“いい歌”の定義
──福岡に帰ってご自身の生活は変わりましたか?
お酒の量が明らかに減りましたね。家で軽く一杯とかそれぐらいになりました。外に出てスイッチが入ったら記憶がなくなるぐらい飲んじゃうんですよ。気付いたら道で寝てたりとか。そうなるとやっぱり次の日に響くんですが、今はそういう暮らしはしていないですね。
──なるほど(笑)。このアルバムを聴いて、生活、人生、音楽というものがここまでナチュラルに融合している作品はなかなかないなと思いました。音楽的には70年代のアメリカンロックに近いものを感じたんですけど、生活や人生と密着している音楽だから、すごく身近でフレンドリーに感じます。極端なものやエキセントリックさを求めて、それを個性であり刺激であると思う人も多いと思うんですが、全然そうじゃないところで発想されている気がして新鮮でした。小山田さんとしてはどういう部分にこだわって作られたんですか?
70年代のアメリカのロックというと……。
──わかりやすいところで言えば、ニール・ヤングとか。
ああ、あの感じはすごく好きですね。でも、そのあたりはあまり意識していないです。根底にあるのは日本のフォークソングですね。高石ともやさんとか。親の影響もあって自分の根っこにあるのはそこなんだろうなと思いながら、スピッツやミスチル、エレカシ、チャゲアス、B'z、イエモン、宇多田ヒカルさんがいたあの時代……ざっくり言ったら90年代J-POPで自己形成しているのかなと。けっこうカオスな感じがしませんか?
──そうですね。フォークソングを聴かれていたという話を伺ってハッとしたんですけど、アコースティックの曲をやってもネオアコースティックじゃないというか、もっとフォークに近いような印象を受けたんです。70年代のアメリカのロックとかそれ以前のフォークソングの影響というものがなんとなく音楽から感じられて。そこも小山田さんの特徴なのかなと。
確かにフォークがこれだけ根っこにある人はあんまり出会ったことがない気がします。
──フォークというと、生ギターで声と言葉を聴かせる音楽という印象がありますけど、やはり言葉で伝えるところに重きを置いていらっしゃるんですか?
そうだと思います。物心つく前からずっと慣れ親しんでいるフォークミュージックというものがあって、それが自分にとって原点なので。そこからポップミュージックにいったときも、とにかく「その人が何を歌っているのか」というところにフォーカスして音楽を聴いていました。なのでアレンジについて考え出したのって、大学生ぐらいになってからなんですよ。ほかの楽器はそこまで聴いてなかった。だから特に歌に関して思いが強いところがあって。
──andymoriもALも今やられているバンドも、ちゃんとした歌が中心にあるという共通点はありますよね。
そうかもしれないです。歌が中心のバンドが好きなので。
──歌が共有される、親しまれているということは、小山田さんにとっても音楽の受け取られ方として理想に近い形なんですか?
はい。やっぱりいい歌を書きたいなと思うんですよね。そのことばっかり考えています。
──小山田さんにとって“いい歌”の定義とは、どんなものですか?
それを聞きますか(笑)。いい歌……1つ言えるのは、色褪せないというか、何年経っても好きだと思えるところだと思います。
──それは曲を書くときに意識しているところですか?
そうですね。でもそれを意識しても難しいと思うんですよ。結局そこに自分の思いをどれだけ強く込められるかどうかだろうなという気はしていて。自分のそのときの感情を一番自然な形で解放できて、閉じ込められるかどうかということ。
──例えば歌詞に時事的な内容を込める人もいますよね。でもそういう歌詞ってそのときはリアルに響いても、何年か経って聴くと、何のことを言っているのかわからなくてあまりピンとこないこともあって。でもこのアルバムの歌詞を見ると、時事的な要素はほとんどないように思います。
その時々でいろいろな考え方や思想を持つことはあるし、思想を持っていても、それは時代と共に変わっていくものなんだろうなという感じはしているんです。なので揺れ動かないものというか、時代に流されないものってなんだろうということは考えたりします。グッと来るもの、自分の感覚に響いてくるもの……そういうものを選んで作っていくと時事ネタは含まれないというか、それが残らないということなのかもしれないですね。
──例えばアルバムの収録曲「あの日の約束通りに」では「暗くなるようなニュースには今は触れないでおこうか」という一節がありますが、このあたりに小山田さんの姿勢が現れている気がします。
確かに今言ったことはそういうことですよね。
──僕は文章を書いていると、そのときの自分の感情を強く込めたすごく思い入れのある文章ほど、あとから読み返すと恥ずかしかったりするんですよ。歌を作る方もそういうことはあるんですか?
僕もTwitterとかではものすごくあります(笑)。「みんな愛してるよ!」とか言って、あとで「恥ずかしい!」という気持ちになることはありますよ。同じことは歌でもありますね。特に若い頃はよくありました。なので、だんだん精査して形に残すようになりましたね。まず、形にするかどうかの段階があって、次にそれを人に聞かせるかどうかというのがあって。さらにそれをレコーディングして、人前でライブをするという4つのふるいがある中で、なるべく恥ずかしくないものを作れるようになったような気がします。
──精査した結果、削ぎ落とされるのはどういうものなんですか?
それこそ時事ネタのような曲が削ぎ落とされることはよくありますね。“ネタ”って言うのもちょっと言葉としてよくないですけど。なんとなく規定されちゃうというか、自由度がなくなっちゃうような気がして。フラットな感覚でいたいという気持ちがあるんです。実際に完全にフラットでいることは不可能だし、フォークの方の中にはすごく強い思想を持っている方もいらっしゃいますけど、その中でやっぱり「これは正しいんだろうなあ」と思いながらも自分の実感が持てないままに賛同してしまうのは、よくないなと思っています。
“気付き”を曲にしていく
──楽曲はどういうきっかけでできることが多いんですか?
おそらく、自分の中で落ち込む状態が長く続く時期があって、そこからちょっとふわっと立ち上がるときに書けることが多い気がしますね。「なんとなくこのメロディがずっと頭から離れないから作ろう」と思うこともあるんですけど。例えば今回のアルバムに収録されている「ローヌの岸辺」はフランスのアルルのローヌ川の岸辺を見たときの情景を歌っているんですが、それまで自分の中でモヤモヤして解決しなかったものがあって、それがふっと楽になるような気持ちを捕まえておきたいと思って書いた曲なんです。こういうことは「ローヌの岸辺」に限らず、いろんな場面であります。
──自分の中でモヤモヤしていたものから出口が見えた瞬間、解放感を得たときに曲ができることが多いんですね。
そうです。そのときの気持ちを閉じ込めることで、そこにアクセスしやすくなるためのツールになるというか……その“気付き”を曲にしていくことで、精神状態がそこに近付いたときに「こうやって解決したんだ」ということを思い出すための装置として役に立つんです。
──ああ、なるほど。セルフヒーリングとしての意味もある?
そういう一面はありますよね。それが人に喜んでもらえたりすると最高だし、自己肯定感につながっていきます。
──リスナーの存在は曲を作る過程のどの段階で意識するものなんですか?
レコーディングのときには間違いなく意識するんですけど、曲作りの段階で意識するかは曲によります。自分のために作る曲もあるし、自分の曲を聴いてくれている人のために作る曲もあるし、友達や家族に向けた曲もあるので。
自分にとっての“他者”
──今回のアルバムはどういう曲が多いと思いますか?
このアルバムはいろんな曲を入れて被らないようにしています。セルフヒーリングになっている曲もあれば、身近な人に歌った曲もあるし、全世界に向けて歌っているものもある。なるべく自分のイメージが重ならないものを選んでいきました。
──それは“旅”がテーマの作品だから?
そう、“旅”だから。
──それはすごく腑に落ちる話ですね。いろんなシチュエーションに応じて作られた曲たちが総体として人生という旅を表している。
表せられたらいいなあと思いながら作ったところはありました。結局いまだにちゃんとそれができているかどうかわかっていないんですよね。頭の斜め上あたりでそうなればいいなということを思いながらも、ずっと聴いていると細かいところにばっかり耳がいっちゃう。そのつもりで作っても、そうなっているかどうかはあんまりわかってないというか。でもこういうタイトルにしているので……。
──聴き手はそういうつもりで聴きますよね。
そう。それでまさしくそうだなと思ってくれたらうれしいし、よくわからないけどいいなと思ってくれてもいいんです。
──小山田さんの曲では“僕と君”や“君”という言葉をよく使われていますが、その対象は曲によって違うんですか?
曲によって違うんですけど、“僕”と“君”というのは自分と他者というような、そういう感覚がずっと根底にはあるような気がしますね。でも、具体的な誰かを思い浮かべていることも多いです。
──ご自分にとって“他者”とはどういう存在ですか?
それを言われると、確かに“他者”ってまとめられないですよね。1人ひとりに人格があるので。
──小山田さんにとって他者は自分という領域の外にいる存在なのか、それとも常に触れ合って重なり合って生きているという認識なのか、どちらなんでしょうか?
そういう意味では“僕”と“君”で分けている以上、自分とは違うものという部分があるんだと思います。ただそうじゃないときもあって、他者の意識によって動かされている自分もいたり。いい意味でも悪い意味でもなく、自分と他者が混ざり合っているような感覚もありますね。
アンセムを書いてみたい
──小山田さんはいわゆるアンセムと呼ばれる楽曲を意識的に作ったことはありますか?
ないです。でも、作りたいなあとは思います。andymoriに「1984」という曲があるんですけど、今のところそれが一番のアンセムじゃないかな。それもアンセムを作ろうとしたというよりも、アンセムに“なっていった”というところがあるので。
──このアルバムを聴くと、あくまでも自分という個人とその生活、身の回りのものにフォーカスを当てることに徹底している感じがしたので、アンセムを目指すということはあまり考えていないのかなと。
アンセムはないですよね。それはぼんやりと思っていました。
──それにも関わらず小山田さんの曲はみんなに愛されて共有されているじゃないですか。それはある意味で理想的な状態ですよね。個人的なことを歌っていてもみんなに自然に共有されている。
それはもちろんうれしいです。
──小山田さんのライブに来られるお客さんは一緒に盛り上がりたい、共有したい、歌いたいという意識が強いのか、それともじっくり聴いていたいという意識が強いのか、どちらなんでしょうか?
やっぱり聴いているんですかね。「1984」と「愛してやまない音楽を」という曲はお客さんに歌われることが多いし、そういう曲を書きたいと思ってるんですけど、その2曲もアンセムを作ろうとして作ったわけではなくて、気付いたらそうなっていたというだけなんですよね。書きたいと思ってはいても、意図的にはなかなか書けないです。
──チャレンジはするんですか?
アンセムを書こうとチャレンジをしたことも過去に何度もあったと思うんですけど、できあがるものはロクなもんじゃないというか。客観的に作るやり方が合ってないんだと思います。
──アンセムは聴く人をすごく意識しないと狙って作れないと思いますが、それができないというところは、小山田さんが内発的な衝動を重視する王道のシンガーソングライターだなと思わせる部分ではありますよね。
フォークソング的ですしね。でもアンセム書きたいと思ってるんですよ、ホント(笑)。
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“恥ずかしいもの”がある種の輝きを放っている