丘みどり「涙唄」インタビュー|演歌の魅力を次世代に伝える稀代の演歌歌手、その方法論に迫る (2/2)

丘みどりが見た演歌界の現実

──丘さんはその後ヒット曲にも恵まれて活躍するようになりましたが、下積み時代に辞めていく演歌歌手も現実には多いんでしょうか?

辞める人ばかりですよ。私の同期はたぶん20人くらいいたんですけど、残っているのは私ともう1人だけじゃないかな。みんな挫折して、ほかの道に進んでいくものなんです。かくいう私も例外じゃなく、何度も辞めようと考えました。でも本当に少ない人数ながら……10人もいなかったと思うんですけど、熱心に応援してくださる方がいたんですね。その方たちがいろんな現場に来てくれているのに、一生うだつが上がらないままだったら申し訳ないなと踏みとどまりまして。少なくともその方たちには「丘みどりの応援をしていてよかったな」と満足していただかないと、辞めるに辞められないと考えたんです。

──ファンを裏切るわけにはいかない、と。

とはいうものの、それにも限界がありまして。演歌歌手としてデビューしたのが21歳で、そこから10年経った31歳のときに「10年やって無理なんだから、これはもう無理だろう」と辞めることにしたんです。そのことは事務所にも伝えましたね。だけど契約期間が半年くらいは残っていたから、だったらもう思い出作りとして好き勝手やろうとMCでベラベラしゃべるようになったんです。

丘みどり

──逆にそれまでは持ち前のトーク力を発揮していなかったんですか?

妙な苦手意識があったんですよね。「あれを言ったらどう思われるかな?」みたいな恐怖心。でももう辞めるわけだし、そうしたら目の前の人たちにも一生会わないわけだから、「どう思われたっていいや」という一種の開き直りが生まれたんです。歌うものもどうせなら自分の好きな曲にしようと、それまでカラオケでは歌うけど人前では披露しなかった曲にもチャレンジするようになりまして。さらに大きかったのは「週刊ポスト」(小学館)の「美人演歌歌手」みたいな特集に載ったこと。5人くらい取り上げられた中の1人だったんですけど、その記事を読んだ東京の業界関係者から声がかかるようになったんです。

──崖っぷちから起死回生となりましたね。

そうなんですよ。それで東京に出てきて、今の事務所に入って、運命が開けていった感じです。大きなチャンスだというのは自分でもわかっていたから、「もう休みなんて1日もいりません! 毎日でも歌いたいです!」とマネージャーさんに伝え、スケジュールをパンパンに詰めてもらったんですね。それだけの頻度でキャンペーンを回っていると、結果的に同じ場所で1年に何度も歌うことになるんです。そうすると、前回からの比較がしやすいんですよ。同じ会場なのに、1回目は10人、2回目は20人、3回目は30人とか観てくださる方が増えていって。それが50人、100人となっていったとき、「もしかしたら、ちょっとは知られてきたのかもしれないね」ってスタッフさんと話したことは覚えています。

演歌歌手・丘みどりが聴く音楽

──追い風が吹く中、2017年には「佐渡の夕笛 / 雨の木屋町」が大ヒット。年末に「NHK紅白歌合戦」への初出場を決めます。

今の事務所に入ったとき、「紅白に出るために東京にやってきました。それしか考えていません」と私は言ったんです。「紅白ってそんな簡単に出られるものじゃないぞ」と笑われたけど、「大丈夫です。絶対に出ますから」って自分に言い聞かせるように話してました。それくらい紅白出場というのは演歌歌手にとって大きな大きな目標。だけど実際に出てみると、不思議なことに達成感よりも「もっと!」という気持ちが出てきたんです。また紅白にも出たいし、もっと大勢の人に知ってもらって紅白以外の夢も叶えたい。例えば私は今、アメリカ・ラスベガス公演を大きな目標にしているんですけど、それだって紅白に出場できたからこそ浮かんできた夢ですし。

丘みどり
丘みどり

──話を伺っていると、今までの演歌界にはない柔軟な発想を持っているようですね。

自分の枠にとらわれず、なんでもやってみたいんです。演歌というジャンルにも変にとらわれたくはないですし。「鬼レンチャン」では「こんなの絶対に歌えない!」という曲もあるけど、それでもがんばって練習したら歌えるようになることがわかりました。そこで視界が広がった面もあるかな。演歌歌手ではあるものの、普段のカラオケでは別に演歌ばかり歌っているわけでもないですし。

──そうなんですか!

普通に流行りの曲……Adoさん、あいみょんさんの曲とかを歌っています(笑)。スマホに入っている曲も、こまどり姉妹からブルーノ・マーズまで超が付くほどバラバラ。移動中はそれをシャッフルで流すので、周りからは「おいおい……」って呆れられるんですけどね。でも私から言わせると、音楽にジャンルなんて関係ないんですよ。いいものはいいというだけの話じゃないですか。

──素晴らしい! 丘さんは演歌の伝道師として適任だと思います。

もちろん演歌ならではのよさというのも確実にあって、例えば歌を聴くだけで情景が目の前に広がるところ。その点はコンサートでも力を入れています。1曲を聴いたらドラマ1話観終わったような気持ちに、アンコールまでコンサートを観たら映画1本観たような気持ちになっていただきたいなって。

丘みどり

──演歌歌手って歌がうまいのは当然だとして、表現力や届け方がズバ抜けている方が多いですよね。

先輩方を見ていると、やっぱり皆さんお芝居が上手なんです。特に演技を習ったわけでもないのに、演じるということが自然にできていますから。たぶんそのへんは表現という意味で歌と通じるものがあるんだと思う。それを役者の方はセリフで表現し、歌手は声の強弱や情感の込め方で表現しているんじゃないですかね。例えば「会いたい」という思いを伝えるのに、どうしたらいいのか? 「会いたい」と言葉にしちゃえば簡単かもしれないけど、それで終わっちゃう。あえて「会いたい」という言葉を使わずに、歌の中で会いたい気持ちを表現することで余韻が残るんです。

オンラインからリアルにつながる丘みどりワールド

──先日2月7日に発売日を迎えた16thシングル「涙唄」はどんな曲になりましたか?

これまで私の歌う曲は、時代背景や舞台が特殊なケースが多かったんです。描かれているテーマが、例えば花魁の女性だったり、佐渡で待つ女性だったり。「涙唄」は現代に生きる女性の歌なので、そういう意味では私の中ですごく新鮮に感じます。一生懸命生きていたら誰でも経験するような心の叫び。あるいは「自分の人生、このままでいいのかな?」というぼんやりした焦燥感。そういったことが主題になっているので、現代を生きる多くの方の心に刺さるんじゃないかと思っています。

──確かに歌詞では、ずっしりと重い世界観が展開されています。

設定としては、仕事が終わってからおうちに帰り、お化粧を落とし、缶ビールを飲んでいる女性なんですよ。ですからほかの誰かを演じきるというよりは、できるだけありのままの自分を出して歌っています。

──ところで今はApple MusicやSpotifyなどのサブスクが浸透しているので、外国から演歌を聴くファンもいるのでは?

そのパターンは実際に増えているんですよ。この前、川口(埼玉県)でコンサートをやったときも、日本語があまりお上手じゃない白人の男性がチラシを握りしめながら「これを観たいので、チケット売ってください」って感じで来たそうですし。それから今、私はX(Twitter)、Instagram、TikTok、YouTubeと節操なくやっていますけど、SNSをきっかけに私のことを知ってくれた人も本当に多いんです。

──ニコニコ動画で配信している「スナックみどり」なども、構成は完全にバラエティ番組ですよね。熱心なファンじゃなくても楽しめる内容だと思います。

そこは意識しているポイントです。今の時代、どこで何が引っかかるかはわからないじゃないですか。例えば私は自分のYouTubeに山登りの動画をアップしているんですけど、「なんで演歌歌手が富士山に登ってるの?」と疑問に思う方もいるかもしれません。だけど一方で「みどりちゃんが旅番組でおいしそうにごはんを食べている姿を観て、ファンクラブに入りました」と言われることもあるんです。阪神タイガーズの応援歌に参加させていただいているのも、球場で「なんか着物の女の人が『六甲おろし』歌っているけど、これ誰?」って少しでも興味を持ってほしいからであって。入口はなんだっていいから、とにかく演歌に少しでも触れていただきたいんですよね。

──演歌界に新風を巻き起こす丘さんの活動について話を伺ってきましたが、逆に演歌の伝統で守っていきたい点はありますか?

名曲は時代を超えると思うんですよ。絶対に色褪せることがないですから。私が生まれる前の時代の曲でも、聴いていて素晴らしいなと心が震えることがたくさんあります。幸いにして私は人前で歌わせていただける立場なので、そうした名曲の数々を次世代に歌い継いでいきたいと考えています。

丘みどり

プロフィール

丘みどり(オカミドリ)

1984年7月26日生まれ、兵庫県姫路市出身の演歌歌手。民謡の才能を祖母に見出され、地元の教室で磨きをかけた。民謡コンクールで次々と優勝し、11歳でその道のスターに。その後秋田や岡山へレッスンに通い、演歌歌手への夢を膨らませた。18歳でアイドルとして芸能界入りし、バラエティ番組での活躍も見せる。しかし、再び歌手への道を歩む決意をし、専門学校でのトレーニングを経て、2005年に丘みどり名義での初シングル「おけさ渡り鳥」で歌手デビュー。母の病気を経て、2006年には一時活動休止を余儀なくされるが、母の遺志を継ぎ、歌手活動を再開した。2007年以降は連続でヒットを飛ばし、2016年に上京。キングレコード移籍後初となる2017年のシングル「霧の川」で再ブレイクを果たす。2024年2月にシングル「涙唄」を発表。現在でも亡き母との約束を胸に、情熱を持って歌を歌い続けている。