SALUがメジャーデビュー10周年を記念してベストアルバム「IN MY ARMS」を8月30日にリリースした。
本作には楽曲総再生数が1億回を記録している「Good Vibes Only feat. JP THE WAVY, EXILE SHOKICHI」をはじめ、アルバムの特設サイトで行われた楽曲人気投票の結果を受けてセレクトされた全18曲を収録。SALUが昨年出演したフェス「POP YOURS 2022」で披露し、YouTubeで公開されたパフォーマンス映像が150万回再生を突破している「In My Life」のアコースティックバージョンも収められている。
音楽ナタリーではファンの投票で決まった収録曲の話題を中心に、SALUが駆け抜けた2010年代の日本語ラップシーンについて深く話を聞いた。また特集の後半では、SALUと親交の深いSKY-HI、清水翔太から届いたコメントも掲載する。
取材・文 / 宮崎敬太撮影 / 雨宮透貴
BACHLOGICさんは僕にとって教授って感じ
──メジャーデビュー10周年おめでとうございます。僕が最初にSALUさんに取材したのはBACHLOGICさん主宰のレーベルO.Y.W.M.からリリースした1stアルバム「IN MY SHOES」(2012年3月発売)のときでした(参照:SALU「IN MY SHOES」インタビュー)。
あっという間ですね。でもあの取材は印象に残ってます。だって1時間くらいしゃべったのに実はレコーダーが回ってなくて、追加でもう1時間話したから。僕もあれからけっこうインタビューしてもらいましたけど、ああいう体験はあのときだけでしたね(笑)。
──あとにも先にもあんな失態はあのときだけです……。僕的には2012年のヒップホップシーンの雰囲気から考えると「時間が経ったな」という気がします。
確かに。そういう意味ではだいぶ前という感じがします。
──今回リリースされるベストアルバム「IN MY ARMS」はファン投票で収録曲を決めたそうですね。
はい。ファン投票の結果と各種サブスクの再生数とを照らし合わせて決めました。
──4thアルバム「INDIGO」(2017年5月発売)の収録曲が多いですよね。僕は最初に「INDIGO」を聴いたとき、ラップもトラックの雰囲気もいわゆる日本語ラップのセオリーとかけ離れていてすごくびっくりしたんです。「なんでもっとラップしないんだ?」みたいな。でもあとから振り返ってみると、SALUさんがこのときに選び取ったスタイルが現在のヒップホップシーンの主流になっていくんですよね。
そっか。今は普通になったか……。確かに「INDIGO」はわりとポップス的な聴きやすさがありますよね。再生数も多いんですよ。ただ、作ってた当時はトレンドみたいなことはまったく意識してなかったです。僕はいつも思い立ったらすぐやっちゃうタイプだし。
──「INDIGO」リリース時のインタビューでも「普遍的な作品を作りたい」というニュアンスの発言をされてました。
確かにそういう気持ちで作ってました。僕、メジャーレーベルからスタジオアルバムを5枚出して、同じ数のミックステープも作って、あとフルアルバムみたいなEPを何枚か出してるから、もう個々の作品をどういう気持ちで作ってたかあんまり覚えてないんですよ。個人的に好きな曲はけっこうミックステープに入ってるんだけど、ファンの方に選んでいただくといい意味で「こういう選曲になるんだな」と思いました。その中で「In My Face」(2016年4月発売の3rdアルバム「Good Morning」収録曲)が入ってきたのは意外でした。あとCDの収録時間の関係で入れられなかったけど「SAINT」(2021年3月リリースの配信シングル)もけっこう票を入れてもらって。
──収録曲のクレジットを見ると、BACHLOGICさんのプロデュース曲が多いなと思いました。そもそもSALUさんとBLさんはどのように出会ったんですか?
SEEDAさんに誘ってもらったSCARSのEP(2010年12月リリースの「THE EP」)のレコーディングでBLさんのスタジオを使わせてもらって。すっごく気さくな関西の方というイメージでした。音しか知らない状態でお会いしたので、最初に会ったときは「本当にこの人があのBLさんなのかな?」って思いましたね(笑)。
──確かにBLさんは多作かつカッコいいトラックを作られる方で、シーンの誰もが知る存在なのに、ほとんどメディアに出てこなくて、当時は都市伝説みたいな存在でしたよね。
そうそう(笑)。僕もそんな感じだったんですよ。そこから一緒に曲を作らせてもらうようになりました。僕にとっては教授って感じかな。NORIKIYOさん、SIMONさん、OHLDくんとかは先輩って感じだったけど、BLさんとは先生と生徒みたい感覚でした。AKLOさんも同じクラスの生徒。
──ちなみにSEEDAさんとはどのようにつながったんですか?
今名前が出たOHLDくんがきっかけです。ちょうどOHLDくんがSEEDAさんと曲を作り始めた頃で、僕はSEEDAさんのファンだったんですよ。その頃の僕には「SEEDAが俺の音楽を聴いたら絶対にヤバいと思う」という根拠のない自信があって。そしたらOHLDくんから「今度レコーディングあるから帰りに寄るよ」って、本当に会いに来てくださって紹介していただいたんです。
──そのときはもう厚木にいたんですか?
はい。21くらいの頃ですね。高校の途中で神奈川県の鵠沼に引っ越したんですね。神奈川で大学にも行って。でもソッコーで辞めて。そのあとシンガポールに行ったりしてました。
──シンガポールのラーメン屋さんで働いてたとおしゃってましたよね。
はい。向こうでもSEEDAさんのご活躍をネットで追いかけてて、日本に帰ってきて厚木に住んだんです。
──なんで地元の札幌や鵠沼ではなく厚木だったんですか?
あぐらCREWっていう人たちがいたからですね。ラッパーがいたのが一番大きな理由でした。もちろん札幌にもいたんですけど、札幌に戻るイメージは最初からなくて。シンガポールから帰るとなって、成田空港に着いて、厚木行きのバスに乗って着いたらあぐらCREWのメンバーが待っててくれた。そこから2、3年くらい厚木のトラップハウスであぐらCREWのみんなと暮らしてSEEDAさんまでつながってるんです。
──知らなかったです!
そうですよね。僕もこの話はあんまりしたことがないかも。
SALUのルーツにある札幌のヒップホップシーン
そもそも僕は札幌で今FRMEって名前で活動してるラッパーと一緒に6人ぐらいのグループを組んでたんですよ。16歳くらいの頃。で、当時の札幌はフリースタイルラップがものすごく流行ってたんです。これも意外と知られてないけど。
──16歳というと2004年くらい。UMB(MCバトル「ULTIMATE MC BATTLE」)すらまだない頃ですね。
そう。でも文化としてめっちゃ根付いてて、クラブでフリースタイルができないやつはラッパーと名乗っちゃいけないぐらいの感じだったんですよ。たぶんこれはTHA BLUE HERBとMic Jack Productionの影響だと思います。
──当時の札幌はそんな感じだったんですか!
THA BLUE HERBもMic Jack Productionもすごく真摯にヒップホップ文化と向き合っていたじゃないですか。そんなラッパーとしての在り方に、僕らの世代は憧れました。「ラッパーたるものフリースタイルはできて当たり前」みたいなノリでした。そんな中、当時のアメリカのトレンドを取り入れたギャングスタラップ、ノースコースト(NORTH COAST BAD BOYZ)の方たちがご活躍され始めて。僕が高校生だった頃のすすきのはめちゃくちゃスリリングでしたよ。
──TBHとN.C.B.Bのスタイルが混在するバランス感って、SALUさんのこの10年の活動に大きく反映されてる気がします。
THA BLUE HERBもN.C.B.Bもめちゃくちゃ聴いてましたからね……。N.C.B.Bは特にYOUNG DAISくんが好きで、ラップもファッションも真似しまくりました。SEEDAさんに影響を受ける前の、僕のロールモデルだったんです。
──いい話ですね。TBHから刺激を受けたラッパーの方たちは、ファッションやトレンドではなく、泥臭くヒップホップを追求する感じというか。
札幌はかなりそこが強かった気がします。「ラッパーはこうじゃなきゃ」っていう。
あぐらCREWとの出会い
──2000年代初頭という時代感もありますよね。メインストリームのラップはチャラくて、アンダーグラウンドこそ正義という雰囲気があったというか。圧倒的に情報がない時代でしたからね。
そんな感じで神奈川に来たんですけどフリースタイルする人が全然いなかったんですよ。時代的にはサウスが流行ってて。ダンサーにはおしゃれでイケてる人がいっぱいいました。それで「なんかつまんないかも……」と思ってたら、厚木のクラブでウイスキーの瓶を片手にフリースタイルしてる人いたんですよ。それがあぐらCREWのメンバーの1人で。
──サグなシーンですね(笑)。
ホント「映画から出てきた人みたい」と思いました(笑)。それで僕もフリースタイルを返したら「え、できんの?」みたいな顔されて。「やるねえ、キミ」みたいなことになって、シンガポールから帰ってきたあとに住まわせてもらうトラップハウスに招待されたわけです。
──めちゃめちゃヒップホップ的な出会いだったんですね。
僕はこういう人を探してたし、彼らも僕みたいな人を探してたんだと思う。
──一連の話を聞いて、以前SALUさんが「曲を作るとき、最初にフリースタイルで録って、あとから細かいリリックを直していく」と言ってたこととつながりました。
それはあるかもしれない。例えば客演の場合、サビやヴァースが入ったトラックが送られてくるんですけど、最初に聴いた段階で実はある程度頭の中ですでに完成形が見えてるんです。ただそれを認めたくない、もっとできるっていう自分もいるからあれこれいじったりはするんだけど、最終的にたどり着くのはほぼほぼ最初に頭に浮かんだものだったりする(笑)。
──活動最初期の「IN MY SHOES」の頃からそういう作り方だったんですか?
OHLDくんと作ったものはわりとそうかもしれないです。BLさんと作った曲は、BLさんの中にサビのトップラインやヴァースのイメージがあって。トラックを作る方たちには皆さんそれぞれイメージがあると思うんですが、BLさんは作り初めの段階ではそれを教えてくれないんですよ。だから僕がレコーディングまでに書いてきたラップを聴いてもらって、BLさんのイメージと合ってると「いいな」って言ってくれるし、イメージと違っても面白いと思ってくれたら「これはこれで面白いな」みたい感じでしたね。でもたまに「あれ?」とか言われるんですよ(笑)。それはたぶんBLさん的に全然違うことを僕がしてて。そこで初めてディレクションを体験するんです。広くいろんな人に聴いてもらうためには、自分のペースだけじゃなくて、グリッドを細かくしていく作業が必要なんだよって教えてもらいましたね。
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Watsonくんとかralphくんを聴いちゃうと