原田知世「原田知世のうたと音楽」特集|14歳の少女が駆け抜けた40年、うたと音楽の軌跡に迫る (2/3)

やっぱり間違っていなかった

──慶一さんプロデュースのアルバム「GARDEN」「カコ」「Egg Shell」を経て、その流れとクロスフェードするように1996年からはスウェディッシュポップ期がやってきます。そこも今と地続きではあるのですが、原田さんの音楽人生において大きな転換期ですよね。慶一さんとトーレ・ヨハンソンさんが収録曲のうち5曲ずつを手がけた1996年発表の「クローバー」を皮切りに、「I Could Be Free」「Blue Orange」と、トーレさんプロデュースのアルバムが続きます。

トーレさんと組んでからは一般的という言い方は変ですが、もっと開けたところに自分の音楽が届いたという印象がありました。この時期は「ロマンス」をラジオでよくかけてもらったことが大きかったと思います。

──確かに、この時期に「ロマンス」のヒットでアーティストとしての原田さんに注目した人は多いと思います。日本と海外のポップスがシンクロしている面白い時期に、特に面白いことをあの原田知世がやっている!という印象でしたね。

慶一さんの時期はマニアックなお客さんも来てくださって(笑)、トーレさんによっていろんな音楽を積極的に聴いている人たちが「あっ、今はこういう音楽をやってるんだ」と気付いてくれた。ライブのお客さんも若い方が増えたりして。

──慶一さん時代の後半からトーレ時代にかけて、それまでのボーカルにエコーの効いた幻想的な雰囲気から、生々しいリアルな肌触りの音処理に変わった印象もあります。そして2007年の「music & me」(2007年11月発売の17thアルバム)を機に、現在まで続く伊藤ゴローさんのプロデュース期がやってきますが、ここからリズムを抑えたアコースティックな楽曲が増えて、ボーカルもさらにむき出しな質感になっていきますよね。ご自身の中で歌声の扱い方に変化があったんですか?

そうですね。ゴローさんとは「on-doc.」という歌と朗読のイベントをやっていた時期がありました。2人きりでギター1本と歌しかなくて、絶対に助け合わないといけないような状況でのライブなのですが、それをいろんな環境でやらせてもらったんですね。その経験が人前で歌うこと、声を出すことの学びの時間になりました。ゴローさん、トーレさん、慶一さん、それぞれタイプの違うプロデューサーですが、お三方ともアーティストの声質をすごく聴いている、理解しているという点では共通していると思います。その中でゴローさんは、ボーカルにいろんなものを被せないで本来の声を出していくタイプなのかな。楽曲によって毎回マイクを選び直したりはするんですけどね。そのあたりは相談しながら進めています。

──オールタイムベストは、そういった時代ごとの変化を意識しながら聴いてみるのにうってつけですね。

はい。自分でも驚く瞬間がありました。それに、過去の作品を改めて聴いてみて、そのときどきで自分なりにベストを尽くしてやっていたんだなって(笑)。目標に届かないことばかりだったけど、それでもがんばってる。私はシンガーソングライターのようにすべてを1人でやれるわけではないから、今改めて“歌う”ということをすごく大事に思っているんです。そうすると「誰と一緒に組むのか」に尽きるし、このお三方と一緒に楽曲を作れたというのは本当に大成功で、やっぱり間違っていなかったんだなと思いました。

──「恋愛小説2~若葉のころ」(2016年5月発売のカバーアルバム)あたりからビートの強い楽曲も増えて、ゴローさんの傾向にも少し変化があるのかなと感じています。

ゴローさんは計り知れない何かを持った方です。例えば「時をかける少女」をゴローさんはこれまで2度アレンジされているのですが、何度も同じ曲をカバーするのはすごく難しいじゃないですか。ゴローさん自身も「うーん」と頭を悩ませているのに、結果いいものが必ず出てくる。それはゴローさんの中に「同じことをやろう」という気持ちがないからだろうし、年齢を重ねながらまだまだ進化しているんですよね。たまにゴローさんがほかの人に「(原田に)無茶振りをしても結局できたりするんですよ」みたいなことを話していることがあって。私は単純にゴローさんからいただく課題が面白くて挑戦しているだけなのですが、いつも小さな刺激をたくさんもらっているんですよね。その中で少しずつ変化してきている部分はあるのかもしれません。

原田知世
原田知世

「もっと歌いたい」40周年を迎えても尽きない熱量

──今年3月にリリースされた最新オリジナルアルバム「fruitful days」には、川谷絵音さんや網守将平さんのような若い世代も参加していて、原田さんの音楽がまた新しいフェーズに入りかけているように感じます。

そうですね。40周年だからと言って懐古的になりすぎるのはよくないし、そういう面でこの先の予感みたいなものが必要かなと思ったんです。「fruitful days」は本当にいいバランスでいろんな年代の方々に参加していただきましたけど、どの人もカラーが違っていて魅力的なので刺激をもらいました。

──網守さんは1990年生まれで、原田さんのディスコグラフィと照らし合わせれば「Tears of Joy」と同い年です(笑)。世代は離れてますけど、彼が作曲した「邂逅の迷路で」は「GARDEN」に通じる世界観を持っていてびっくりしました。

確かに懐かしさがあるんですよね。それに歌っていて本当に気持ちがいい。初めてご一緒したのに「ずっと歌っていたいな」と思うような楽曲でした。

──絵音さんが手がけた「ヴァイオレット」が先行シングルとしてリリースされる際、原田さんは「これからの私の歌手活動において大切な一曲になるであろう、とても素敵なナンバーです」とコメントしていましたね。

絵音さんへのオファーは私からのリクエストです。以前から絵音さんが書く曲を歌ってみたいなと思っていました。絵音さんみたいに、ミックスボイスというか、高音と間の声をスムーズに行き来できるようになりたくて。それで「ヴァイオレット」を提供していただいたのですが、本当に大好きな曲だから、「この曲をもっとしっかり歌いたい」と思って、ボイストレーニングにも通い始めたんです。

原田知世

──おお。

ボイトレは前々からやりたいとは思っていたし、ちょうどいい先生に出会えたタイミングが重なったからというのもあるんですけどね。トレーニングを初めてみると、少し伸びしろというか、自分の可能性みたいなものがまだまだあるんだなと気付けたりもして。ただ、それで歌唱スタイルを大きく変えようというわけではなくて、喉をうまく使えるようになりたいから、技術的なところのレッスンを受けています。

──これからまだ進化しちゃうんですね。

年齢を重ねるとどうしたって体が衰えていきますよね。これから先、やれることが少なくなっていくとすると、そうやって何か訓練をすることで伸びしろを感じることができたらいいなって。それに、40代くらいまではそのときどきのがんばりでだいたいのことはクリアできたけど、最近は同じやり方だとダメなような気がしてきて。「今がんばれば~」みたいな考え方ではなくて、もう少し長期的に、ほどよくいろんなことを進めていく知恵を持たねばと考えているところです(笑)。

なんでもない日を幸せに感じられるように

──ちなみに音楽や俳優業以外で今一番興味のあることはなんですか?

ゴルフです(笑)。

──ゴルフ!? すごく意外な回答でした。いつからやってるんですか?

50代になってから始めたのですが、難しくて難しくて、全然上達している実感がないんですよ。それでも4年くらい経ってみれば、昔のスコアと比べると確実に進歩していて。そこに自分の伸びしろを見つけたんです(笑)。ゴルフは自分と向き合うスポーツだと思っていて、それが仕事と似ている部分もあるからすごくいいなと。その発見があったから「もしかしたら喉にも伸びしろがあるかも」と思えたところもあります。

──ゴルフはもともと興味があったんですか?

いえ、ゴルフだけは一生やらないだろうと思って生きてきました(笑)。だけど私よりも年上の女性の先輩が「ゴルフは年齢や男女関係なくみんなで楽しめるし、旅先でもできる。これから始めるんだったら一生やっていけるスポーツだよ」とオススメしてくれたんです。最初は「本当かな?」と半信半疑だったけど、気付いたらハマってしまって。なかなかうまくならないんだけど、だからこそ余計に追いかけてしまう。振り向いてくれない恋人を追いかける気分ですね(笑)。

──原田さんは一度何かを始めると徹底的にのめり込むタイプなんですか?

全然のめり込まないんですよ。そのはずだったのに、ゴルフは気付いたらハマっていて。なぜ私にとってそれがゴルフだったのか。そういうのも面白いですね(笑)。

──じゃあ原田さんにとってゴルフを始めるということは、かなりドラスティックな変化だったんですね。

そうですね。あとはあれかな。私は14歳から仕事があった人生だったけど、ここから先は仕事を抜きにして、自分自身として楽しむ時間を作ろうと考えています。なんでもない日に「楽しいな、幸せだな」と感じることができる日をいかに作っていくかってすごく大事なんじゃないかと。40代と50代とでは全然違う考えが芽生えたというか……長生きをするとかではなくて、元気で動ける時間に何をしようかと考えると、意外と時間がないことに気が付いた。なので今は「60代に向けて日々を大事に生きねば」と思っているところです(笑)。

原田知世

──「時をかける少女」でスクリーンデビューして以降、原田知世という人生を続けているというのは、一般人からすると想像もつかないというか……きっとものすごいプレッシャーを常に浴び続けながらの40年だったと思うんです。でも、今回こうしてお話を聞いていると、あまり重たいものを背負っているようには見えない。それは40年経って脱ぎ去ることができたのか、常に何か一定の距離を保ちながら活動してきたのか、どちらですか?

自分では、「いつ終わってもいい」 という気持ちでやってきて、気付いたら40年経っていたという感じなんです。それに私は、できるだけ背負わないようにしています。例えば何か1つの作品で高い評価を受けても、次の作品では集まる人も内容も違うわけで、そこでまたうまくいくとも限らない。だから毎回デビューの気持ちで臨むんです。そう考えると気が楽だし、いろんなトライもできると思っています。それに、自分の人生を仕事がすべてというふうにはしたくなくて、そうしてこなかったことが逆に仕事にもいい方向に作用しているのかもしれないですね。とは言っても、デビューからの40年を客観的に振り返ると、私の作品が誰かの青春の中に鮮やかに残っていて、私以上にその作品を観たり聴いたりして深く感じてくれている人がいるというのは、つくづく幸せなことだなと思います。昔は「10代の自分は恥ずかしい!」って気持ちもあったけど(笑)、今は本当にすべての出来事、すべての作品に感謝しています。

──今後、音楽活動でやってみたいなと考えていることはありますか?

うーん、バンドもやらせていただいたしなあ……。あ、誰かのアルバムにコーラスとかで呼んでもらえたらうれしいかな(笑)。