澤田空海理「遺書」インタビュー|メジャーデビューを利用して、ただ1人に届けたい初のラブソング

さまざまなアーティストへの楽曲提供も行うシンガーソングライターの澤田空海理が、12月6日にシングル「遺書」でメジャーデビューした。

これまである1人に向けた楽曲をいくつも発表し続けてきた澤田は、2022年のアルバム「振り返って」ですべて書き尽くしたとして、彼女がテーマの作品作りに一度終止符を打つことに。しかし、メジャーデビューのタイミングでマネージャー陣から「身を削って書く曲を聴きたい」と後押しされ、再び彼女に対する思いと向き合ったところ、まだ書きたいことがしっかり残っていたことに気付いたという。

こうして自分の本当の感情をさらけ出し、完成させた「遺書」を“初めてのラブソング”だと語る澤田が、この楽曲に込めた思いとはなんなのか。この特集では澤田の過去の楽曲を紹介しながら、彼の気持ちの変遷や今作の制作過程に迫っていく。

また特集の冒頭には澤田による私信を掲載。「遺書」を制作するにあたり、曲のテーマとなる人物に宛てた内容になっているので、インタビューと合わせてぜひ一読を。

取材・文 / 蜂須賀ちなみ

「遺書」という曲を書きました。

僕はあなたがいなければきっとろくに芸術にも触れず、手の届く範囲のものだけを享受して、何が美しくて、何が美しくないのかなんて気にも留めず、必要のない負の感情を全部真っ直ぐに受け止めて、周りに役立たずの烙印を押されて、曲のタイトルもまともに考えられないまま、なんとなく幸せな日々を過ごしていたのだと思います。

これは全部八つ当たりで、勝手に捻じ曲がったのです。それでも、直接伝えたけれど、あなたが僕の音楽に与えたものは計り知れません。与太話のことなんかじゃなくて、もっともっと近くにあるもの。あんな分かりきった呪いの歌ではなく、歳をとるたびに衰えて平らになっていく残り滓みたいな感性をどうにか支えていたもの。だから責任をとってくれということではありません。優しさをしゃぶりつくして、それなのに自己実現のことしか考えていなくて、どれだけあなたが心配してくれたかにたどり着く頃には加虐性に塗れた曲が何曲も出来ていて、出していて、返したいなんて言ってそれはただもう一度自分を見てほしいだけで、くだらない人生だと思いました。だからおそらく一生で一回の、この先、僕の原点として扱われることになるこの機会に、もう一度だけあなたの歌を書くことにしました。堕ちるならとことん堕ちます。きっと見せたかった生き方はこんなんじゃなかったけれど、今更取り繕う方が汚い気がしました。これが誠実さだと言い切る気は微塵もなく、ここまですべてが最低の塊で、あまつさえそれを文章にまとめて俯瞰できている自分を演出するところまで含めて最悪の生き方です。でもその生き方を選びました。メジャーの一曲目にこんな曲を選ぶこと、その中に「僕は変わらないから安心してくれ」なんてメッセージは無く、一つのしょうもないエゴがあるだけだった。場合によっては人生を決定づけてしまう一作も簡単に捨てられるほど、あなたは代わりが効かない。歌詞を愛してくれてありがとう。似通ってきて、手札も少なくなって、一作ごとに魅力がなくなっていくのに気づかないふりをしてくれてありがとう。気づいていたのに言わないでくれてありがとう。天才だと褒めてくれてありがとう。せめて、あなたがふと街頭や店中で僕の曲を聴いてしまった時に失望されない曲を書きます。

澤田 空海理

僕より澤田空海理かもしれない

──澤田さんはオーストラリアに留学していた高校時代に、時間を持て余してギターを手に取ったことをきっかけに音楽を始めたんですよね。同時期にボーカロイドを用いた作曲も始めていますが、さまざまな表現の選択肢がある中で音楽を選んだのはなぜだったんですか?

傲慢に聞こえるかもしれませんが、「できると思ったから」だと思います。当時は憧れのアーティストも特にいなかったんですけど、「自分は歌を作れるんじゃないか」という漠然とした直感があったんですよ。実際に作り始めたらすごく楽しくて、ほかのエンタメよりも音楽制作にのめり込んでいきました。

──そして今では作詞、作曲、編曲を自身で行い、シンガーソングライターとして活動するだけでなく、他アーティストへの楽曲提供も行っていると。2017年にSori Sawada名義でリリースされたアルバム「フラワーガール」が高い評価を得ましたが、このアルバムはご自身の失恋経験から生まれた曲を収録した作品なんですよね。

はい。今自分がやっていることの原点は間違いなく「フラワーガール」だと思います。制作中から明らかに手応えがあったんです。僕は1つの幸せからは1曲しか書けないのに、1つの不幸からは5曲くらい書けるタイプで、「幸福と不幸では積んでいるエンジンが全然違う」と気付いたのはこの時期でした。自分の人生を切り売りして作る作品の力みたいなものを知った時期でもあります。

──澤田さんのキャリアには3つの転換点があったようにも思います。1つ目は、自分の声で歌い始めたこと。「フラワーガール」は7人のボーカリストを迎えて制作したアルバムでしたが、2019年リリースのミニアルバム「昼日中」から自分で歌った曲も収録するようになり、2020年以降にリリースした曲はすべてご自身で歌っています。この変化はどういった理由からですか?

信用している友達から「自分で歌いなよ。せっかくいい声なんだから」と言われたんです。「声がいい」と言ってもらえるなんて、人生の中でまったく想定してなかったことだったんですが、そう言ってもらえたことで背中を押してもらえた感覚がありました。

澤田空海理

──2つ目の転換点は、たびたび楽曲のモデルにしてきた女性との出会いでしょうか。「またねがあれば」「望春」「魚と猫」などいくつかの曲のモデルになっている方で、2022年のアルバム「振り返って」リリース時には「アルバムを通して明確に1人のことを書いています」とおっしゃっていました。新曲「遺書」もその女性に宛てた曲かと思いますが、資料として事前にいただいた澤田さんの文章(インタビューの冒頭に全文を掲載)によると、クリエイターとしての価値観や心構えにおいて、その方から大きな影響を受けたようですね。

「僕より澤田空海理かもしれない」と思うくらいの存在です。昔の僕は、映画も観ないし、本も読まないし、音楽もあまり聴かないような人間だった。例えば絶望を歌おうと思っても、「じゃあ絶望から何が連想できますか?」「はい、闇!」とノータイムで答えるような、すごく浅慮な人間だったんです。その子は僕の浅い部分を全部変えてくれて、もちろん相手は僕を変えようと思っていなかったんでしょうけど、自分としては、その子が普段見ているものを教えてもらったり、立ち振る舞いを見ていたりしているうちに、「芸術ってこういうものじゃないか」と教えてもらったような感覚があります。そこから「もしかして、僕が今やっている音楽ってすごく浅いのかもしれない」と気付かされて、曲を作るときの考え方も変わっていきました。「曲の良し悪し以前に、音に自分の意思をどれだけ乗せられるかが大事なんだ」とか、「意志を込めるにしても、歌詞で“こう思っています”と言うだけが正解じゃない」「すべてが芸術を形作る要素なんだから、歌の1つにしろ、楽器にしろ、もっと深くまで突き詰めていかなきゃいけないんだ」という感じで。

──その女性と出会っていなければ、澤田空海理の作風は今のようなものではなかったと思いますか?

そもそも今、音楽をやっていないと思います。22歳あたりでやめて、企業で働いていたと思います。

──それほど大きな存在だったということですね。そして3つ目の転換点が、2021年に配信シングル「夜気」をリリースするタイミング。ここで活動名義をSori Sawadaから本名の澤田空海理に変更しています。シングルの収録曲「与太話」はその女性との別れを直接的に歌った曲でしたが、この曲の誕生が、本名で活動するようになった背景と深く関わっているそうですね。

自分の経験を具体的に書いた曲を相手は生身で受け取るのに、僕は“Sori Sawada”という盾があるという状態がフェアじゃない気がしたんです。あとは「徹頭徹尾、僕の話である」という曲を本名で発表しないのは気持ち悪いという感覚もあって。言ってしまえば自己満足というか。聴いた人からしても、曲に書かれた本人からしても、「本名にしたからってなんなの?」という話ではあると思うんですよ。だけど僕の生き様として、このロマンチシズムは絶対に大事にしたかった。あのタイミングで本名にした意味はちょっとうまく説明できないんですけど、僕だけがわかっていればいいかなと思っています。

幸せからは何曲も書けない

──2022年2月には「与太話」も含むアルバム「振り返って」をリリースされて、アルバムを通して別れを描くことで、物語に一旦終止符を打ちました。その次のリリースが、同年12月の配信シングル「コフレ」。リリースのなかった10カ月間は、どのように過ごしていましたか?

「振り返って」の収録曲を全部書き終えたときに「やり切った」と思ったので、次の曲を書く気にはならなかったし、幸いお金にも困っていなかったので書く必要もなく、ただただ堕落してました。その時点ではまだクラウンさんからデビューする話も始まっていなかったので、「何月にリリースをしましょう」というスケジュールも明確には決まっていなくて、僕が新曲を提出すれば、事務所が配信の準備をしてくれるという流れで。「コフレ」を書いたのも何か転機があったわけではなく、「そろそろ活動しなきゃ」という感じでした。

──「コフレ」は、2023年4月リリースのEP「号外」にも収録されました。「号外」は「最初で最後の“倖せ”を題材にしたEP」と銘打っていましたが、「振り返って」の反動で、幸せな曲を書きたくなったということでしょうか?

「書いてみよう」と思いはしなかったんですけど、「悲しい曲は書き切った」という自覚があったのと、「そろそろ幸せな曲を書かないと、ちょっと自分の精神がよくない方向へ向かうぞ」という感じで防衛本能のようなものが働いたのかもしれません。

──「振り返って」のリリース時にもインタビューさせてもらいましたが、確かに澤田さん、精神的に参っている様子でしたよね。

はい。「号外」に収録されている曲は、身近な人の幸せな出来事をきっかけに書いたものなんですよ。「29」は幼稚園からの幼馴染が婚約したことを受けて書いた曲だし、「倖せ」は、僕が心身ボロボロだった時期に助けてくれた友人夫婦のことを書いた曲だし。自分が幸せな曲を作りたいと思っていた時期と「この人たちのことを書きたい」という気持ちが偶然重なって、あのEPが生まれました。いいタイミングだったのかなと思ってます。

澤田空海理
澤田空海理

──あくまでも「最初で最後の“倖せ”を題材にしたEP」なんですね。

そうですね、最初で最後です。次に幸せをテーマに曲を書くことがあるとしたら、僕自身が結婚したときとかじゃないですか? でもそのときはEPにできるほどの数の曲は生まれないはずなので。

──そうなんですか?

僕は負の感情のほうがエンジンが圧倒的に大きいと思っているから、自分の幸せからは何曲も書けない気がしているんです。まあ、実際そうなってみないとわからないですけどね。こんなこと言って5曲ぐらい書いていたら、そのときは笑ってください(笑)。