コミックナタリー PowerPush - 甘詰留太「いちきゅーきゅーぺけ」
世紀末マンガサークル青春譚 甘詰留太、憧れの山本直樹と1990年代を語り合う
「キミの名を呼べば」は「BLUE」から生まれた(甘詰)
──ご自分の作風にも影響を与えています?
甘詰 そこはもう、与えてないわけがないです。というか、エロマンガ家としてデビューしたあとしばらくして、「キミの名を呼べば」という短編を描いたんですが……。えーと、今日持ってきたんですけど、屋上が出てきて、女の子が出てきて……(単行本を広げて見せる)。
山本 あ、なんか見たことのある構図が描いてある。
甘詰 そうなんです。エロマンガ家になってから、原点回帰じゃないですけど「自分が好きだったエロマンガってどんなのだっけ?」と思ったときに、「BLUE」だなと思って。「BLUE」は成年誌の作品ではないですけど。それで屋上を舞台にした作品を1本描こうと思って、できたのが「キミの名を呼べば」なんです。
山本 なるほど。屋上はいいですよね。割と「なんでもあり」の空間にすることができて。
甘詰 僕が魅力を感じたのは、屋上って解放感があるようで、フェンスがあって……。
山本 実は行き止まり。
甘詰 ですよね。でも、フェンスは自分を押しつぶそうとする壁じゃなくて、冷静に考えてみると、幼い自分たちを守ってくれるフェンスなんだ、と僕は思ったんです。
山本 そこまでは考えてなかったなぁ。
甘詰 「BLUE」のラストは、フェンスを飛び越えて落ちてくる幻想を何度も見るというものですけど、「キミの名を呼べば」では、飛び越える勇気もないから、金網の刺に指が刺さって血が出てくるのを見ると生きている気がする……という結末に落ち着きました。そこは違うのですが、これは僕の中では「BLUE」を読んでできた話だと思っているんですね。
山本 ありがたいですね。
甘詰 実はこの話はOVAにもなってて、そんな意味でも、僕の代表作だと思っています。山本先生のおかげです。
1990年代のエロマンガを取り巻く雰囲気は、うまく言語化できない(甘詰)
──甘詰先生のデビューは成年コミック誌ですよね。それは山本先生の作品をはじめエロマンガに触れてきて、憧れの存在だったからですか?
甘詰 好きだったエロマンガ家とか読んでいた雑誌に憧れはありましたし、エロマンガを描くようになってから、そういう人たちと同じ誌面に載りたいとか、あの雑誌に描きたいとか、そういう気持ちも当然ありました。でも、別に憧れだったからエロマンガを描こうと思ったわけじゃないです。同人誌でずっとエロを描いていたので、自分の持っているスキルはそれだけしかない、つまり、少しは自信があったエロを武器にして、マンガ家として戦おうと思った感じですよね。
山本 「いちきゅーきゅーぺけ」には新田真子さんとかの名前が出てくるよね。懐かしいな。
甘詰 僕がコミケに行きだした頃は、新田先生はもうコミケの大手サークルでしたね。
山本 雑誌はどうでした? プチ・パンドラ(新田真子が表紙を描いていたエロマンガ誌、一水社)は、もう商業デビューしてから手にとったんだけど、衝撃的でしたね。
甘詰 僕はエロマンガ誌は、レモンピープル(あまとりあ社)派でしたね。
──「いちきゅーきゅーぺけ」で描かれる90年代のエロマンガについては、お2人はどんなご印象をお持ちですか?
山本 「ありがとう」を週刊連載していて、とにかくずっと部屋でマンガを描いていたものだから、その頃の出来事にはあまり実感がないんですよね。「BLUE」が有害図書指定されて、怒られたくらいかな。その前に遊人さんが怒られてね。
甘詰 「ANGEL」ですよね。1989年に宮崎勤事件があって、少し時間を置いて有害コミック運動が起こって、それからコミックに成人向マークを付けてゾーニングをするようになった。「BLUE」はその過渡期に問題視されて……。
山本 最初の版元だった光文社が、成年向マークをつけないという方針だったんだよね。それで回収、絶版、廃棄、みたいな流れになった。
──94年ごろになると、ゾーニングが進んだことで「お墨付き」がついた状態になって、今度は成年コミックにバブル的な需要が発生していたと聞きます。
山本 快楽天(ワニマガジン社)の創刊はその頃?
甘詰 1994年ですね。
山本 最初から表紙は村田蓮爾さん?
甘詰 そうです。ちょっと衝撃的でしたよね、おしゃれな空気で。
山本 面白かったですよね。コンビニでよく目立ちました。
甘詰 あの頃のエロマンガを取り巻く雰囲気は、うまく言語化できないんですよね。新しい絵柄が出てきたり、新しい「遊び」がマンガの中で起こっているような、そんな空気を感じていたというか……。めちゃくちゃな、ライブ感溢れるマンガも多かった。
劇画村塾では、酒飲んで騒いでた(山本)
山本 甘詰さん自身のデビューは何年?
甘詰 98年です。22か23のときですね。
山本 僕も24ですから、大体似たような感じですね。大学を5年で一応卒業してから、1年間親の脛をかじって、家賃だけ送ってもらって。
甘詰 マンガを描きはじめたのはいつ頃なんですか?
山本 大学2年生くらいからですね。遅いんですよ。それまでも、読むほうのマニアではあったんですけど。「そんなにマンガのことばっかり言ってるなら、自分で描けばいいんじゃない?」って友達に言われて。そういう手があったか、と(笑)。
甘詰 それで劇画村塾に?
山本 そうです。1人でうだうだしていてもラチがあかなくて。当時、高橋留美子さんがスーパースターだったから、劇画村塾は高橋さんが出たところだというんで、受けてみようかなって。それで「マンガ家になるぜ!」みたいな、サークル的なものよりもっとギラギラしているタイプの人たちと、初めて接点ができた感じでした。
──では劇画村塾では、マンガについての熱い議論をされたり……。
山本 いや、酒飲んで騒いでただけ(笑)。同期はとがしやすたかと、年上だけど「ドラゴンクエスト」の堀井雄二さんと、あと大野安之くんという天才がいてね。
甘詰 大野さんは大学に入ってから知って、単行本を集めました。「That's!イズミコ」とか。
山本 ホント、彼は天才ですよ。大野くんのところに遊びに行ったとき、PCで絵を描くのを初めて見たんですよね。すごいビル街とかをドットで描いてて、衝撃でした。
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あらすじ
物語は1994年。大学入学を機に上京した純平は、エロマンガが大好きなオタク予備軍の少年。マンガサークル入部で純平の本格オタク人生が幕を開ける♡甘詰留太の“半自伝的”青春コメディ!!
甘詰留太(アマヅメリュウタ)
1974年生まれ。早稲田大学のマンガサークル「いじけっ子マンガ集団」出身の愛とエロのマンガ家。他の代表作に「ナナとカオル」「年上ノ彼女」「ハッピーネガティブマリッジ」など。
山本直樹(ヤマモトナオキ)
1960年2月北海道生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒。大学4年生の時に小池一夫主宰の劇画村塾に3期生として入門しマンガ家を志す。1984年に森山塔の名義で自販機本ピンクハウス(日本出版社)にて「ほらこんなに赤くなってる」でデビュー。同年、山本直樹名義でもジャストコミック(光文社)にて「私の青空」でデビューした。森山塔のほか塔山森の名義でも成人向け雑誌や青年誌などで活躍。1991年には山本直樹名義で発表した「BLUE」の過激な性描写が問題となり、東京都条例で有害コミック指定され論争になった。1992年、石ノ森章太郎が発起人となり結成された「コミック表現の自由を守る会」の中核として活発な言論活動を行いマンガの表現をめぐる規制に反対。その後も作風を変えることなく「YOUNG&FINE」「ありがとう」「フラグメンツ」など数々の問題作を発表した。早くから作画にコンピュータを取り入れ、生々しさをともなわない硬質な筆致から女性ファンも多い。その他の代表作にカルト教団の心理を題材にした「ビリーバーズ」、連合赤軍の革命ドラマ「レッド」など。また「分校の人たち」を、太田出版のWEB雑誌・ぽこぽこに連載中。