それぞれソロで音楽活動を行っていた水野あつとSoodaが、2022年11月に始動させた音楽ユニット・雨宿り。花譜をはじめとするバーチャルアーティストや、多くの作曲家、クリエイターを擁するKAMITSUBAKI STUDIOに所属しているこのユニットは、「日常のつらいことからそっと雨宿りするような気持ちで聴ける音楽を届けたい」という思いが込められた名前の通り、水野が紡ぎ出す情緒的なストーリーの楽曲、Soodaの情感あふれる歌声でしっとりと温かい世界観を生み出している。
そんな雨宿りの世界観を存分に味わえるのが、6月6日に発売される1stアルバム「傘をなくして」。音楽ナタリーでは本作のリリースに合わせ、雨宿りの2人にインタビューし、それぞれの音楽の原体験やユニット結成の経緯、アルバムに収録されている新曲についてじっくりと語ってもらった。なお、通販サイト・FINDME STOREでは4月22日13:00までアルバムの予約を受け付けている。
取材・文 / 森山ド・ロ
水野あつ、Soodaにとっての音楽の原体験
──最初に、お二人にとっての音楽の原体験を教えてください。
水野あつ 僕の場合は母親がずっとピアノをやっていて、歌うことも好きだったのでその影響が強かったと思います。とにかく母親がすごく音楽好きで、幼少期から音楽に触れる機会が多かったですね。昔から母親は僕に「V系のバンドマンにさせる」と言っていたそうです(笑)。ピアノを弾ける環境もあって、3、4歳くらいのときから弾いて遊んでいました。親に対するドッキリじゃないですけど、3月3日にひな祭りの曲を披露したら喜ぶんじゃないかと思って練習したこともあって。今思うと、その頃からエンタメとして音楽を意識していたのかなと思います。
──最初はピアニストを目指していたんですか?
水野 そうですね。小学4年生のときに本格的にピアノを習い始めて、コンクールにもずっと出場していたので、当初はピアニストになろうと思ってました。でもピアニストの道って本当に険しくて、全国のコンクールで1位や2位を獲るくらい活躍をしないとなれないかもなと幼いながらに感じていました。
──幼少期に始めたピアノが今の音楽活動につながってる部分はありますか?
水野 はい。当時、楽譜を見ていると自分の中で納得できない音だと感じることがあって、最終的に自分流に変えて先生の前で演奏して怒られたことがありました(笑)。それでも、「ここは絶対に変えないと弾かない!」と言う子だったんですね。今考えてみると、誰かの曲を表現するためにピアノを弾いてるわけではなく、自分の中でクリエイトしたいという気持ちのほうが小さい頃から強かったんだと思います。
──そこからどのような音楽を聴いてきたのでしょうか?
水野 高校生のときにハマったRADWIMPSが僕にとっての原点だと思っています。野田(洋次郎)さんのきれいだけど不器用な歌詞が、自分の中ですごく救いになったんですね。友達とCDを貸し借りして、みんなでバンドの練習をするような青春時代を過ごして。ピアノ単体がアンサンブルに変わっていく面白さ、友達と一緒に音楽をやる楽しさを知りました。それと同時に、1人でDTMで曲を作るのも好きでした。
──続いて、Soodaさんの音楽の原体験は?
Sooda お母さんがRADWIMPSやGReeeeN(現:GRe4N BOYZ)をよく聴いていて、車や家の中でよく流して歌っていたのが小さい頃の思い出として残っています。お母さんの歌声も含めて、あのときの空気感が好きだった記憶がありますね。
──そこからどのような流れで自分で音楽をやることになったんですか?
Sooda 単純なんですけど、楽器が弾けたらカッコいいだろうなと思ったのが始まりでした。ギターを買ったのは小学6年生のときだったんですが、ギターに関することが全然わからなくて、すぐに挫折しました。それから3、4年放置して、中学3年生になったときにまた練習をし始めたら徐々に指が動くようになり、自分で何かを演奏できているような感覚を得られるようになったんです。それで楽しくなって、ほぼ毎日ギターを弾きながら歌うということが習慣になりました。
──その頃から、将来的に音楽活動をやろうと考えていたんですか?
Sooda 当時は、完全に趣味でやっていました。音楽をやっていくことに対して興味がなかったというよりは、夢を抱いて叶わなかったときのことを考えたら怖いなと思っていて。だから趣味でやっていこうというマインドでした。
──では、本格的に音楽を始めたきっかけは?
Sooda 今所属しているSINSEKAI RECORD(KAMITSUBAKI STUDIOから派生したレーベル)に入るお話をいただいたことですね。それまでは音楽活動を続けながらも、音楽で生きていける自信はなかったんです。
水野 恐怖というか、音楽に対して蓋をしていたという意味では自分も近い感覚でした。本当はピアニストになりたかったのに、小学校の文集で、「音楽関係の仕事に就きたい」とちょっとぼかしたことを書いたんですね。そもそも親や先生から音楽家の道は大変だと言われてきたので、自分は大学に進んだんです。音楽から離れていた時期もありましたが、それでも地道に音楽を続けてきて、この2、3年でいろんなライブに出演する機会をいただくことができました。そんな中でのターニングポイントは、就職の内定を辞退したときだったと思います。
──内定辞退はかなりの覚悟がないとできないですよね。
水野 そうですね。音楽は大変な道だと絶対にわかっていたし、今でもそう思いますけど、自分には音楽が適職なんだろうなという気持ちのほうが強かったんです。もちろん、どの道を選んだとしても苦労はあるとは思いますが、自分の場合はサラリーマンとして働くほうが大変な気がしたんですよ。一定の生活を担保されたうえで働くのと、何も収入を得られない可能性があるけど好きなことをして働く。その2つを天秤にかけて、音楽の道を選びました。
思考回路が違う2人
──2人別々に音楽の道を進んでいた中、どうやって雨宿りの結成につながっていったのでしょうか?
水野 僕はTikTokを通して活躍の場が広がったんですが、その影響もあって自分自身も日常的にTikTokを観ることが多くて、その中でSoodaちゃんの弾き語りの動画を見つけたんですね。めちゃくちゃいい曲を作る人がいるなと。楽曲をチェックしつつ、ネット上で軽く挨拶したことがあるくらいの距離感で、特に交流があったわけではないんですけど、僕のほうが先にSINSEKAI RECORDに所属していた中、そのSINSEKAI RECORDの方から「Soodaさんっていうシンガーがいるんですけど知ってますか?」と紹介されて。「知ってます」と答えたら「ユニットを結成しませんか?」と提案していただいたんですよ。
──そしてその提案に乗っかったと。
水野 まずは顔合わせをして、とにかくどういう人物なのかをお互いに知る必要があったのでいろんな話をしました。音楽以外のパーソナルな部分の話もたくさんして、その時点で「いい曲が作れそうだな」という手応えを感じました。自分の中で楽曲のビジョンが湧いて、「一緒にやってみよう」という話になった記憶があります。
──そのときから、雨宿りの活動に対して何か明確なビジョンがあったんでしょうか?
Sooda まず雨宿りというユニット名が決まったことで、私の中でユニットに対するイメージが固まっていきました。このユニット名には「日常の中にあるつらいことからそっと“雨宿り”するような音楽を届けたい」という思いが込められているんです。
──それぞれのソロ活動が、雨宿りでの活動に生きている部分もありますか?
水野 生かすというよりは、ベースになっていると思います。その中で、水野あつとSoodaの音楽がかけ合わさるとどうなるのか、という点は意識しているかもしれません。自分の中で、雨宿りの活動において水野あつとして曲を書くことは甘えだと思っていて、書く内容は分けています。それでも根本的な核はほとんど変わっていなくて、曲を作る際には最終的にSoodaちゃんのエッセンスが加わることを意識しています。説明するのが難しいんですけど、2人では思考回路が違うんですよね。
Sooda 私としては、Soodaのありのままを表現して歌っています。あつさんの歌詞を見て、そこから汲み取って感じたことをそのまま歌っている感じです。
──楽曲の制作はどのような流れで進んでいくんですか?
水野 水野あつ制作の楽曲に関しては、基本的に僕が制作したメロディをSoodaちゃんやアレンジャーさんに共有して、フィードバックをもらいながら進めていく流れですね。僕が最初に原型を出す形が多いです。
──事前に曲のテーマに関する話し合いはしないんですか?
水野 テーマというよりは、漠然と「次はこういう曲調がいいよね」「こういう雰囲気がいいよね」という話をする感じです。ふわっとした話をして、そのあと僕が曲の原型を作って共有することが多いですね。
次のページ »
雨宿りの活動は衝撃的な日々の連続