新しい八王子Pを込めた「気まぐれメルシィ」

──今回ベスト盤には36曲が収録されていますが、八王子さんにとって思い入れ深い楽曲はどれですか？

八王子P　そうですね。すごいベタですけど「エレクトリック・ラブ」。僕にとって1作目であるこの曲がなかったら、音楽で食っていくことにはなってないと思いますから。もしかしたら作曲は続けていたかもしれないけど、音楽1本でやっていくって覚悟が決まったのは「エレクトリック・ラブ」が生まれたからだと思っています。それともう1曲が「気まぐれメルシィ」。

──「気まぐれメルシィ」はベスト盤のための書き下ろし曲ですよね。

八王子P　そうです。実は今回ベストを出すことになって、八王子Pがもう終わるんじゃないかって思うリスナーもいるのかなって想像していたんです。僕としてはベスト盤のリリースはあくまでひと区切りであって、今後もボカロ曲を発表していくつもりですから、これまでの僕の活動を踏襲しつつ、新しい八王子Pの姿が見えるような新しい要素を入れたかったんですよね。これからも続けていくっていう意思を込めて作った曲が「気まぐれメルシィ」なんです。

わかむらP　「気まぐれメルシィ」って、歌い方がちょっと人間っぽいよね。

八王子P　普段使わない音作りに挑戦していて、ミクの歌い方とか“調声”の仕方もガラっと変えているんです。わかりやすいところで言うと、これまで僕はビブラートを一切使ってこなかったんですけど、この曲ではビブラートを使ってるんです。

わかむらP　それで人間っぽく聞こえるんだ。

八王子P　そうだと思います。僕にとって新しい挑戦が詰まった曲です。

クリエイターの“親離れ”

──先ほども少し話に出ましたが、ここ数年でニコニコ動画をはじめとしたネット上の音楽シーンから離れて行ったクリエイターも多いと実感しています。昨今の流れをお二人はどう感じていますか？

八王子P　絶頂期に比べればボカロ曲のにぎわいはだいぶ落ち着いていると思いますけど、だからこそ僕は続けていきたいなっていう気持ちが強いんです。初音ミクがいなかったらそもそも八王子Pは誕生していませんから、VOCALOIDというものに対する感謝の気持ちも大きいし。もちろんボカロだけやってくわけではなくていろんな仕事をしていきたいですけど、僕はボカロ曲を作り続けたいと思っています。またシーンが盛り上がってくれればいいなあって思うときはありますけど。

わかむらP　僕の場合、動画制作者としての立場からの意見になってしまうんですけど、ニコニコ動画で流行したボカロ曲やMMDの投稿って、入門ツールとしての意味合いが強かったと思うんですよね。ボカロはもともと仮歌ツールとして作られたものだし、MMDは簡易的な3D環境を作るためのソフトだったわけで。

八王子P　ボーカリストに歌をお願いできないからボカロを始めたって人も多いですからね。

わかむらP　そうそう。だから今シーンが落ち着いているのは、ボカロやMMDが入門ツールとしての役割をもう果たしてしまったからじゃないかなって思うんです。僕自身、MMDを使わない仕事をいっぱいやってるし、王子もボーカリストに歌ってもらう仕事をたくさんやっている。なので、ある種みんな“親離れ”をしたのかなって思うんです。

八王子P　なるほど。すごくいい表現ですね。確かにクリエイター同士で話をすると、最近ボカロで曲を発表しなくなった人も、ボカロのことが嫌いになったわけではないんですよね。親離れしても、両親が大切な存在であることに変わらないって感覚に近いのかもしれません。

わかむらP　クリエイターも実家に帰るときはあると思うんです（笑）。例えば僕はMMDの仕事をオファーされたら必ず受けるようにしてるんです。「今MMDやってないんで」っていう理由では絶対断らない。親から「帰って来い」って言われたら、悪態つきながらも帰るみたいな。

八王子P　距離感が変わったのは確かだと思います。それはボカロから離れて行ったクリエイターだけじゃなくて、今もミクに関わっている僕やわかむらさんも。

わかむらP　ミクもすごい有名になったし、昔あった「僕らで神を創り上げるんだ」みたいな情熱とか衝動がひと段落したところもありますね。シーンを盛り立てるのが好きだった人は離れちゃったと思いますし。

みんなが一斉に里帰りをすれば

八王子P　もし今後、ボカロ界隈が盛り返すようなことがあるとすれば、親元を離れて行ったクリエイターたちが実家に帰るタイミングだと思うんです。

わかむらP　成人式とかですね（笑）。地元でやるやつ。

八王子P　そうですね。みんなが一斉に里帰りをするタイミングがあったら、きっとまた盛り上がると思います。でもハッキリ言ってそれは仕掛けられるものじゃないと思うんですよね。誰かが呼びかけるとかじゃなくて、自然発生的に生まれるものなんじゃないかな。だからあくまで願望なんですよね。もう1度ボカロが盛り上がったら楽しそうだなっていう。

わかむらP　それは商業的なものじゃなくてね。もともとボカロ曲って勝手にみんな自分が作りたいものを作れるタイミングで発表してたわけで、アルバムが出るからとか、本業がどうだからとか関係なく、好き勝手に作ったものがどんどん公開されてほしいですね。

八王子P　クリエイター側にも遊び感覚がなくなっちゃったのは確かにあると思います。だからみんなの息抜きというか、普段作れないものを創作することで普段のストレスを発散するみたいなことができたらいいんですけどね。ニコニコ動画のランキングが今までのボカロ曲の名曲を生んでくれた人たちで埋まるとか面白そうじゃないですか。

わかむらP　でもそういうことが起こるにはまだ時期が早いとも思ってるんです。もう少し時間が経ってからじゃないかな。僕、30歳になった王子が作る楽曲とか聴いてみたいもん（笑）。どんな曲書くんだろう。

八王子P　僕を含めて「また盛り上がったらいいな」って思っているクリエイターも多いはずなんです。運もタイミングもすごく大事なことだから、「また盛り上がります」って断言することはできないんですけど、僕はこれから先もミクの曲を作り続けていくから、そのときが来るのを楽しみに待っています。