを含むナゴムレコード時代の曲を新録したシングル「いくぢなし(ナゴムver.サイズ)」をリリースした。