「ゲットイットPresents “はたらくこと、つくること”」|マツザカタクミ、廣田優輝、世一英佑、俵万智が語る「創作活動と仕事の両立」

手を抜いたら、短歌にも生徒にも失礼になってしまう

──俵さんは大学卒業後、神奈川県の高校で国語の教員をしながら短歌を作られていたわけですけど、仕事をしながらの執筆作業はどうでしたか?

 就職しても短歌を作り続けていこうという思いはありましたし、子供たちと触れ合う仕事をすることにも魅力を感じていました。なので教員をしながら短歌を作るのは充実していましたね。その結果、4年間高校教員として働くことができたんです。歌集「サラダ記念日」を出版したのは勤めて2年目の頃でした。

──学校で働いていたことが、創作に生きていると感じた場面はありますか?

 すごくあります。まず、子供たちと過ごす時間そのものが大きな素材になったので、学校を題材にした短歌はたくさん作りましたし、教員をやっていることが歌に対していい影響をもたらしてくれました。日本ってどちらかといえば“その道一筋”みたいなことをよしとする文化があるんですけど、複数のことをやっていると、特に働くことに関しては相乗効果があると思います。

マツザカ 高校の教員を退職される理由はなんだったんですか?

左から世一英佑、俵万智、廣田優輝、マツザカタクミ。

 「サラダ記念日」を出版したあと、2年間は学校の仕事と執筆活動を続けていたんですけど、どちらも量が増えてきちゃったんですね。教師の仕事というのは覚えれば効率がよくなるわけでなく、続ければ続けるほど作業量が多くなる職業なんです。それと同時に執筆したいことも増えていって、「短歌も好きだけど散文も書きたい」と思ったら、物理的に両立するのが厳しくなりました。このまま続けていくと、短歌にも生徒にも失礼になってしまう。じゃあどうしようか考えたとき、執筆業をメインにしたいと思ったんです。たとえばその頃「古典を現代語訳してみませんか?」という依頼があったんですが、さすがに時間が掛かるのでお断りして、あとで「ああ、もったいなかったな」と振り返ったり。そういうことがいくつか重なって、「これは潮時かな」と感じました。ただ教員も好きで始めた仕事ですので、今でも「自分がもう1人いたら教師も続けていたな」と思いますね。

世一 教員をされていたとき、周囲の理解はあったんですか?

 ものすごくありました。国語科の教員だった校長から「教員は過去の遺産である文学を子供たちに手渡すだけじゃない。あなたのように現在進行形で文学に関わっていることはすごく大事です」と言ってもらえました。それに教員仲間も私の書いた本を読んでくれたり、学校で取材を受けるときは朝の職員会議で「今日は文春が来ます」「おおー」みたいに盛り上がったりして。私が「学校を続けたいけど辞める」と言ったときも「我々のサポートが足りないんじゃないか」とみんなで話し合いの場を設けてくれたりして、すごくありがたい環境でしたね。

世一 俵さんが教員の仕事をきっちりやっていらしたからでしょうね。

 そこで手を抜いたらダメだと思いましたね。

世一 そうじゃなきゃ、絶対に同僚からの理解は得られないですから。

マツザカタクミ

マツザカ それは世一さんもしかりじゃないですか?

世一 確かに、小説を書く作業はゲットイットの仕事と直接関係しないので、もし僕が仕事に全力を注いでいなければ、周りの人は応援する気になれないはずです。「小説を書いている時間があるなら、ちゃんと仕事してよ」と思われたら、そこに応援の気配は生じない。自分としては「もらっている給料分、ちゃんと働けているかな?」とシビアに自問自答してますね。「小説を書いているから仕事が中途半端だな」と思われるのはカッコ悪いうえに、ゲットイットに対しても残念な行動になってしまう。でも、僕にとっては仕事のハリがもたらしてくれる恩恵のほうが大きいですね。

 まさにそうですね。2つやっているから力が半分になるのではなく倍にする。どっちかが手抜きに見えたら恥ずかしい。その緊張感が両方にいい相乗効果を生んでくれますよね。私が修学旅行の引率をしていたときの話なんですけど、その頃短歌で賞をいただいたのもあって「サインをください」と声をかけてくださる方がいたんです。でも「勤務中なのでごめんなさい」と断ったら、うしろから生徒が来て、私の肩をポンと叩いて「やるじゃん!」と言ってくれたのを思い出しました。

マツザカ すごいなあ。子供もちゃんと見ているってことですね。

 そのときに私が浮かれてサインをしていたら、生徒からの見られ方も変わっていたと思いますね。そういういい緊張感が大事ですよね。

無理してでも創作するのは恐ろしい

俵万智

──教員を退職されて苦労したことはありますか?

 私は浪人せず大学生になって、卒業後すぐ教職に就いたので、自分の人生はほぼほぼ学校を基準にして回っていました。そのため自分なりのリズムを作ることは大変でした。執筆の仕事は依頼主の都合でオファーが来るから、最初のうちは怖くてなんでも引き受けていました。でもそのやり方を続けているとパンクしちゃうから、フリーランスの仕事のコントロールはすごく難しいですよね。都合のいいようにまんべんなく依頼が来るということはまずないわけですから。やりたい仕事が来たタイミングに限ってほかのやりたい仕事と重なったり、余裕があるときは全然依頼が来なかったり。そのやりくりは大変でしたね。

──短歌だけで生活している方は、どの程度いらっしゃるのでしょう?

 今の日本には、短歌の創作だけで生活できている人はいないです。だって原稿料は数千円がほとんどですし、依頼があるのは年に数回くらいなので。逆に短歌で食べられない分、それだけ自由というか、わがままができるよさはあると思います。「スランプのときはどうするんですか?」と聞かれることがあるんですけど、私は「そうなったら作りません」と答えてます。恐らく短歌の創作だけで生活していたら、すごく苦しいと思うんです。締め切りに間に合うよう無理してでも作るとか、怖いじゃないですか(笑)。そもそも短歌は自分の心が揺れたとき、初めて立ち止まって生まれるものです。素朴な作り方ですよね。だから「毎月何十首書いてください」と言われたら、何十回も心を揺らさないといけない。

──ある意味、不自然な作り方になると。

 そうです。でも幅広くエッセイや文筆の依頼をいただけるのは、短歌を本業にしているからこそなんですね。そういう意味では「短歌で食べている」と言えるのかも。