“愛”という言葉が嫌いな作者が孤独な龍と少年の“愛”を描く異類婚姻譚「ひとりぼっちがたまらなかったら」|作者・idonakaインタビュー

idonakaによる「ひとりぼっちがたまらなかったら」の単行本が発売された。同作は記憶を失った少年・紫太郎が、神社の龍神・ヤマブキに“お嫁さん”と勘違いされるところから始まる異類婚姻譚。種族や年齢、神と人などさまざまな違いを乗り越えた2人を描く物語は、2018年に「男子中学生をお嫁にしたい龍の漫画」としてSNSや同人誌で発表され話題となった。

コミックナタリーでは単行本の発売に合わせて作者・idonakaへのインタビューを実施。“愛”と“孤独”に焦点を当てた物語に込めたメッセージや、紫太郎とヤマブキが抱える孤独、そして愛を求め続けた2人がたどり着いた答えについてもたっぷり語ってもらった。

取材・文 / 伊藤舞衣

「ひとりぼっちがたまらなかったら」あらすじ

紫太郎が目覚めると、そこは見知らぬ神社だった。なぜここにいるのか、自分はどこから来たのか。曖昧な記憶に戸惑う中、紫太郎は自分のことを“お嫁さん”と呼ぶ龍と出会う。龍は神社に祀られている神で、100年もの長い間“お嫁さん”を待ち続けていた。2人は徐々に交流を深めていくが、ある出来事をきっかけに、紫太郎に秘められた過去が浮かび上がり……。孤独を抱えた2人が“愛とは何か”を巡るファンタジー&ヒューマンストーリーが展開される。

“愛”という言葉が大っ嫌い

──単行本の発売おめでとうございます! 「ひとりぼっちがたまらなかったら」は以前idonakaさんがSNSに投稿されて話題になった作品でもありますね。

ありがとうございます! あまりほかでは見ないような題材の組み合わせ方をしていて「受け入れられないかも」と考えていたので、当時はたくさんの人に読んでいただけてうれしかったですね。

──龍と少年の“愛”という物語には新しさを感じました。キャラクターやコンセプトはどのように決めていったのでしょうか。

オリジナル作品の制作にあたって何を描くかを考えたとき、まず「ファンタジー」と「異類婚姻譚」が浮かんだことが出発点になりました。そして大好きな「竜」も題材として取り入れようと思ったんです。ほかのマンガと類似しないものを作りたかったので、竜の中でもあまり多く描かれていないと感じていた「東洋の龍」を描くことにしました。

紫太郎とヤマブキ。

紫太郎とヤマブキ。

──idonakaさんはプロフィールでも「人じゃない生き物たちが好き」と書かれていますが、やはり龍を登場させることは初期の段階で決まっていたんですね。

はい。ヤマブキは、私が神様について幼い頃から感じていた思いも重なり龍神となりました。私は昔から、人は神様に自分や家族のための祈りを捧げるけど、神様のために祈る人はあまりいないのではと感じていて。昔話でも神様が主人公に助力をした後、用を済ませた主人公は早々に神様のもとを去ってしまうし、ただの舞台装置のように扱われていることが多いと思っていました。勝手な同情心かもしれませんが「神様って寂しいのでは?」と思ったことからヤマブキが生まれています。

──そのヤマブキの“お嫁さん”となるのが、少女ではなく少年というのも特徴的ですよね。

少女と異種族の異類婚姻譚はすでにいくつか有名な作品があったことや、「相手を少年で描いたらどうなるんだろう?」と思ったことが紫太郎誕生のきっかけです。

──西洋ではなく東洋の龍、少女ではなく少年など、王道の組み合わせをあえて避けた結果、紫太郎とヤマブキの2人が生まれたんですね。

2人のバランスには気を遣いましたね。ヤマブキは作中でこそ愛嬌たっぷりですが、第一印象は巨大な怪物のような風体で、逆に紫太郎はその隣にいてお互いを引き立て合えるようなキャラクターにしています。背は小さめで少し中性的、ちょっとひ弱で控えめな性格といったふうにイメージを固めていきました。あるとき魔が差してまつ毛をちょんちょんと描き加えたのですが、それが我ながらかわいくて「ビジュアルはこれで決まりだ!」と思いましたね(笑)。

「ひとりぼっちがたまらなかったら」第1章「山吹色の嫁入り」より。

「ひとりぼっちがたまらなかったら」第1章「山吹色の嫁入り」より。

──あはは(笑)。一見ほんわかした異類婚姻譚にも見えますが、お話が進むにつれて“愛”と“孤独”という大きくて重いテーマも浮かび上がってきます。

そうですね。この作品の一番のテーマは“愛”なのですが、私はそもそも“愛”という言葉が大っ嫌いなんですよ。私の家庭環境はとてもいいと言えるものではなく、過去の経験から“愛”という言葉を呪縛のように感じていたんです。「これが愛だよ」と言われると、言われた側はいいことではないと思っていても付き合わされることになるというか。ある意味呪いですよね。そんなふうに使われる“愛”の近くにいたので、私自身が“愛という言葉恐怖症”なんです。概念としての“愛”の温かさは大好きなのですが、言葉で軽く表されると苦しくなるというか。作中では紫太郎の家庭環境についても触れていますが、自分自身の子供時代を投影して描いている部分もありますね。

──そうだったんですね。でも、その“愛”をテーマにしたと。

題材を決める際、絵の上達のために自分があまり描いたことのない難しいものを選ぶことを意識していました。私にとって“愛”は描きづらいものでしたし、自分自身の過去と向き合って考えるいい機会になると思い、あえてテーマに据えたんです。「自分ならどう描くかな?」という好奇心で。いざ描いてみたら……描き手の心もしんどかったですね! 読んでて怖かったらごめんなさい。

2人だけの言葉にならない“何か”になってほしかった

──紫太郎とヤマブキはそれぞれ“愛”を追い求めていますが、紫太郎が求める“愛”のかたちは、家庭内での孤独によって歪んでしまっているように感じました。

紫太郎は、自己犠牲により家族から存在価値を見出されることで愛してもらえると考えているんでしょうね。ある意味勘違いでも正しくもあるその“愛”への切望は、紫太郎にどうしようもない痛みと破滅的な衝動を与えてしまいます。

「ひとりぼっちがたまらなかったら」第7章「ここは奈落の底」より。

「ひとりぼっちがたまらなかったら」第7章「ここは奈落の底」より。

──物語の終盤には、紫太郎が第1章からはとても想像できないような感情の爆発を見せるシーンもありました。一方でヤマブキも、池に落ちてきた紫太郎をいきなり“お嫁さん”に決めてしまうなど、“愛”への認識が普通とは異なります。

ヤマブキは、最初は自分を一番特別に思ってくれる相手なら誰でもいいというか、“お嫁さん”という記号的なものを欲しがっている……というふうに描きました。純粋で騙されやすいようにも見えますが、実はヤマブキにも問題があって。ヤマブキ自身も気づいていないのですが、ヤマブキは自尊心がとても高いんですよ(笑)。これは人間よりも上位の存在である神様ならではのナチュラルな傲慢さで、「人間のほうから来てくれて当たり前」「もらえるはず」だという気持ちが備わっていたから、100年間何も行動を起こさず、何も疑うことなく、池の中で待ち続けてしまったんでしょうね。

──なるほど。でも人との関わりがまったくなかったわけではなく、ヤマブキが祀られている神社の娘・朱羽とも交流はありましたね。

朱羽もヤマブキを救いたいという思いはあったのですが、家族や自分の将来を思ってその身を投げ出すことができませんでした。もちろんそれが普通です。でも、そんな朱羽はヤマブキにとって、これまでの人間たちと同じで“いつかいなくなってしまう人”になってしまうんですよね。

「ひとりぼっちがたまらなかったら」第3章「乞い焦がれるもの」より。
「ひとりぼっちがたまらなかったら」第3章「乞い焦がれるもの」より。

「ひとりぼっちがたまらなかったら」第3章「乞い焦がれるもの」より。

──神様ならではの孤独感ですね。それぞれ孤独を抱える紫太郎とヤマブキの間には、恋愛、家族愛、友愛のどれにも当てはまるような、でもどれとも断定し難いいろいろなものが入り混じった“愛”が生まれたように感じました。

2人の間にはどの種類の“愛”という言葉にも固定されない、さまざまな感情が入り混じった一言で片付けられない気持ちを描きたくて。いろいろな“愛”という言葉を突き抜けて、2人だけの言葉にならない“何か”になってほしかったんです。だから、そう感じていただけたならうれしいですね。